「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

どうぞ今年も

書くことも歌うことも なんだかなくなってしまったような気がしていて、でも本当は「なくなってなんかいるはずないだろう、ただ単に、頭、というか体が硬くなってるんだろうお前」と思って、

それでも自分を守るためなんだかなんだか、体はずっと硬いまま、どうしても起き上がらないといけないとき以外はベッドの上で過ごしていた。

 

そんなときは、誰かと話すこと。お風呂で身体をあたためること。そしてダメ元でいいよ、瞑想ができる動画とか流しといて、自分と向き合ってみる、というか自分の部屋の中でだけでも無防備に自由になること。そんな基本的なことなのかもしれない。ダメなときは、ダメだけど。

 

狂気さえもどっかいっちゃったの?と思っても、「誰にどう思われるかとか、恐れずにいけ」と許した時には『まだまだあるじゃん』な狂気が出てくる。

脳みそは100歳まで成長するとあの人が言っていた。

きっと私たちは、自分の頭と五感と直感と身体を使い続ける限りは、腐らずにいられるのでしょうね

 

自分に自信がないのは、過去のせいか、とは言っても誰もに話して同情してもらえるようなドラマチックな苦労をした辛い過去なんてものなどない。

ただ私は私の感受性を上手く扱えなかっただけだ、一番身近な存在である家族も、そんなことは分からないし、あの人はあの人自身のことで手一杯だっただろう。

 

まったくもってなんの問題もない。泣きながらでも、すべてはこれからです。

今年もよろしくね

「対自分のこと以外のすべては完璧だった日」というのは、どうしたらいいんでしょう。

 

自分の出来、のようなものについては悔しい思いばかりなんだけど、

出会った人や居た空間や、食べた料理に至るまで残りのすべては幸せだった場合の、自分の心の処理の仕方がわからない。

 

反省してしょんぼりしすぎるのも、浮かれすぎるのもちょっと違う。

どうせ悔しい思いの方は消えないんだから、そっとしといて、出会ったものにだけ思いを向けてとりあえず寝ようか。ときどき、寝てしまうことが唯一の解決になりうる。

 

私なんかまだまだまだまだまだすぎて、なのにそれを振り払うこともできないなんて、

どうかしてる、足りないものはわかっているのに、なぜか取りに行くことができないよ。

とか、いくらでもグチグチ言うことはできるけど、今日はそのことを、似た思いをしている人に話すことができたから、ちょっとスッキリもしている。

 

楽しかった。

私つまんないやつになっていないかしら。

(夜のせいなので)

面白い人っていいなあ。

なんだかおもしろい人を見ていると、私はマジメすぎるんじゃないかとか思う。

 

私だってあんな風に、時流と個性をちょうどいい感じにミックスさせて、

使える道具をすべて使って それでいて簡潔な、

すごいセンスのいい一言をつぶやいてみたい。

 

こんなこと言っている時点でなんだかできそうになくて絶望するわ。

もうあきらめていつも通り 垂れ流しておけばいいか。

垂れ流してでも人目に触れることをちょっと意識して組み立て直しつつ、

深刻でもなんでも なんだか最後はほんのり前を向いてるようであればいいよ。あーいいよいいよ大丈夫だよ。大丈夫って言ってほしいんだよ最後は。

 

私は自分で自分に「大丈夫?」っていつでも思ってて、なんていうか自分を疑うことのプロだから、もう自分で自分のことを何万回も「大丈夫?(大丈夫じゃないだろお前)」って言い続けてきたんだから、そろそろ「大丈夫!」って言ってほしいし自分でも自分に言いたいんですよ。いつでも自分に「大丈夫でしょ」って言えてきた人だったら「大丈夫?」って疑うことで何か発見できたりしてね 時々は大事だとは思うんだけどさ、私の場合はさ、物心ついてから自分に「大丈夫?」としか思ったことなかったから、もう一生分くらい使い切ったから、そろそろ「大丈夫!」しか聞かなくていいと思うんだよね。なんせ自分を疑うことのプロだったからさ、普通に自分に「大丈夫!」と言えてきた人とはちょっと事情が違うと思うんだ、「大丈夫!」しかもう聞きたくないんだ。そこんとこどうぞよろしくね。

 

ああどうでもいい、ほんとどうでもいいよそんなことなんて。

それよりも、こんなブログなのに月間百PVいきましたとかって毎月出てくるけど一体誰が読んでるんですか、なんでこんなブログ読んでるんですかね そこの変わり者のあなた 大好きですよ!!!

夜のせい夜のせい。

いつも遅い私は駆け引きなど知らない

私はいつも遅い。

 

誰かに何かを言われたら

二晩くらい

その言葉を反芻し、飲み込んで解釈し、

やっと理解できるのだ。

 

だからすぐに言い返さなくてはいけないディベートとか討論とかそういうのに、

とっても向かないだろう。

 

気が付くのも遅い。

みんなが当たり前のようにやっていることを

「あ、そうやればよかったのね?」と10年後に気づいたりする。

 

嫌になっちゃうよ。

言われっぱなし、

気が付いたら年をとっていました。

なんてことは、しょっちゅうよ。

嫌になっちゃうよ。

 

それでも、その瞬間に答えたことで

「ああ あんなこと言っちゃったな」と思うことはあっても、

二日かけて考えたことはあんまりそうはならない。

 

気づくのが遅くて気が付いたら年をとっていました、

だけどもう、今からは揺るがない。

 

そのことを誰が責められるっていうのよ。

だからこそあなたに出会えたし。

 

方向さえ間違っていないのなら

遅い私だって許したい、許すのよ

ほんの少し願うなら

祖母が言った。

「歌っていうのは、優しいものなんだから。

 (人を傷つけ、追い詰めるのなら)歌う資格はないのよ」

 

核心をついたような言葉に私は驚いてしまった。

それは、いつも「いつまで歌ってるの?結婚は?」とか言ってくる祖母に、どうせ私の音楽などわからないだろうし、音楽なんてわからないだろうと無意識にどこかで思っていたのだと思う。

でもちゃんと考えを巡らせたら。戦争を、貧しい時代を経験し、身近な人の死や、長く生きてきた分だけの人間同士の軋轢など、様々な経験をしてきた祖母の世代の心を癒してきたのは、歌謡曲だったのだろう。あの、本当の『歌手』がたくさんいたような時代の音楽を、生活の中で骨と肉に染みるほど、聴いてきたのだろう。

聞き手としてであろうが、私なんかよりよっぽど、歌に心が込められているかどうかを敏感に感じ取っているのだ、この世代の人達は。と分かった。私そこまで、想像できていなかった。

 

私は今まで、自分と違うものを「どうせわからないだろう」「わかっていないだろう」と思ってはなかっただろうか。

自分の表現するものが高尚だと信じるプライド、高潔な精神。そういうものは、歌であろうがなんだろうが持っていてしかるべきものだけど、願わくば、それに付けて『他者への優しさ』が、想像力があって欲しいと願ってしまう。

 

それさえ押し付けだ、傲慢だと言われても、私はここで密かに祈っているだけです。

 

また考えすぎたら、友人がふと言った

「頭で考えて作ったものより、心で作ったものの方が、なんだかストンと来るよね」

という言葉を思い出します。

 

 

 

私に足りないのは勇気ですか

「考えすぎだね

 でもめいちゃんはこれからも考えるんだろうね

 だからそのままでいいと思うよ」

 

考えに考えて、やっと「1~10」のどれが正しいか思い至って、

でも1~10のどれでもない場所に「考えない」という方法があったのだと、私はあの人に言われるまで気が付かなかった。

「考えない」とはどういうことなのだろう、感覚だけを頼りに、直感というものを手がかりにしていくことだろうか。心の赴く方にいくことだろうか、でも直感が鈍ってしまったら、私の場合、とんでもないところに行ってしまうのが怖くて、やっぱり考えてしまうよ。

とか言いながらまた考え始める。そんな簡単には変われそうにないけど、そのままでいいんじゃない、という優しい響きに救われている。

 

頭で考える事だけが全てじゃない。音楽なんかはまさに、「よくわからないんだけどあの人の歌を聴いてたら涙が出た」とかそういうことがある、その感じ。手で触れたときの感じ、なんとなく気分がいい感じ、寒くなってきた空気の中で日差しを浴びる時の、生きてるなあという感じ、むしろそっちの方がすべてだろう、と思う。説明なんていらないことのすべて。

そのことをもっと信じていたいのだ。頭で考えてこんがらがって、嫌な予感、悪い想像、そんなものに捕らわれるくらいだったら、目を瞑るように思考を閉じて、涙が流れそうなほど愛しい出来事と人々の方へ、自分を放り出しておけ。

失くしてしまいそうで怖いものなんてもうとっくに失くしてる。

まだまだ怖い、怖いから、頭で冷静に考えて怖い方まで行ってしまわないようにストップをかけているけれど、「大丈夫でしょ」って自分にストップかけず自由にいた方が、今からの私には素敵な出来事が舞い込んでくる気が、するわ。

 

*

 

何やら不穏なニュースばかり見ていると、なんとかしなくてはいけない、という焦燥感ばかりになる。時に世の中のことで。

だけど激しい焦りから何かを起こすよりも、大丈夫だよ、何もかも大丈夫だよ、と言う。

ちょっと慣れてきたら、楽しくできるよ、と、もっともっと慣れることができたら、弱く逞しくあろう、と言う。

そして自分がその通りの生き様で生きれば、そのことが、遠回りでも、なんとかしなくてはいけないことをより自然な方法でなんとかできる日が来るのではないかと思う、例え私が死んでからだったとしても。

崖のした

会社の契約を切られると知った時から妙にすがすがしい気持ち。

それは秋の爽やかな気候のせいかもわからないけれど、とにかく風が吹いてきたような感覚なのだ。たぶん強がりではない。

 

それは、なんだかんだ言ってビビリで安全な道だけを通ろうとする自分が「安心なレールに片足は預けていること」によって得られる安心感と、そして常に感じていた不自由さを手放すことによって、「もう私は、社会に上手く適合しようなどと考えることなく、自分の突き詰める真理のためだけに生きる準備ができた」と思うようになった。

勿論簡単なことではないだろうし、おそらく途中で「不安だよおおおお」と泣き出すと思うし(確実に)、この環境でさえも、恵まれたラッキーの上にあるのは承知している。それでも、それでもね、「これで私もロックンローラーになれる」と本気で思っている。

 

 

 

 

たくさんの、たくさんの情報があふれている(主にインターネッツの恩恵か)世の中において、いろんな声や情報や人々のざわざわする様子が、こんなにも目に見えるようになった。

それで思うのは、「誰もが、言ってることそんなに間違ってないし、全部いいんじゃない?」と思ってしまう。

 

それならば、どんな振る舞いをしてもそんなに悪いことじゃないって言うならば、自分はどこに指針を置けばいいのかしら?と考えた時に。

 

やっぱり自分は、『そういった細かい趣味嗜好を、超越した真理』に少しでも近づきたいと思った。

あなたが青が好きでも赤が好きでも、何かを間違ってると否定したくなっても攻撃的になっても、それでもいいんじゃない、あなたが見る世界からそれは、決して間違っていない。

ただ数年数日単位で変わっていく忙しい世の中に生きていたって、人間の本質が変わるのはあと何万年かかるの?

変わらないんだよ、そう簡単には。

 

だから雑音だらけで混沌としてる世界の中でも、

地球の核みたいな場所にある本当を私は知りたい。

嘘も、そんなに嫌いではないけれど。最後に本当を知りたい。

 

音楽をやっていて、素晴らしいことは「やっていなかったら出会えないような人と出会える」ということだけど、

さらに言うと、その出会った人達によってもたらされる「自分だけじゃ想像し得なかったものに出会う」ことだ。

それも、自分を磨けば磨くほどに。

 

 

 

怒涛の10月が終わり、

数週間前さえも遠い昔のようで、懐かしい。懐かしい人たちがいっぱいだ。

また会いましょう、お世辞じゃなく言ってるの、いつも文句してる現代文明、全部全部駆使してでも、また会おうよ、お世辞なんかじゃないのよ。

 

とりあえず明日、新宿ソウルキッチンでのライブが終わったら、大好きな東北に行ってきます。