「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

身体と精神

実家で18年飼っていた猫が死んでしまってから、ずっと考えている。頭で考えているというか、感じている、思っていることがある。

 

 

生きてるってことは身体があるってことなんだ。当たり前なんだけど。

そして哀しみも苦しみも怒りも、生きてるからあるのだと、「心は繋がってるから身体なんてなくてもまったく哀しみなんてないもんね♪」ってなってしまったら、それはもう死んでいるのと同じなのかも知れない、と思う。

その嫉妬も、寂しさも、弱さも、見栄も自尊心も、自分をかっこよく見せたくなっちゃうことだって、生きているからなので、

だからこのままでいいのだと。弱さや寂しさを塗りつぶしたり覆い隠したりしても消えてはくれず、余計に見つかりにくい場所に隠れて探すのが大変になっちゃう。

それを感じたままに、温めてみたり、なでてみたり、匂いをかいでみたり、静かに燃やしてみたりできたらいいんです。

 

って、『風の谷のナウシカ』を今っ更ながらにちゃんと読んで、(遅いけど遅いことなんてないんだ)なおさらに思った。

そしてやっぱり、ペチが教えてくれたのだと思う。

 

私羽根が生えて飛べそう、と思っても、地面に足をおろしてできること。

「羽根の方が早いじゃん」「地面を行くんじゃ遅いじゃん」と言われても、歩きたい地面。

 

 

 

自分で自分を狭めてみたりするな。

「私の歌は理解されないから、きっと”みんなのうた”にはならない」なんて言うな。

そんなもんじゃない、君の歌は、

思ってもみなかった場所で思ってもみなかった人に届くんだ。

向こう側にいるのは人なんだ。

受け取る”みんな”だってそんな心の狭いものじゃないんだ。

決めてつけてしまわないでくれ。

 

子どものロックフェス『ひこばえロックフェス』に出演したときに”子ども向けのうた”を考えてた私に千葉ちゃんが言った、「子どもは意外になんでも聴いてるよ」って言葉。

 

「今日のライブよかったね」「今日のライブいまいちだったね」、人からの評価に一喜一憂してた私に二宮さんが言った、「人が言うことを聞くより、自分を研ぎ澄ませていった方がいい」という言葉。

 

石巻でのライブで、地元の人がたくさん集まってくれたけど多くは「(店長と)友達だから呼ばれて来た」人たちで、たぶん音楽を聴きに来たというわけじゃなかったと思う、やっぱりライブ中はざわざわ話し声がしてて、「この人達が今楽しいのであれば、私の歌を聴いてくれなくたってそれで別にいいじゃないか」と思う気持ちと、やっぱり聴いて欲しかった気持ちとで、嫌では決してないけど消化しきれない感情になっていたときに、赤ちゃんを連れたギャルメイクの女性が、帰り際私に、「まじかわいい」とだけ、声をかけてくれたこと。その「かわいい」という言葉は、『私あなたと違う人間でちょっと分かんないとこもあるかもしれないけど でも歓迎してる、嫌いじゃないよ』っていうのがすべて詰まってる一言のような気がして、泣けてきたこと。

 

対象年齢とか、どこの層向けだとか、考えてそんな限定された決まりなんかで区切ってしまわないで。限定できないことばっかりだよ。

人や場所どころか、時間さえも超えるんだよ、あなたの歌は。

超勝手なことを言ってます、ごめん。 

 

全部自分の勘違いかも知れないと思って、また書いた文章全部消したくなってるけど、消さない。

恥をさらしていく、もう出し惜しみしない。

あなたとまた会えるのを楽しみにしています。何度言っても嘘じゃない。

画面のなかの人

隠しきれない弱さの中に  圧倒的な強さ
大衆がそれをみつめ 囃し立てようとも
とりつくろうこともなく
ただ命をまるごと使って表現をするということ
権力も何もない(あるのかも知れないけど、少なくとも私が彼女のその姿を見るときにはまったく関係のないところにある)、
たった一人の人間の力
 
に、
たとえ画面の向こう側であったとしても、強く強く心動かされる時がある。
最近ではそれは、二人いて、両方とも「まお」さんという方でした。
 
祈っています。
 
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ワンマンライブが終わりました。
うまい感想なんて書ける気がしない。
ただお客様に「めいちゃん、楽しそう、っていうよりも、幸せそうだった」と言われたこと、「明日死んでもいいやと思うくらいに嬉しく、こんな夜がまた来るのであれば絶対に生きたい」と思えるような夜だったということ、それでもうすべてです。
 
会いに来てくれた方へ、ありがとうございます。
あなたに聴いて欲しかったんだよ、という人たちが来てくれて、私はあなたに出会うために歌っています。
 
ベース木原さん、ドラム前川さんのリズム隊も最っっ高だったんですよ。
こういうバンドでやりたかった、と思っていた、奇跡みたいな組み合わせでした。
またやりたい。絶対やりたい。
 
最高に満たされ、夢なんてすべて叶ってしまい、それだからこそ、まだまだ出来るのだ、と思えた夜だったのです。
 
 
幸せになってはいけないのか。
ミュージシャンは不幸な方が良い曲がかける、良い歌が歌える、とかって、そんなのもう流行らないんだよ。幸せになっていいんだよ。楽しくなっていいんだよ。極限の状態で描かれたものが美しくとも、それ以外が美しくないのではない。受け取る側が受け入れさえすれば。
だから私は楽しく、幸せになるよ。
それが本当に良いかは、根拠などはない。それがいいような予感がする、そんな気分だからというだけ。根拠などはないよ。でも私が持ってる中で一番大事な感覚だよ。
幸せになるのも体力がいるんだよ。
不幸→幸せって、無条件に良いことのように思えても、それは「変化」でもあるから、変化するのは人間って怖いから、不幸→幸せであっても多分怖いんだよ。でも恐怖を乗り越えたら、多分なれるんだよ。だから、だからね。
 
 
 
大学時代からの親友であり、今はライターの坂口ナオ氏が
今回のライブレポートを書いてくれた。
こんなに熱のある文章で私を書いてくれたことが嬉しい。
自ら丸裸になるだけでなく、人にも丸裸にされたようで恥ずかしいながらも、
それでも読んでもらいたいと思う、最高のレポートです。
↓↓ 

 

産声

水の流れる音が聴こえる。

私は

私は、と文章を打とうとすると、立ち止まってしまう、私、を語る事になんの意味があるのかって思う。でも私は、って今日は言ってみる。

 

私はいつも何かあると、すぐに泣きたくなる、し、苦しくなってしまう。

たとえば真昼間の、誰がどうみても平和そのものの風景の中や、誰が見ても何の不自然さもなく せかせかと動いて 経済や何らかの歯車をスムーズに動かしているような人々の中でも。

それは子どもがお父さんに抱きかかえられているような暖かい光景を見たときでもあるし、誰かのほんの些細な言葉や態度で いわゆる『傷つけられた』ときも。

それは相手にとってはたとえ軽く肩がぶつかったくらいの出来事だったとしても、コップのギリギリに注がれた水のように、限界ギリギリまでピーンと張ったギターの弦のように、ほんの少しの衝撃で、もう溢れてしまう、切れてしまう。

傍から見たら「ほんの少し触っただけなのに、なぜ?」と思うくらいの出来事で溢れ出してしまうのは、自分の中でだけは常にギリギリだったから、溢れ出す直前のまま、常に居たから。

 

そんなことが苦しかった。

いつもギリギリの状態でいて、ほんの少しの刺激であふれ出てしまうものに、

「えっ、こんなことで??」「面倒くさ!」「今まで苦労したことがないんだよ」と言われたことが、何も言われなくとも少々冷ややかな態度になって避けられたことが、苦しかったし悲しかったし、悔しかった。

 

今なら、冷ややかな態度をしてきた人の気持ちも少しわかる。目の前の人が急に取り乱したなら、相手だって、取り乱す、もしくは自分の平穏を保つために否定したり、見ないようにするのは人間が自分を防衛するためというなら何も間違っちゃいない。

 

ただ私は私で、もがき泣いているところを見せれば誰かが何か言うことを聞いてくれるなんて思ったこともなかったし、ただただ何かに反応して、溢れ出てきてしまうものに対して、自分でもどう制御したらいいのかなんて分からなかった。誰かわかるなら教えてくれ、どんな方法でも試すから、と思ってた。汗と同じだった。暑かったら汗が出てくる、そのことと何も変わらないのに、なぜ涙だけは責められるのだろうと思っていた。

 

今はもう、結構上手くやれている。

動揺させてはいけない人たちがたくさんいる、たとえば職場とかで、どうしても張りつめていたものが誰かの何気ない一言や態度で切れてしまったとき。

トイレにこもって5分間、思い切り泣くのだ。そしたらなんだか頭がだんだん冷静になって、「誰もそんな責めちゃいない、自分で自分を責めるのさえ止めれば、誰もそんな私のことなんか責めちゃいない(そこまでの関心をもって言ってない)だろう」ってことに気が付いてきて、深呼吸して苦しい息を整えることができたら、化粧を直して外に出られるのだ。

誰も傷つけない、ということよりも何よりも自分自身が必要以上に傷つかない。

 

大人になっただろう、少女の私。

感情は変わらなくても、その対処方法はわかってくるんだよ。

だから私は今の私の方が好きだ。

どんなに若いときの方が肌がピチピチであったんだろうと、皺が増えようとシミが増えようと今の私の方が断然好きなんだよ。

 

でもね少女の私、顔をドロドロにして泣いたことを否定することもない。

なぜか私は今歌を歌えている。

人の前で歌うことは、人の前で裸で立っているのと同じような気持ちでいつもいる。

だからなんだかすべて見られたような気持ちになるから、必死になって声を出し切れば出し切るほど、なんだか真っ裸を見られた気になって恥ずかしさとどうしようもない気持ちでいっぱいになる。服を着た人たちの中で自分だけが裸。

だからと言って、中途半端に半分だけ脱いだだけでは、きっと見ている人たちも裸にできないだろうと思う。自分がまず先に裸になって、見ている人も肌色にしてしまえたら、そのときは何にも代えられない瞬間になるのかも知れない、と思う。

 

だけども少しためらったりしてしまう、「私が裸をさらけ出すことで、誰かの何かを脅かしてしまわないかな…」と思うと、まだ何かの制御がかかって、最後まで絞り出せない。

でもね、そう、少女の私が少しの感情の揺れでどろどろになるまで泣いたとき、

もうすべては晒されていた、丸裸の感情は、誰かの目に触れすでに晒されていたんだ。

 

だからもう怖がることなかれ、

それで誰かをまた傷つけるほど、「誰か」も弱くないよ。

 

だからもう、今の私よ、もうとっくに許すも許さないもなくこれでいい、このほかにない。

ただ心に触れたものに、涙の代わりに歌を歌え。

歌を歌うんだよ。遠慮なんてするな。

 

水たまりの音が聴こえる。午前3時です

空の箱

私は何も持ってないなあ、何も。

誰もが何かを持っているように見えてしまう。

私は何も持ってないなあ、と思う。

でもそれならゼロになろう、空っぽの箱になろう、

みんな私の箱の中にどんどんいろいろ入れていいんだぜ、

という希望のことを、無力な自分を責めて責めた先に、ふと思った。

追い風 向かい風

少しご無沙汰してしまいました。

引っ越しによりしばらくインターネットが使えず、スマホの小さい画面では(私の携帯はところどころ押せない個所があったりするもので)とても更新できず、って、そんなこちらの物理的な事情はともかくですね。お久しぶりです。

 

風通しのいい場所でこの文章を書いています。

心の風通しも少し良くなってきたところです。

 

放っておくと、自分はすぐ、理想の自分と今の自分との差に愕然として、一歩一歩でも少しずつ前に進んでいるんだよ、いくんだよ、ということを、すぐに忘れて 自分を責め始めてしまうタチのようで、いろんな人に指摘されてだんだん気づいてきました。どうやらだいぶせっかちで欲張りのようなんです。

全部のことは自分に責任があって、自分でどうにかしてやっていかなきゃいけないんだ、という思いも強いようで、だから助けてくれる人がいても「いや、自分でやらねば」と遠慮してしまったり、人に迷惑をかけるくらいなら自分でなんとかするんだ、とも思っているようです。

そのわりには出来ないことが多く、出来ないことを出来ないことで自分を責めてみては、頭がショックでフリーズして固まってしまい、それもはた目から見たら「何もしてないじゃん」と思われてるのかも知れないなとか、また自分責め、自分責めが好きなのか?という感じになる位には自分を責めてみては、「やっぱり自分はダメなんだ」とどこか安心しています。

 

ここまで書いたこんなことは、ほんとは誰に話すようなことでもない、ただの自己分析です。

 

そんな自分がそんな自分をどうにかするために、今、誰かに言ってしまいたいことは、「もっと頼りにしちゃってもいいですか?」ということなんです。大変おこがましいかも知れないですけど。

私多分、思ってるよりも遠慮してて(たまにすごい図々しいけど)、思ってるよりももっと誰かに頼りたい、と思ってるんだと思います。

頼りたいってそれは、何から何まであなたが私をサポートしてください、なんてことでは決してなくって、「これだけお願いしたいんだけど、どうですか?」と聞くだけ聞かせてほしい、ということなんです。返事がノーだってそれはそれでいいんです。ノーであること、イコール、”聞くこと自体が迷惑だった”とは考えたりせずに、とりあえずあなたに聞いてみてもいいもんですか、聞いてみる勇気さえ今まではなかったもので。ということです。

 

いつも常日頃、自分が自分で歌う歌に関しては「みんなどうせ分からないだろうから」、という不信感よりも「もしかしたら、いやきっと伝わるかも知れない」という信頼だけで全自分を解放しにかかろう、と思っているけれど、

相手の領域に少しでも踏み入れるようなことに関しては、とても臆病になってしまっていました。なので誰か目の前にいる人の優しさを、もうそろそろ、ちゃんと信頼したい。

 

そういうことなんです。何が言いたいかって、

6月17日、高円寺喜楽でのワンマンライブみんな来てくださいっていうことなんです。

結局宣伝かよって、そうなんです宣伝なんです。それが上手くできなかったので、これからはちゃんとあなたに「来てください!(良かったら)」って言いたいんですよ。

 

ずっと一緒にライブがやりたくて、でも忙しいだろうから…って遠慮したけどようやく一緒にできることになった人と、一緒にバンドとしてもやります。

 

変化することは、たとえ良い方に変化することでも恐ろしい。

そうやって出来てるみたいなんです、人間。

それでも、それでも恐怖ごと受け入れて、ごめん、私はずっと落ち込んでなきゃいけないわけじゃなくて、楽しくやれる方に向かっていきます、楽しくやりたいので。と思ってやっていきます。 またすぐに会いましょうね

 

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自分のこと

「人それぞれ、違うんだから」

当たり前のことだけど、結局のところいつもそこで躓いている。

人それぞれ違うから、だから考え方も、言葉の出し方も、全部違うだけなんだけど。

 

期待をしてしまう、わかってくれよと思ってしまう、

あなたにわかってほしいと思ってしまうんだよ。

 

 

こんなことを書くと「何かあったか?」と思われてしまいそうですが悪いことは何も起こっていなくて、ただひたすら「有難うございます」と言って回りたいことばかりです。どうしたら自分を研ぎ澄ませていけるのかと思ってばかりで、とても誰かの期待に沿えることばかりじゃない。それでも関わってくれることに、有難うございます以外に何を言えるかというんだ。

 

 

あの子が、正面から悪意に晒されてぶつけられたことを、愚痴りながらも、本人の目は傷ついてはいても その悪意に微塵も染まっていない様子を見ながら、「あなたなら大丈夫、絶対に大丈夫」、と心の底から思った。

人のことなら信じられる、自分のことも信じたい今からは。

 

 

溢れ出してくるのを待っている

溢れ出してくるのを待っている。

 

私は今、ライブをする以外には普通の生活をしていて、普通に過ごしていて、

曲ができないと、自分が停滞しているように感じたり、

前の仕事をクビになったときに大口叩いたわりには、結局は仕事をしないと暮らしていけないことに気が付いて、今ふつうに世間から”なるべく浮かないように”仕事をしていたりする。

などなど、特別でありたいのであろう自分と、実際の凡人の自分を比べては「私このままじゃダメなのかな」、「もっと何か行動をしないといけないのかな」と思い、焦り、どうしたら今を抜け出せるのかと途方にくれる。

 

でも私は本当に心から求めることを我慢していた(というか、自分は実現する方法を持たないと思っていた)ときは、「このまま死ぬのだけは絶対に嫌だ」と思っていた。

今は、そうは思わない、どんな瞬間でも訪れるなら訪れろと思う。

一番最初に私は自分を壊そうとした。だから「壊せ、壊せ」と歌ってた。

今はそんなに壊さなくていいんじゃないかと思う。自分を守ったっていいんじゃないかと思う。

 

今だって、くだらないものならばいつでもぶっ壊してしまえばいい、という狂気も持ち合わせていても、大事に積み重ねたものならば壊さなくてもいいんじゃないかと思う。

そしてもし壊すのならば自分のものだ。人を、人との関係を、人の大事なものをきっと壊してはだめだ。

 

毎日毎日生まれ変われ。

明日も大して今日と変わらない日々がたとえ続いても、私たちの心の中の精神だけは更新していくことができる、”脳は100歳まで成長する”。

同じようなところでぐるぐる回ってるように思えたって、それがトルネードだったらだんだん上がっているんでしょう。そう思わせてくれ、本当に良いことは、宝くじのようには訪れない。

それは毎日出会う味気ないように見える景色の中に、誰かの心の中に、自分の中に、何かひとつでも美しいものが見えさえすればいい、

美しいものが見えるかどうかは自分の中にある感性、感性だけが頼りです。

 

それを研ぎ澄ませたあとは、勝手に溢れ出てくるのを待つ、涙のひとかけらのような些細なものでも、研ぎ澄まされたときの自分にとっては宝物のようなものだから。

”思うままに”というのは、そういうことじゃないかと思う。