ほんの少し願うなら
祖母が言った。
「歌っていうのは、優しいものなんだから。
(人を傷つけ、追い詰めるのなら)歌う資格はないのよ」
核心をついたような言葉に私は驚いてしまった。
それは、いつも「いつまで歌ってるの?結婚は?」とか言ってくる祖母に、どうせ私の音楽などわからないだろうし、音楽なんてわからないだろうと無意識にどこかで思っていたのだと思う。
でもちゃんと考えを巡らせたら。戦争を、貧しい時代を経験し、身近な人の死や、長く生きてきた分だけの人間同士の軋轢など、様々な経験をしてきた祖母の世代の心を癒してきたのは、歌謡曲だったのだろう。あの、本当の『歌手』がたくさんいたような時代の音楽を、生活の中で骨と肉に染みるほど、聴いてきたのだろう。
聞き手としてであろうが、私なんかよりよっぽど、歌に心が込められているかどうかを敏感に感じ取っているのだ、この世代の人達は。と分かった。私そこまで、想像できていなかった。
私は今まで、自分と違うものを「どうせわからないだろう」「わかっていないだろう」と思ってはなかっただろうか。
自分の表現するものが高尚だと信じるプライド、高潔な精神。そういうものは、歌であろうがなんだろうが持っていてしかるべきものだけど、願わくば、それに付けて『他者への優しさ』が、想像力があって欲しいと願ってしまう。
それさえ押し付けだ、傲慢だと言われても、私はここで密かに祈っているだけです。
また考えすぎたら、友人がふと言った
「頭で考えて作ったものより、心で作ったものの方が、なんだかストンと来るよね」
という言葉を思い出します。
私に足りないのは勇気ですか
「考えすぎだね
でもめいちゃんはこれからも考えるんだろうね
だからそのままでいいと思うよ」
考えに考えて、やっと「1~10」のどれが正しいか思い至って、
でも1~10のどれでもない場所に「考えない」という方法があったのだと、私はあの人に言われるまで気が付かなかった。
「考えない」とはどういうことなのだろう、感覚だけを頼りに、直感というものを手がかりにしていくことだろうか。心の赴く方にいくことだろうか、でも直感が鈍ってしまったら、私の場合、とんでもないところに行ってしまうのが怖くて、やっぱり考えてしまうよ。
とか言いながらまた考え始める。そんな簡単には変われそうにないけど、そのままでいいんじゃない、という優しい響きに救われている。
頭で考える事だけが全てじゃない。音楽なんかはまさに、「よくわからないんだけどあの人の歌を聴いてたら涙が出た」とかそういうことがある、その感じ。手で触れたときの感じ、なんとなく気分がいい感じ、寒くなってきた空気の中で日差しを浴びる時の、生きてるなあという感じ、むしろそっちの方がすべてだろう、と思う。説明なんていらないことのすべて。
そのことをもっと信じていたいのだ。頭で考えてこんがらがって、嫌な予感、悪い想像、そんなものに捕らわれるくらいだったら、目を瞑るように思考を閉じて、涙が流れそうなほど愛しい出来事と人々の方へ、自分を放り出しておけ。
失くしてしまいそうで怖いものなんてもうとっくに失くしてる。
まだまだ怖い、怖いから、頭で冷静に考えて怖い方まで行ってしまわないようにストップをかけているけれど、「大丈夫でしょ」って自分にストップかけず自由にいた方が、今からの私には素敵な出来事が舞い込んでくる気が、するわ。
*
何やら不穏なニュースばかり見ていると、なんとかしなくてはいけない、という焦燥感ばかりになる。時に世の中のことで。
だけど激しい焦りから何かを起こすよりも、大丈夫だよ、何もかも大丈夫だよ、と言う。
ちょっと慣れてきたら、楽しくできるよ、と、もっともっと慣れることができたら、弱く逞しくあろう、と言う。
そして自分がその通りの生き様で生きれば、そのことが、遠回りでも、なんとかしなくてはいけないことをより自然な方法でなんとかできる日が来るのではないかと思う、例え私が死んでからだったとしても。
崖のした
会社の契約を切られると知った時から妙にすがすがしい気持ち。
それは秋の爽やかな気候のせいかもわからないけれど、とにかく風が吹いてきたような感覚なのだ。たぶん強がりではない。
それは、なんだかんだ言ってビビリで安全な道だけを通ろうとする自分が「安心なレールに片足は預けていること」によって得られる安心感と、そして常に感じていた不自由さを手放すことによって、「もう私は、社会に上手く適合しようなどと考えることなく、自分の突き詰める真理のためだけに生きる準備ができた」と思うようになった。
勿論簡単なことではないだろうし、おそらく途中で「不安だよおおおお」と泣き出すと思うし(確実に)、この環境でさえも、恵まれたラッキーの上にあるのは承知している。それでも、それでもね、「これで私もロックンローラーになれる」と本気で思っている。
たくさんの、たくさんの情報があふれている(主にインターネッツの恩恵か)世の中において、いろんな声や情報や人々のざわざわする様子が、こんなにも目に見えるようになった。
それで思うのは、「誰もが、言ってることそんなに間違ってないし、全部いいんじゃない?」と思ってしまう。
それならば、どんな振る舞いをしてもそんなに悪いことじゃないって言うならば、自分はどこに指針を置けばいいのかしら?と考えた時に。
やっぱり自分は、『そういった細かい趣味嗜好を、超越した真理』に少しでも近づきたいと思った。
あなたが青が好きでも赤が好きでも、何かを間違ってると否定したくなっても攻撃的になっても、それでもいいんじゃない、あなたが見る世界からそれは、決して間違っていない。
ただ数年数日単位で変わっていく忙しい世の中に生きていたって、人間の本質が変わるのはあと何万年かかるの?
変わらないんだよ、そう簡単には。
だから雑音だらけで混沌としてる世界の中でも、
地球の核みたいな場所にある本当を私は知りたい。
嘘も、そんなに嫌いではないけれど。最後に本当を知りたい。
音楽をやっていて、素晴らしいことは「やっていなかったら出会えないような人と出会える」ということだけど、
さらに言うと、その出会った人達によってもたらされる「自分だけじゃ想像し得なかったものに出会う」ことだ。
それも、自分を磨けば磨くほどに。
怒涛の10月が終わり、
数週間前さえも遠い昔のようで、懐かしい。懐かしい人たちがいっぱいだ。
また会いましょう、お世辞じゃなく言ってるの、いつも文句してる現代文明、全部全部駆使してでも、また会おうよ、お世辞なんかじゃないのよ。
とりあえず明日、新宿ソウルキッチンでのライブが終わったら、大好きな東北に行ってきます。
野暮
あなたは上に行けば行くほど、野暮なことは言わなくなるのでしょうか。
私は未だに野暮なことを言い続けています。
だからあなたに近づけないのでしょうか。
いえ、それはきっと
時代なんです。
野暮なことでも、言い続けないといけない時代なんだと思います。
何も言わないあなたを美しいと思い、行間を感じさせるあなたの詩を美しいと思おうと
今このときこの時代に、あなたに伝えるのであれば
1から、野暮に思えるようなことから、隙間なく埋め尽くし、
話す必要があると思うのです。
あまりに多くのことに溢れているから。
あまりに多くのことに溢れている時代だから。
そんな私を、かっこ悪いと思いますか。
私がかっこ良かろうと、悪かろうと、
あなたが思い出してくれるのであれば、
それでいいのかも知れません。
野暮なことを叫び続けます。
岡林信康さん
『フォークの神様』岡林信康さんのライブを見に行きました。
偉大な先人に対して私なんぞが語れる知識などというものはないので、そのあたりは公式のBIOGRAPHYや、40台後半~50、60台位と思われるリアルタイムでのファンの方々の考察にまかせます(検索するとたくさん出てきます。ライブの客層もやはりその位の方が中心でした)
BIOGRAPHY - 岡林信康 - UNIVERSAL MUSIC JAPAN
ただ私は、今の自分で感じたことを言います。
いや、ほんとは言葉になんかできない。
「あの人は、こうだと思いました」なんて言うことはできない。やろうと思えば出来るんだけど勿体ない。
ライブを観て、多分自分が頭で思っているよりも、遥かに感じているであろう多くの感覚ことを、無理やり言葉に収めてしまうことが勿体ない。
もう既に『多くの輝く過去』を積み重ねてきて、今それら全てを飲み込み、なお未来に繋ぐであろう音楽が目の前にあった。それを感じる人々の数は、どこにいるか、どれくらいいるか、どのくらい影響を与えたのか、数字だけではずっと測れないだろう。時間軸や空間を、『人の心』というものを介して繋ぎ続ける。
とても私に掴みきれるものなんかではない。
だから今私がかろうじてしゃべることが出来るのは、私目線だけの狭い世界での一元的な偉そうな解釈ではなく、「私の気持ちはこう動いた」という、ただの報告だけなのだと思う。
前置きが長くなりましたが、
とりあえず4回は泣きました。とても感動しました。人生の中でもそうそうない位。
私はメラメラ燃えるような激しいものばかり好きになってしまいがちで、岡林さんにもそんな印象を持っていたけれど、そんな自分が根底からひっくり返るようなのに 否定せずにすむような、優しくおだやかでありながら 凛と燃えている、という両立。
たとえ岡林さん自身の人生、歌や、岡林さんの生きてきた私とは違う時代の歌であっても、人々と溶けあってそれはまったく違う世代の私の中にも切なくなるほどに染み込んでくる。
これはどういうことなのだろう。
これはどういうことなのだろう。
さっき『輝く過去』と書いたが、本人やそれを観てきた人からしたら全部が全部輝いてはいなかったかも知れない。若者が美化してそう思っているだけと思われるかも知れないけど、それでも『輝く』と言ったのは、
私は人間が暮らすというものが根本的に 自然なものである限り尊いと思っていて
自分が人間である限りは、遥かにどんな物よりも尊いと思っていて、
だからその尊い営みを 美化するでもなく、淡々と、そのままに歌うことを、
矛盾するけど、美化しないから美しい、と思ったことでそう書きました。
ああああ結局講釈みたいになってるけど、違うんだよ、私は曲の合間に岡林さんが話したことで、多分生涯忘れないだろうと思うエピソードがあって、
それはある北海道のライブハウスで主催者が「私は人生に疲れて自殺しようと思っていたときに ラジオから流れてきた岡林さんの曲を聴いて、生きようと思った。だから岡林さんは私の命の恩人なんです」と話したのに対し、岡林さんが答えたという言葉。
「あなたの命を救ったのは、私ではなく、私の歌を聴いて 生きようと思った、あなたの感性です。」
私は震えたよ。
そのあと「謙虚だと思われて、余計面倒くさいことになった」と笑い話に変えていたけれど。
私も、「まだ弾き語り始めて2年なんですぅ~」とか言ってちょっぴり自分に言い訳しながら、なんとか人前で歌を歌ってはいる。
そして何ならば、人が元気になればいいし、死にたい人が生きたくなればいいし、良い影響を人に与えたえられたら、なんて思っていたりはする。
だけどそうなんですね。 「元気になって欲しいというのは押し付け」、と言うほどにはそれは悪い感情ではないと思うけど、でもきっと、本当に人が救われるときというのは、「これで元気出してね」と差し出されたものからよりも、
誰かが自分を研ぎ澄ませて研ぎ澄ませて 感じ取った感覚が、他の誰かの感性にそっと触れたとき、なのだと。
「私の思う元気はこれだから、あなたもそれを感じてね」と言われることで助けられるときもあるんだけど、それよりも深い実感として救われるのは、「私と同じ人間がいたんだ」と心の奥底で分かることなんだと。
自分のためにやることが誰かのためになるということは、そういうことなんじゃないか。
そうして私は岡林さんの歌を聴いて、自分のことに、自分の周りのことに思いを巡らせる。
そんな私にとっては新しい脳みその一部分が開いたような感覚に、岡林さんは当たり前のようにまた話をする。
「歌を聴いて感想を言う人、その感想はその人自身の体調だとか、気分の問題であり、その言われたことを自分は気にしない」(要約です)
と。
私は、私は、私は。
素晴らしい音楽を聴いて、それでも私は「私は」と自分の物語につなげてしまう。
そう、だけどそれでいいんだよ。
自分の拙い歌詞が頭をよぎる。
『また悪口を言われたよ 悲しいセリフだけど 言葉は話す彼自身の物語さ 私登場しただけね』
『思っているより、私たちはひとつです』
【変わり者】斉藤めい
わかってたじゃないか、なかなかやるじゃないか自分、とか思いながら。
いろんな人がいろんなことを言うだろう、それをいちいち気にする。人間だから仕方ないさって、気にすることはないって言われても気にし続けてしまうけど、その「気にし方」を、「こんなこと言われた」と自分に対してじゃなくて、「この人の今の心境なのだろう」という想像力に変換したい。
そして自分は自分を研ぎ澄ませていく。周りのものをはねのけてしまうのではなく、そのままにしながら、とにかく走っていく。
走ることがいつか、誰かに触れて救いになるように祈りながら。
それに気づかせてくれたフォークの神様と、あの場所であの環境を作ってくれたライブハウスとその店長さんと、「若いのに珍しいね」なんて言って話しかけてくれた隣の席のお客さんと、全然本数がなく真っ暗な夜を突き進むローカルな電車という、人間の営みが色濃く残ったあの夜と、あの夜に至った全部に感謝を告げながら。
そしてちょっとだけ、それを感じ取ることができた、自分の感性をほめながら。
岡林信康 ♪ 26ばんめの秋(2010.10 朝日連峰大鳥池~以東岳) - YouTube
*
本当は書くのがもったいないような夜でした、歌詞にしたら何十曲分と作れるんじゃないか、と思ったけど、
大丈夫、それでもありあまるほどあるさ と思うのと、誰かに話したかったので、書きました。 笑
最後に自分の拙い歌詞をもう一つ。
『ああ なんでもたくさんあれば幸せ だと思ってる私が 本当に心から欲しいものは
作られて与えられたものではなく、あなたが繋いでくれたものなのよ いつだってね』
【不労所得】斉藤めい
あえて短く 簡潔に
どんなに順調でも先行きが怖くなる。それか、自分が止まっているのではないかと恐ろしくなる。それでも、嘘をつくよりだいぶマシ。
器用な人などいない。どんなにしっかりとして見えるあの人だって、しっかりとしているがゆえに見落としているものがたくさんあるだろう。誰かの弱さを許すことだとか、自分の弱さを委ねる心地よさだとか。
だからもしこの場所にいるのが辛いのだとしても、ただ自分がこの場所に合うか合わないか、この場所がどんな傾向がある場所なのか、主流なのかそうじゃないか。ただそれだけのことだから、あなたは何も悪くないよ。絶対に悪くないと思う。
友達の子どもに会いに行ったらずいぶん大きくなっていた。2歳半ってこんなに話すものかと思った。
ニコニコ笑って、そして好き放題振る舞ってそれだけのようで、周りに優しくしたいと思っている。今は大人こそ、子どもを見習えばいいのかもね。
正直に申し上げますと
誰かの発言に傷つくとき、相手に悪意がないとき、自分が過剰にその人に期待をしているのだと思った。
— 斉藤めい (@monbiri) 2016年8月9日
「こう言って欲しかった」なんて、そりゃ人が私の思う通りにいくわけないよな。上手く言葉にできないだけかも知れないし、私も大概、失言魔だし。
発言よりもその人自身を信用しよう今度からは。
自分でこんなことを言っておいて、すぐ人の言葉に揺り動かされる。いや、気になってしまうからこそこんなことを言うのだけど。
「人の言うことも少しは気になるけど、それより自分が納得できるかどうかだから」ときっぱりと言えるあの子が羨ましい。
弱い自分が嫌になっちゃって、でもなんとか弱いままにしたくなくて足掻いてみるけど、やっぱり挫けそうになって転んでドロドロになってでも歩いている。
そんな人間を、
『メンヘラ』と、『病んでる人』と呼びたいのなら、そうすればいいよ。
あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。
あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。
・・・
「こんなことをやっていて何になるんだ」と思ってしまう自分と、それを思ってしまう時点でそうなってしまう(何にもならない自分になってしまう)ような気がして、頭に過ぎった瞬間に
『そんなことはない。自分最高』と言うようにしている。
最近、「ありのままの自分でいい、存在してるだけでいい」という価値観に大いに賛成しつつも、自分の場合は、
「ありのままなんかでいたら自分勝手でどうしようもない人間になるだけなので、ありのままで居たくないともがき続ける」というのがありのままの自分だ、ということに気付いてしまった。
なので気になってしまうことを、あんまり気にしないという矛盾を抱えたままいこうと思うのです。
・・・
変わってるとか変だ、なんて言われるけど
私自分ほどまっとうな人間いないと思ってる、正直。
曲も変わったもの作ろうなんて微塵も思ったことない。普通のものを、真ん中でポップなものを作ろう作ろうと必死です。
それでも変わってると言われたら、それはもう誉め言葉として受けとっておくことにしましょう。ごめん私は私が滲み出てしまうだけなんです。
「自分、変わってるでしょう?」と言うことを誇らしげに言う人だっているのだから。私は、どちらかというと みんなと何も変わりはないよ、と言われたら嬉しい。
願うことが許されるならば、比べることなく、優劣をつけることなく。
あーなんだか今日はいつも以上にとりとめのない文章になっちゃったな。
すべては台風のせいにしよう、台風のせいです!