「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

あえて短く 簡潔に

どんなに順調でも先行きが怖くなる。それか、自分が止まっているのではないかと恐ろしくなる。それでも、嘘をつくよりだいぶマシ。

 

器用な人などいない。どんなにしっかりとして見えるあの人だって、しっかりとしているがゆえに見落としているものがたくさんあるだろう。誰かの弱さを許すことだとか、自分の弱さを委ねる心地よさだとか。

だからもしこの場所にいるのが辛いのだとしても、ただ自分がこの場所に合うか合わないか、この場所がどんな傾向がある場所なのか、主流なのかそうじゃないか。ただそれだけのことだから、あなたは何も悪くないよ。絶対に悪くないと思う。

 

 

友達の子どもに会いに行ったらずいぶん大きくなっていた。2歳半ってこんなに話すものかと思った。

ニコニコ笑って、そして好き放題振る舞ってそれだけのようで、周りに優しくしたいと思っている。今は大人こそ、子どもを見習えばいいのかもね。

正直に申し上げますと

 

自分でこんなことを言っておいて、すぐ人の言葉に揺り動かされる。いや、気になってしまうからこそこんなことを言うのだけど。

「人の言うことも少しは気になるけど、それより自分が納得できるかどうかだから」ときっぱりと言えるあの子が羨ましい。

 

 

弱い自分が嫌になっちゃって、でもなんとか弱いままにしたくなくて足掻いてみるけど、やっぱり挫けそうになって転んでドロドロになってでも歩いている。

そんな人間を、

『メンヘラ』と、『病んでる人』と呼びたいのなら、そうすればいいよ。

あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。

あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。

 

 

・・・

 

 

「こんなことをやっていて何になるんだ」と思ってしまう自分と、それを思ってしまう時点でそうなってしまう(何にもならない自分になってしまう)ような気がして、頭に過ぎった瞬間に

『そんなことはない。自分最高』と言うようにしている。

 

最近、「ありのままの自分でいい、存在してるだけでいい」という価値観に大いに賛成しつつも、自分の場合は、

「ありのままなんかでいたら自分勝手でどうしようもない人間になるだけなので、ありのままで居たくないともがき続ける」というのがありのままの自分だ、ということに気付いてしまった。

 

なので気になってしまうことを、あんまり気にしないという矛盾を抱えたままいこうと思うのです。

 

・・・

 

変わってるとか変だ、なんて言われるけど

私自分ほどまっとうな人間いないと思ってる、正直。

曲も変わったもの作ろうなんて微塵も思ったことない。普通のものを、真ん中でポップなものを作ろう作ろうと必死です。

それでも変わってると言われたら、それはもう誉め言葉として受けとっておくことにしましょう。ごめん私は私が滲み出てしまうだけなんです。

「自分、変わってるでしょう?」と言うことを誇らしげに言う人だっているのだから。私は、どちらかというと みんなと何も変わりはないよ、と言われたら嬉しい。

願うことが許されるならば、比べることなく、優劣をつけることなく。

 

 

あーなんだか今日はいつも以上にとりとめのない文章になっちゃったな。

すべては台風のせいにしよう、台風のせいです!

そう、あなたのことよ

東北遠征、最高でした。

素晴らしい、と、ありがとう、の他に、一体どんな言葉を使えばいいんだよと思っていたら、主催の千葉ケイコちゃんも「言葉にしたら嘘っぽくなってしまうけど」というようなことを言っていて、同じ気持ちだなと思った。千葉ちゃんは本当に母みたいな人。みんなのお母さんみたいな人。オバチャンとかそういうことじゃなくて、本当に女性の母性のいい部分を集めて 本能で周りを包みこめるような温かすぎる人。

 

【感謝御礼】7.23 千葉ケイコ×オリハント共同企画「あぼんど」山形 エレキ酒場オリハント|せきららだいありー

【感謝御礼】7.24 「心に灯りが灯るまでvol.4」仙台Cafe B.B.|せきららだいありー

↑千葉ちゃんのブログ

 

 

とにかく人が暖かくて、私は自分の生まれた埼玉も今活動している東京も好きだけれど、何か人間の『質』というものが違うと感じた。

そりゃあ東北だっていろんな人がいるのでしょうけど、先週の郡山、そして山形、仙台とライブをして、東北の人々の『本質を感じ取る力』の純粋な鋭さをものすごく感じた。

 

ノリのよさ、ポップな心地よさ、切れ味の鋭いカッコよさだけではなく、「この人は何を伝えようとしているのだろう?」ということを、色眼鏡なしに、目にみえない感覚で感じ取ろうとしてくれている雰囲気。

私にとっては、”嘘がつけない”という緊張感と、そして”本当のことを歌っていいんだ”という安心感につながりました。

ヨソモノですけど私、東北が合ってるなと勝手に思っています。だからいつでもまた行きます。

安い高速バスが、意外と快適で早いどころか、ずっと景色を眺めながら音楽を聴いたり歌詞を思い浮かべたりするのに最高の環境だ、と気付いてしまったし。

 

すぐにまた会う約束をしたので、ちょっぴり切なくとも、悲しくはなりません。

二日間一緒だった千葉ケイコちゃん、キリンイヌ。

ちめちゃん(大立目朋子)、まっちゃん(まっと)、金子ヤスタカ氏、あっちゃん(パーカッション:アツシ)山形市オリハントのミキサンご夫妻、仙台カフェB.Bの店長ご夫妻。

まっすぐな目をしたお客さん。終演後に話してくれたお客さん。

ありがとうございました。こんな風にブログに挨拶を書くのは初めてだよ。これがミュージシャンのふつうのブログだよそうだよ。

 

*

 

もう一つ、私すごく勝手にだけど、東北が「これからの希望の地」だと思っているんです。

今日も幸せな出来事の後で浮かれてたら、悲しいニュースが流れて、最高だった!とか言っていられないなぁと、私はまたSNSで喜びを表現するのを躊躇ってしまうわけです。

 

で、そのニュースについての世間の言葉なんかや、最近の出来事とかも併せて考える。

私が見ているものは全体ではなくまたほんの一部分なのかも知れないけど、その『確かに存在しているその一部分』に思いを巡らせると、やるせない気持ちになることばかりの人は、私の他にもいるはずで。

それでも私たちは、

『それは自分とは関係のない誰かのせいだということで誰かのせいにして、誰かを悪者にし、自分が心地いいと思う=自分が傷つかないで済む考えの中に自分を落ち着かせて、そしてじきに忘れてしまう』のだと思います。

それは私たちが、『自分が傷つかないで済む考え』を繰り返していても、それで生きていける時間を長く過ごしてきてしまったがゆえの、『クセ』になってしまったことなのだと思います。

ラクチンなものは、ラクチン。車に慣れてしまったら徒歩が大変なように、わざわざ苦しい方法を選ぶというのは、なかなか出来る事じゃないので、当たり前かも知れません。

でも、何か大きなもの<世の中の流れ>的なものが 『ラクチン』なものにだけ流れるとしたら、それが必ずしも良いものだけにならないと、なんとなく気づきませんか。

車は便利だけどたまには歩かないと太るよね、と。

 

話を戻すと、東北の人達は『ラクチン』だけに身をゆだねては生きていけないことを、関東の私たちよりよっぽど感覚で分かっているのだろうと思います。

勝手に、偉そうに私が言えることではないかも知れないですが、それは、大きな悲しみを目の当りにし、それでも生きている人達だから、ではないかと思っています。

 

私もラクチンが大好きです、でもラクチンに溺れすぎて、周りが見えなくなってダメになりそうなときに、「ちょっと待って」と教えてくれるのは、東北の人なんじゃないかと。

これからの私たちに、希望を持ちこんでくれる存在なのではないかと、

勝手にそんなことを思っていて、すみません。

 

 

最後に、仙台で一番反響があった自分の曲、『100年後』の歌詞の一部をここに書き出しておきます。

ただ攻撃的で過激なだけ、ととられてしまうような気がしていたので都内のライブでは最近あまり歌ってなかったのですが、東北でとても好意的にとってもらえたというのも、そういうことだと思いました。

 

 

もう無関係でいられないよ、って言ったら 熱い人か左右どちらか扱い

 

あなたの興味いっぱいの新製品も いざというときガラクタだ

 

毎日気を張っていろ、なんて言わないよ

だけど関係ないようにみえる 時も土地も 地続きで続いているから

 

客観性をなくした私たちはそれでもまだ気付かない

それどころか、勇敢な人をみて悪口を書き殴っては自分の弱さをひた隠し

でもよくみて その弱さ、隠れてないで出てきちゃってんじゃないの

 

 

*

 

ほらもうわかったでしょ。

『正義』なんていうのはそれぞれにとって意味の違う言葉だから、もうそれを理由にするのはおしまい、ということが。

 

たった一つ正しいことがあるのだとしたら、一人も犠牲にせずに一人でも多くの「安心」を生み出すこと。

それ以外は、ただの自分の嗜好なのかもね。

たからもの

"何かを言おうとすると「じゃあお前はどうなの?」と自分に問いかけてしまって何も言えなくなる"という病にかかっているのですが、今日はリハビリのつもりで思ったことをそのまま書きます。書くのだ。とにかく。

 

苦しい。※私の苦しさなんてものは、次良いことがあればあっという間になくなってしまうような気楽なものですが とりあえず

今苦しい。

そういうときは、まるで”当たり前のことでしょう?”というように澄んだあの人の眼を思い出すのだけど、それでもまだ、苦しいのです。

 

『有名』という言葉をよく聞くようになりました。

それなりにですが、人前に立って何かやるようになったので、必然的に「有名なあの人と関わりがあった」とか「あの人は有名だ」とか…。よく聞くようになりました。

誤解しないで頂きたいのは、私も大概ミーハー野郎です。ええ!有名なあの人と!?とかよく言いますし 憧れの人に会えたら嬉しくてハートマークつけて図々しく寄っていきます。

 

だから全部が全部、ではないのです、ただ思うのです。

『有名』な人って、『有名なこと』がスゴイのではなくて、『有名になるほどに、何かを純粋に突き進めた』その事実こそが凄いのです。 (そうじゃなくて何がなんでもどんな手段を使っても名を馳せるぜ、という方のことは分からないので今は省きます。) 少なくとも純粋に、ミュージシャンだとか芸術家をリスペクトする、というのは、その事実について少しでも理解し、接するということではないでしょうか。

だからその『突き詰めた何か』のことを分かろうとするでもなく、ただ”輝く名前”に吸い寄せられて、自己中心的な自分の為の何かにそれを利用しようとしたり、神格化しすぎたりすることに、「その人の作品を見ていながら、なぜ」という気持ちになってしまいます。

仕方がないのかも知れませんね。それが私たち一般市民というものなのかも知れないです。私が憤ったって仕方がないけれど、今日の朝はそのことで体が重たくて仕方ないのでした。

 

あ、もう一つの病が発症してきた。

書き終えてしまうと、とたんにどうでも良くなって、人への公開を躊躇ってしまう病。でも今日は垂れ流すって決めたんですよ。

 

 

 

あの子が悩んでいる話を聞いて、私は何も答えられなかった。

いつだってそう、誰かの為になることを答えられたことなんてないんです。

でもちょっとだけ分かる気がするから、適当なことを答えたくなかったというのもあるんです。そして言いたかったんです、

「あなたのことをとやかく言う人や 決めつける人や 理解者のフリをして自分の手中に収めたいだけのやつもいるだろう。本当の善意さえも、あなたを傷つけることもあるだろう。だけど私はあなたを美しいと思う。こうだ、と決めつけるわけでなく、何か見返りを求めるわけでもなくて、ただただ事実として 美しいと思ったよ」と言いたかった。恥ずかしくてそんなこと言えないのだけど。

そのままで居て欲しい、なんて身勝手だ。本人は抜け出したくてもがいている。だけど少なくとも他人であって少しだけ近い私が思うのは、やっぱりそのままでいいんだよ、ということなのでした。

 

ああ。

上と下の話は、繋がっていないようで繋がっています。

人のことを気にして気にして気にして疲れたら、自分に戻りたい。没頭したいんですやっぱり。さようなら、だけどあなたの言葉はいつでも、私の宝物です。

誰も居ない

傷ついた、となんだか思った。とたんに何もかもがつまらなく思えた。

居心地の悪い空間。それでもそこは誰かにとっては素晴らしいものならば、私が関わらずにそっと立ち去ればいいだけの話。いやいや、この中でも、どんな中でも堂々と振る舞えるような強さが欲しいの、だなんて、欲張りな話かしら。

 

歴史あるものにも、皆が誉めたたえるものにも、私は今「何がそんなに良いのかしら」と冷たい気持ちになる。

歴史あるものは長い時間をかけても廃れなかったものなんだから確かな価値のあるものだし、皆が誉めたたえるものも、ちっぽけな自分に比べたらそれは勿論確かに良いものなんだろうなあと分かっている。でもそれでも今の私の心には何も響かない。

 

それは、私が変わればいいだけの話だ(向上心)、などと、それを私が受け入れるだけに器を広げられればいいのだ、と、思うことに疲れた。

 

私が今思うことは、まったく新しい気持ちなのです。

まったく新しい気だるさで、まったく新しい気恥ずかしさ。

歴史上の誰かともこの世に生きる誰かともまったく違うわ。

だから説明しようとなんてしないでくれ、ましてや説得だなんて。

 

そういうつもりで、そういうつもりで、今まで何度となく繰り返されてきたであろう試みで私は自分を守る。

 

二度とその場所には戻らない。

 

 

言い訳が長いだけなのです。

でも、私が私を守らなかったら、一体誰が守ってくれるのでしょう。

 

そしてこんなこと書いておきながら、女の強さは、「なんのことだったっけ」と数日後に思うであろう冷静な自分に、今の時点でもちょっと気が付いていることかも知れません。

過去、5月の出来事

相変わらずカッコつかないな。

今度こそ人生大逆転、超かっこいい自分になれると思っても、そんな期待はだいたい実現せずに終わる。

「地道に一歩ずつ行きなさい」ということなんだろうなあ、と思う。人の力を飛び道具にせず、一つ一つ、自分の手で掴み取りなさい、と。そういうことか?なんだか私の人生、いつも『大きすぎる期待』をすると、必ずあとにそれを打ち消すような出来事があるから、一歩ずつ地道に積み重ねたことの結果以外は認めないよ、調子に乗っちゃダメよ、と言われてる気がする。

ただそんなことを一体誰に言われているのか、と思う。

天か、神様か。人生か、運命にか。それとも自分が無意識のうちに『自分の力で一歩ずつ行きたいんです』と心の奥の奥の奥の方で思っているから、十段飛ばし位で進もうとすると転ぶようになってるのか、そういう風になっているのか。

 

見方を変えれば、「悔しい」と思っていることさえ、かけがえのないものなのかも知れない。悔しいと思えることさえ、悔しいと思う出来事が起こる自分の状況さえ。

それは、なんとなくわかってはいるけれど、やっぱり悔しいこともあるのでした。

 そしてそのことについて「ナニクソチクショウ」と思えば思うほどに、ああ、やっぱり私は私でしかないのかと思うのでした。

めんどうくさい人

夢が叶ったら、次の瞬間に死んでもいいか?と聞かれたら、良いよ、と言いつつもやっぱり生きるんだろうな、と思う。

だからいつでも、満足なんてしてんじゃねえ、って言うあなたの顔が浮かぶ。

 

 

 

 

休日に祖母とお金の話をした。祖父母が亡くなったあとの、遺産がどうのこうの。

私は、お金は最低限あればいいと思っている。ないと困るけど、お金のためだけに暮らしたくはないと思っている。読んだ本とか音楽とか、いろんなものの影響で、自分だけで富を溜めこむことは世界の循環を止め、自分も停滞させることになる、と考えているから。

だけどそれは、私が『恵まれている』から考えられたことなのかも知れない、とも思う。

東京にいる本物のお金持ちとは比べ物にはならないけど、それでも埼玉でそれなりに何不自由なく暮らしてきた自分だから、”そんなに深刻に考えずに居られたから”そう思えることかも知れないと。

 

自分自身のことには。性格とか、性質とか容姿とか。

足りないことばかり目について、足りていることは見落としてしまう。

 

与えられた環境においても。

足りないものには気が付くけど、足りてることには気が付きにくいのかも知れない。

 

だから近しい人でさえ、金銭的に苦労してきた人の前では、「お金なんて重要じゃないよ」とは言えない。その人の意志を決めるのが『経験』だけではなかったとしても。たとえば『人生でお金が最も大事だよ』という人がいたとして、苦労してきたからという理由だけでなく、元々のその人の性質もあるかも知れない。でもそれは本当のところは分からない。

だからこそ『恵まれてきた』私に出来ることは、そんな人達に遠慮して自分が思うことに対して口を閉じるのではなく、自分の環境を充分に自覚したうえで、それでも思うことはきちんと言葉にすることだという気がしている。

 

何もお金に限ったことではなくて、たとえば自分とまったく違う考えの人に対して。 犯罪を犯した人に対して。普通の人に対して。

生きていく上で関わった人達すべてに対して。すべての人どころか、たった一人にすらなり替わることはできないのだけど、だとしたら自分も「誰もなり替わることができない」一人の自分なのだと。

 

良いことが言いたいわけじゃなく、ゴチャゴチャしてきた。

 

最近ずっと頭の中が熱い。うーん。

冒頭に戻る。

何か嬉しいことがあって、私はある意味ではもう夢を叶えてしまっている。

それでもなぜか、ここで終わってしまったら その夢も縮んでしまうような感覚がある。夢と便宜上呼んでいるけど、それは私が本当に望むものは、腐らずそこに居続ける事なのだから、何か達成しました!だからおわり!というものではないからだと、思う次第です。

 

 ※すみません文章の意味がよくわからないところがあったので一部修正しました。5/26