もう負けることはない
これからどんなことが起きても私は絶対に負けない。
それを覚悟するための様々な出来事よ。
何が起きようが、誰かに軽んじられようが、思いが伝わらなかろうが、仕組みに負けようが、うまくいかなかろうが、
全て、私が自分を信じられなくなることとは、関係ない。
出来事は、出来事で、私の中身とは関係がないのよ。
ようやくそのことがわかったので、もう迷うこともない。
いつもいろんな可能性を残してきたけど、今は言い切る。
にっこり笑って、はい、次の人生どうぞ、です。
ありがとう。
にぎりしめる
最近悔しい思いを連続して味わっている。
もうこれ以上の悔しさなんかない、と思った数日後にまた上回る悔しさを味わう。更にまた、味わう。
こんなに味わったからもういいじゃないかと、そろそろ報われるかもと思ってしまう。
でももしかしたら、みんなもっともっと、悔しい思いをしてきたんじゃないだろうか?
私が喜びを手にするのはまだまだ早いっていうんだろうか?と。
どんな出来事にも意味はあると、乗り越えられない試練はないと、本当かな?と思ってしまう、「おまえなんか価値はないんだよ」「おまえがやっていることは意味がないんだよ」という絶望に、押しつぶされそうになってしまう。
押しつぶされそうだ。
ライブをはじめたばかりの頃、いつも絶望におそわれていた。
「おまえが歌ったところで何になるんだ」「見てみろ、ガラガラで人のいないライブハウスだ」「誰もお前の歌のためなんかに時間は使わないよ」
そんな声が聴こえていた。
それは誰かに言われたわけではない。自分が自分自身に思っていたことが、自分の内側から聴こえたのかも知れなかった。
そんな声はもう聴こえない。
もし聴こえようものなら、自分の内側からも「そんなことはない」と自分で自分をかばう声が強く聴こえる。
そして、側にいてくれた誰かがすぐに思い浮かぶ。なんだか走馬燈のように浮かぶ、みんな、笑ってこっちを見ている。自分を否定するのはこの人たちを否定することになる、強い力でそれをさせてくれない。
今感じてしまう絶望は、最初の頃に感じていたものとはまた別のものだ。
今度は、自分自身がどうこう、というものではない。
自分が、自分を越えて信じているものが、もしかしたら間違っている、必要のない、意味のない、今の世の中に必要ないものなのではないかと思うことが怖い。
怖い怖い怖い。
でも絶対に、絶望に飲まれてなるものかと思う。
私の信じた希望が絶望に飲み込まれたとき、私は死ぬだろうと思う。
でも死ねないんだよ。
死ねないから、「おまえの思うことに価値はないよ」という絶望が襲ってきても、「そんなことはない」という希望を突き返す。突き返すんだよ。
だって私の信じた希望は私だけの希望じゃないよ。誰かにとっても希望のはずだよ。
私がそれを諦められないよ。
手放してしまおうかと思うくらいに苦しくとも、もう一度その手をにぎりしめてしまう。
もっと楽にも生きられたのかしら、と思う。
そんなに力入れなくても、気楽に暮らすこともできるでしょうか。
乗り越えたくて山に登っているのでしょうか。もしかしたら下っているのか分からない。
だけどどっかで何か、いつも何かを諦めていない。
まあ、でも、絶対負けない!!!と、力んでばかりいたら疲れちゃうから、たまには海にでも行ってのんびり黄昏てみたり、一週間くらい何もせずに休んでみたりすればいいんじゃないの?私よ。とも思ったり、する。
良い夏を過ごしてください、私もあなたも。
身体と精神
実家で18年飼っていた猫が死んでしまってから、ずっと考えている。頭で考えているというか、感じている、思っていることがある。
生きてるってことは身体があるってことなんだ。当たり前なんだけど。
そして哀しみも苦しみも怒りも、生きてるからあるのだと、「心は繋がってるから身体なんてなくてもまったく哀しみなんてないもんね♪」ってなってしまったら、それはもう死んでいるのと同じなのかも知れない、と思う。
その嫉妬も、寂しさも、弱さも、見栄も自尊心も、自分をかっこよく見せたくなっちゃうことだって、生きているからなので、
だからこのままでいいのだと。弱さや寂しさを塗りつぶしたり覆い隠したりしても消えてはくれず、余計に見つかりにくい場所に隠れて探すのが大変になっちゃう。
それを感じたままに、温めてみたり、なでてみたり、匂いをかいでみたり、静かに燃やしてみたりできたらいいんです。
って、『風の谷のナウシカ』を今っ更ながらにちゃんと読んで、(遅いけど遅いことなんてないんだ)なおさらに思った。
そしてやっぱり、ペチが教えてくれたのだと思う。
私羽根が生えて飛べそう、と思っても、地面に足をおろしてできること。
「羽根の方が早いじゃん」「地面を行くんじゃ遅いじゃん」と言われても、歩きたい地面。
*
自分で自分を狭めてみたりするな。
「私の歌は理解されないから、きっと”みんなのうた”にはならない」なんて言うな。
そんなもんじゃない、君の歌は、
思ってもみなかった場所で思ってもみなかった人に届くんだ。
向こう側にいるのは人なんだ。
受け取る”みんな”だってそんな心の狭いものじゃないんだ。
決めてつけてしまわないでくれ。
子どものロックフェス『ひこばえロックフェス』に出演したときに”子ども向けのうた”を考えてた私に千葉ちゃんが言った、「子どもは意外になんでも聴いてるよ」って言葉。
「今日のライブよかったね」「今日のライブいまいちだったね」、人からの評価に一喜一憂してた私に二宮さんが言った、「人が言うことを聞くより、自分を研ぎ澄ませていった方がいい」という言葉。
石巻でのライブで、地元の人がたくさん集まってくれたけど多くは「(店長と)友達だから呼ばれて来た」人たちで、たぶん音楽を聴きに来たというわけじゃなかったと思う、やっぱりライブ中はざわざわ話し声がしてて、「この人達が今楽しいのであれば、私の歌を聴いてくれなくたってそれで別にいいじゃないか」と思う気持ちと、やっぱり聴いて欲しかった気持ちとで、嫌では決してないけど消化しきれない感情になっていたときに、赤ちゃんを連れたギャルメイクの女性が、帰り際私に、「まじかわいい」とだけ、声をかけてくれたこと。その「かわいい」という言葉は、『私あなたと違う人間でちょっと分かんないとこもあるかもしれないけど でも歓迎してる、嫌いじゃないよ』っていうのがすべて詰まってる一言のような気がして、泣けてきたこと。
対象年齢とか、どこの層向けだとか、考えてそんな限定された決まりなんかで区切ってしまわないで。限定できないことばっかりだよ。
人や場所どころか、時間さえも超えるんだよ、あなたの歌は。
超勝手なことを言ってます、ごめん。
全部自分の勘違いかも知れないと思って、また書いた文章全部消したくなってるけど、消さない。
恥をさらしていく、もう出し惜しみしない。
あなたとまた会えるのを楽しみにしています。何度言っても嘘じゃない。
画面のなかの人
大衆がそれをみつめ 囃し立てようとも
とりつくろうこともなく
ただ命をまるごと使って表現をするということ
すごく久しぶりにブログ書いた。恋人もおらず、仕事もパッとせず、でも世間にひと泡吹かせたかった20代の頃の私が、彼女のライブを見てから戻ってきたようだ。
— 坂口ナオ (@skgc_n) 2017年6月18日
荒削りで瑞々しい野心を忘れてしまった大人達へ。斉藤めい初ワンマンライブレポートhttps://t.co/34LkPtJXgQ pic.twitter.com/cmcq1jkoAj
産声
水の流れる音が聴こえる。
私は
私は、と文章を打とうとすると、立ち止まってしまう、私、を語る事になんの意味があるのかって思う。でも私は、って今日は言ってみる。
私はいつも何かあると、すぐに泣きたくなる、し、苦しくなってしまう。
たとえば真昼間の、誰がどうみても平和そのものの風景の中や、誰が見ても何の不自然さもなく せかせかと動いて 経済や何らかの歯車をスムーズに動かしているような人々の中でも。
それは子どもがお父さんに抱きかかえられているような暖かい光景を見たときでもあるし、誰かのほんの些細な言葉や態度で いわゆる『傷つけられた』ときも。
それは相手にとってはたとえ軽く肩がぶつかったくらいの出来事だったとしても、コップのギリギリに注がれた水のように、限界ギリギリまでピーンと張ったギターの弦のように、ほんの少しの衝撃で、もう溢れてしまう、切れてしまう。
傍から見たら「ほんの少し触っただけなのに、なぜ?」と思うくらいの出来事で溢れ出してしまうのは、自分の中でだけは常にギリギリだったから、溢れ出す直前のまま、常に居たから。
そんなことが苦しかった。
いつもギリギリの状態でいて、ほんの少しの刺激であふれ出てしまうものに、
「えっ、こんなことで??」「面倒くさ!」「今まで苦労したことがないんだよ」と言われたことが、何も言われなくとも少々冷ややかな態度になって避けられたことが、苦しかったし悲しかったし、悔しかった。
今なら、冷ややかな態度をしてきた人の気持ちも少しわかる。目の前の人が急に取り乱したなら、相手だって、取り乱す、もしくは自分の平穏を保つために否定したり、見ないようにするのは人間が自分を防衛するためというなら何も間違っちゃいない。
ただ私は私で、もがき泣いているところを見せれば誰かが何か言うことを聞いてくれるなんて思ったこともなかったし、ただただ何かに反応して、溢れ出てきてしまうものに対して、自分でもどう制御したらいいのかなんて分からなかった。誰かわかるなら教えてくれ、どんな方法でも試すから、と思ってた。汗と同じだった。暑かったら汗が出てくる、そのことと何も変わらないのに、なぜ涙だけは責められるのだろうと思っていた。
今はもう、結構上手くやれている。
動揺させてはいけない人たちがたくさんいる、たとえば職場とかで、どうしても張りつめていたものが誰かの何気ない一言や態度で切れてしまったとき。
トイレにこもって5分間、思い切り泣くのだ。そしたらなんだか頭がだんだん冷静になって、「誰もそんな責めちゃいない、自分で自分を責めるのさえ止めれば、誰もそんな私のことなんか責めちゃいない(そこまでの関心をもって言ってない)だろう」ってことに気が付いてきて、深呼吸して苦しい息を整えることができたら、化粧を直して外に出られるのだ。
誰も傷つけない、ということよりも何よりも自分自身が必要以上に傷つかない。
大人になっただろう、少女の私。
感情は変わらなくても、その対処方法はわかってくるんだよ。
だから私は今の私の方が好きだ。
どんなに若いときの方が肌がピチピチであったんだろうと、皺が増えようとシミが増えようと今の私の方が断然好きなんだよ。
でもね少女の私、顔をドロドロにして泣いたことを否定することもない。
なぜか私は今歌を歌えている。
人の前で歌うことは、人の前で裸で立っているのと同じような気持ちでいつもいる。
だからなんだかすべて見られたような気持ちになるから、必死になって声を出し切れば出し切るほど、なんだか真っ裸を見られた気になって恥ずかしさとどうしようもない気持ちでいっぱいになる。服を着た人たちの中で自分だけが裸。
だからと言って、中途半端に半分だけ脱いだだけでは、きっと見ている人たちも裸にできないだろうと思う。自分がまず先に裸になって、見ている人も肌色にしてしまえたら、そのときは何にも代えられない瞬間になるのかも知れない、と思う。
だけども少しためらったりしてしまう、「私が裸をさらけ出すことで、誰かの何かを脅かしてしまわないかな…」と思うと、まだ何かの制御がかかって、最後まで絞り出せない。
でもね、そう、少女の私が少しの感情の揺れでどろどろになるまで泣いたとき、
もうすべては晒されていた、丸裸の感情は、誰かの目に触れすでに晒されていたんだ。
だからもう怖がることなかれ、
それで誰かをまた傷つけるほど、「誰か」も弱くないよ。
だからもう、今の私よ、もうとっくに許すも許さないもなくこれでいい、このほかにない。
ただ心に触れたものに、涙の代わりに歌を歌え。
歌を歌うんだよ。遠慮なんてするな。
水たまりの音が聴こえる。午前3時です
空の箱
私は何も持ってないなあ、何も。
誰もが何かを持っているように見えてしまう。
私は何も持ってないなあ、と思う。
でもそれならゼロになろう、空っぽの箱になろう、
みんな私の箱の中にどんどんいろいろ入れていいんだぜ、
という希望のことを、無力な自分を責めて責めた先に、ふと思った。
追い風 向かい風
少しご無沙汰してしまいました。
引っ越しによりしばらくインターネットが使えず、スマホの小さい画面では(私の携帯はところどころ押せない個所があったりするもので)とても更新できず、って、そんなこちらの物理的な事情はともかくですね。お久しぶりです。
風通しのいい場所でこの文章を書いています。
心の風通しも少し良くなってきたところです。
放っておくと、自分はすぐ、理想の自分と今の自分との差に愕然として、一歩一歩でも少しずつ前に進んでいるんだよ、いくんだよ、ということを、すぐに忘れて 自分を責め始めてしまうタチのようで、いろんな人に指摘されてだんだん気づいてきました。どうやらだいぶせっかちで欲張りのようなんです。
全部のことは自分に責任があって、自分でどうにかしてやっていかなきゃいけないんだ、という思いも強いようで、だから助けてくれる人がいても「いや、自分でやらねば」と遠慮してしまったり、人に迷惑をかけるくらいなら自分でなんとかするんだ、とも思っているようです。
そのわりには出来ないことが多く、出来ないことを出来ないことで自分を責めてみては、頭がショックでフリーズして固まってしまい、それもはた目から見たら「何もしてないじゃん」と思われてるのかも知れないなとか、また自分責め、自分責めが好きなのか?という感じになる位には自分を責めてみては、「やっぱり自分はダメなんだ」とどこか安心しています。
ここまで書いたこんなことは、ほんとは誰に話すようなことでもない、ただの自己分析です。
そんな自分がそんな自分をどうにかするために、今、誰かに言ってしまいたいことは、「もっと頼りにしちゃってもいいですか?」ということなんです。大変おこがましいかも知れないですけど。
私多分、思ってるよりも遠慮してて(たまにすごい図々しいけど)、思ってるよりももっと誰かに頼りたい、と思ってるんだと思います。
頼りたいってそれは、何から何まであなたが私をサポートしてください、なんてことでは決してなくって、「これだけお願いしたいんだけど、どうですか?」と聞くだけ聞かせてほしい、ということなんです。返事がノーだってそれはそれでいいんです。ノーであること、イコール、”聞くこと自体が迷惑だった”とは考えたりせずに、とりあえずあなたに聞いてみてもいいもんですか、聞いてみる勇気さえ今まではなかったもので。ということです。
いつも常日頃、自分が自分で歌う歌に関しては「みんなどうせ分からないだろうから」、という不信感よりも「もしかしたら、いやきっと伝わるかも知れない」という信頼だけで全自分を解放しにかかろう、と思っているけれど、
相手の領域に少しでも踏み入れるようなことに関しては、とても臆病になってしまっていました。なので誰か目の前にいる人の優しさを、もうそろそろ、ちゃんと信頼したい。
そういうことなんです。何が言いたいかって、
6月17日、高円寺喜楽でのワンマンライブみんな来てくださいっていうことなんです。
結局宣伝かよって、そうなんです宣伝なんです。それが上手くできなかったので、これからはちゃんとあなたに「来てください!(良かったら)」って言いたいんですよ。
ずっと一緒にライブがやりたくて、でも忙しいだろうから…って遠慮したけどようやく一緒にできることになった人と、一緒にバンドとしてもやります。
変化することは、たとえ良い方に変化することでも恐ろしい。
そうやって出来てるみたいなんです、人間。
それでも、それでも恐怖ごと受け入れて、ごめん、私はずっと落ち込んでなきゃいけないわけじゃなくて、楽しくやれる方に向かっていきます、楽しくやりたいので。と思ってやっていきます。 またすぐに会いましょうね