「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

新しい世界の幕開け

今年はありがとうございました。

ずっと前に出会ってくださった方も

今年出会えた方も まだ見ぬ方々も、良いお年をお迎えください。

 

2018年は、良い事がたくさんあると思います。

皆大吉!!!!!

 

クリスマスもお正月も、「はしゃぐのはカッコ悪い(なんとなく)」なんて思っていたけれど、

クリスマスにはラジオから流れる『クリスマスキャロル』の朗読と、ジョンレノン&オノヨーコの『Happy Christmas』を聴いて「わークリスマスって、人々の幸せと平和を願う日なんだ。なんて尊い日なんだ!!」と思い、

年末には、ライブ会場でよく顔を合わせる方々から『今年はめいちゃんと楽しい時間が過ごせてよかったよ。来年もよろしくね!』と声をかけて頂いて、「わーー1年の締めくくりって、出会った人々と改めてその喜びを確認できる日なんだ。いいなあ!!」と思い、

すっかりこの年末を満喫した気持ちです。

 

 

結局はね、そういう「はしゃぐクリスマス、お正月」への嫌悪、だったりするものみたいなものは、

「イベントとして、形だけ取り囲んではしゃぐ」ことがカッコ悪いと思うことからきてた(いや、本当にこれは斜に構えすぎなんだけど、ついついこういう考えに陥りがちだった)けど、

そこに人間の想いがちゃんと込められているのであれば、こういう節目節目の人との言葉の交し合いとか、祈りとか、とても大事だな、と思うのです。

 

もともとはなんで始まったものなのか、どんな人々がそこにいて、どんな気持ちを伝えてきたのか。

それさえ、思い出せればいいなと思います。

 

 

ミュージシャン的なことを言うと、年末にレコーディングをして、仕上がりが楽しみなものが録れまして、

来年皆様に聴かせられると思うと、それだけで未来(あと10分後の来年)に希望が持てます。

 

 なのでわりと本気で、全力で、

皆様の2018年がよいものになるようにここで祈っております。

 

 来年もよろしくお願いいたします。

 

逃れられないなら逃れようとしない

私から逃れられない。

 

もう何度も何度も何度も繰り返してきたことなんだけど、小さな疲れを積み重ねてしまっていた。

空いてる時間に曲が書こうとしたけど全然思う通りにいかないとか、良いライブしたぞ!と思って録音したものを聴きなおしてみたらあんまり良くなかっただとか、職場に行ったら自分の要領の悪さにイライラしたりだとか、

そういう小さなことが重なって、いつのまにか

「う~ん、どうしたらいいんだろう」って頭でばっかり考え始めてしまって、

頭を使う=実はものすごく体力を使うこと、であるのであって。(人によって体質とかで違うかも知れないけど、私にとっては明らかに、考えすぎてるときとそうでないときの消耗が違う。睡眠時間、テンション、食欲、何もかも。)

 

消耗して、気付いたら寝落ちしてしまっていたりだとか、それで「ああ、予定が思い通り進まなかった」と自己嫌悪をする、そして自己嫌悪にも頭を使うので、またより疲れるという負のループ。

 

ここから抜け出すにはどうしたらいいのか。

とか考え始めちゃうとまたループにはまる。

なので、効果があるとしたら、多分何かを、すっぱり止めることなのだと思う。

それは「やらなきゃ」「何かをやらなきゃ」という焦りを止めて、「今日は寝る、休む!」と諦めてそれを実行することなのだと思う。

 

そーーんな簡単なことをなぜ言ってるのか?と、思われる人もいるかも知れない。

だけどほんとにね、私にとってはとても難しいことだった。

 

多分、「やらなきゃ」「何かをやらなきゃ」という焦りを止めるっていうのは、

「自分、現状で結構うまくやれてるよ」っていう、ある意味『自信』みたいなものが必要なんだと思う。”今すぐ何かしなくちゃ”とか思わなくてもいいよ、一つ一つやればいいからね!という自分への自信もやさしさも余裕も、なかったのだと思う。

「お前現状じゃ何もないから早く何か成し遂げろ!」と、自分をいつも責めているのだと思う。

 

でもそれで体力も気力を消耗して、結局何もできずにいるのでは、非効率だ。

本当は自分は世界でたった一人の価値ある人間なのに!とかではなく、

ただただ、非効率だ。

効率が悪い。

 

昔からなんだか燃費が悪い。

最初から省エネできる人が羨ましい。

心からうらやましい。

 

「行動にうつせ!」ってさ、すごくよくわかるんだけどさ、行動する気力も余裕もないときはどうしたらいいのよ。

抜け出す方法は正直わからない。

だけどなんか今、私は書いてる。

書いてるってことは回復し始めてるっていう事なんだと思う。

ブログを書くペースが遅いのは、そういう、「ダメだと思ってるモード」のときは、本当にだめだ、だめだ…とかばっかり書いてしまって、それでボツにする。だめだ、のままで人目に晒してしまっても別に問題はないのかもしれないけど、私の場合はだめだ…で終わるのは嫌なので載せない。でも調子いいときはいいときで、立ち止まることなく動いてるから、ゆっくりブログを書く。とかしなかったりもする。

 

だから書いてるってことは、なんか辛かったけど、そろそろ大丈夫、っていう移行時期なんだと思う。そろそろ何か動き出せそうかも、っていう時期に書きたくなるんだと思う。

そういうことにしてる。実際そうだから、そうなのか、そういうことにするから、そうなるのか。

わからないけれど、少しずつ人に見せても大丈夫な自分になれてて準備運動みたいなもんだと思う。

調子悪い時期から、いい時期に移行してると思う。

そのことを、一体誰のためになるんだかはわからないけど、書きたかったんだと思う。

 

何もかも上手く言ってて調子いいぞ、と思うときと、自分なんか何もできないしダメなんだ…と思うときの、テンションの波の差が大きくて、本当に何なの?めんどくさいな自分…と思うけど、そんな自分から逃れられない。

なら、逃れようとしない方がいいのかもしれない。

ダメな部分をこそ、歌にして…!とかも、力んで考えない。考えなくても、出てくるときはきっと勝手に出てくる。

疲れてしまう原因が積み重ねなら、きっと元気になるのも積み重ねなんだと思う。

今なら、できそう。と思うときだけ、まず部屋を片付けよう。パソコンのファイルを整理して、昔の自分の音源とか聴いてみて「ふーん」とか思おう。

決められたことなんか何もできない。流されて流されて、いつも自分の感情に引っ張られているだけよ。なんでも、できるときにやるだけよ。

 

自分を肯定するなんて、ただの言葉よ。考えれば考えるほどわかんなくなるよ、「自分を肯定するって何???」。

肯定しようとして、「あなたはそのままでいいんだよ」、「じゃあ今現在、そのままでいいと自分に思えていない自分はダメなのか」ってなる位なら、どんな言葉もいらない。

言葉に助けられても、言葉にとらわれてはいけないんだと思う。

 

考えるな感じろ、というより

考えるな無になれ。

でも別に無になれなくたって、どうってことない、誰も責めない、死にはしない。

 

 

 

多分私たちはいつまでも、根本的には変わらないのかもしれないから、

今は、一番自分が苦しくないのが正解なんだと思う。

進化している - 「出てくるものだけ」

 

私の友達みんな媚を売れない

私の友達は、「嘘をつけない。いいと思ってないことに、愛想笑いなんてできない」という人が多い。

本人たちは悩んでもいるようだ、もっとうまく世渡りできたらいいのにと。

 

それでも八方美人な私はそんな彼女たち(彼ら)を美しいと思う。

 

なぜ美しいと思うのだろう。

私は、私の八方美人を「ラブ&ピースの為」(無理と言われてもなんだろうとなるべく多くの人にとってのその時間を肯定的なものにしたい)という強い無意識でやっている為、「八方美人」と悪い意味で使われることの多い言葉のわりには、それを悪いようには思っていない。

 

そしてなるべくフラットであろうとしている。

すると「好き」か「嫌い」かではなく、その間にある「グレー(普通)」みたいなゾーン、「好きか嫌いかなんて簡単に決めつけないぞ!」の幅がとっても広がってくる。

←←←←←←好き→→→→→→|←普通→|←←←←←←嫌い→→→→→→

だったのが、

←好き→→→→→|←←←簡単に決められないぞ、のグレーゾーン→→→→→→→|嫌い

 

みたいな。

多分許せるものは多いし、これでいいと思っている。

 

だけど、ときどき、「すべてをグレー」と思っていると、自分が揺らぐことがある。

あの人もいいよね、あの人もあんなところがいいよね。

あれ、でも、私が本当に美しいと思うものはなんだっけ。距離を置きたいと思うものはなんだっけ。

すべてをフラットで、平等に、自分の使える体力も、時間も、お金も、心の容量も、距離感も、全部同じでいいんだっけ。

美しいと思うものにはより近づき、苦手だと思うものからは自分の思う邪悪を学びそっと距離を置く。その方が何より「どこかの誰かのラブアンドピース」なんかより「何よりも自分に対してラブ&ピース(愛と平穏)」じゃないかい、と。

 

でも一人でいると忘れてて、マヒしてて、あれ、私何も感じない人間だったっけ、とか思う。

そんなときに、そういう友達が現れて、「器用に振舞えない」と言う。

 

あ、そっか、と、

私も、もっと好きとか嫌いとかはっきり言っていいんだ、と思い出すんだよね。

そしてそれは精神的にとても良い。

何も、好きなもの以外すべて拒否!までしなくてもいいから、

嫌い!無理!というのは一番素直な感覚で、防衛反応でもあるのだし、出てくるままでいいのかもしれないと。

それが分かれば、好きなものには「好きです!」とまた素直に言えて、腐りそうになっていた時間から目が覚めて、好きなものの近くにいたい、自分も混ざりたい、もっと好きと感じたい!と、なんというか、気力すら湧いてくるんです。

 

友達よ、ありがとう。

忘れてた感覚を思い出したら、歌もまた歌えそう。

いつでも鏡のようで、映った自分の姿をみることができた。

 

だから自分勝手でも無責任でもきれいごとでもなんでもどうでもいいから、どうかそのままでいて!!と思っている。

睡眠大好きなのに眠れないので文章を書こう。

なんで私たちは揺れ動くかについて。

 

「めちゃめちゃ絶好調だ!!」と思っていたと思ったら、すぐ次の日とか、下手したら1時間後とかに「自分はやっぱりなんてダメなんだろう…」とか思ってしまう。

ずっと好調ならいいのにさ。

晴れの日もあれば雨の日もあるよと言われても、やっぱり下がっているときがつらいんだよ。下がっている最中は、また上昇するなんて信じられなくて、絶望してしまう。

いや上昇すると頭ではわかってるような気がするんだけど、感覚的にはまったく忘れてしまうと言ってもいい。夏の暑い日に、冬には自分がコートを着てるなんて考えられないように、頭では知ってるんだけど身体的には「すっかり忘れてる」ように、その季節に完全に適応してしまう。

人によって、その気分の『波』のふり幅はそれぞれだろうけど、そうやって忘れてしまうから、一番下の絶望にいるときは、たとえ「いいときがくるさ」と言われても、辛い。

「そのうち夏が来るさ」と言われても、冬に半袖じゃ寒くてとてもやり過ごせないよ!!というのと同じくらい、耐え難い。

 

話は少し科学的な方向に変わるけども、最近聞いた話で一番興味深かったのが、「原子は波である」ということ。

人間は心臓とか肝臓とか腎臓とかいろんな器官からできていて、それらは全て分子で成り立っていて、その分子よりさらに小さいのが原子、っていう一番小さな粒みたいなものでできていると。ここら辺は中学で習ったけどこれ以上はボロが出るからあまり言いたくない!(笑)

ともかく人間の最小単位が原子だと。

その原子が、常に揺れ動いてる『波』なんだと。なんで波なのかはよくわかってないらしいけど(!)、とにかく波なんだって。

 

へー!と思って、じゃあ、その『波』である『原子』から出来てる人間にも、波があって当たり前じゃないか!!ということを思いまして。ここからは完全に私の持論なんですけど。

だって人間を構成する物質自体が揺れてる『波』なんだもん。人間も揺れてて、『波』があって当たり前じゃない?と。

上がり下がりなんて感情論だ、精神でなんとかできる!!!とかじゃないんだよ、だってもともとが『波』なんだもん。揺れ動くのが、科学から見ても、超、自然なことだよと。

 

問題はその波の幅が大きすぎて社会生活を送るのが難しかったりとか、下がったときに上昇するのを信じられなくて死んじゃうこととかなんだ、きっと。

わあ、世の中にたくさんいる人々のすべての人のパターンを私には把握しきれない。

 

ともかく、できることは、「波があるんだな」と自覚することと、「下がったときに、絶望しすぎないようにすること」かもしれない。

冬が来るとわかっていれば暖かい服を買い込んで、いざ寒くなったらコタツにこもってしまうのも一つの手かもしれない(例えです)。

いや、気づいている人からしたら、何を今更!というお話かも知れませんよ。

でも私も、「気分には波があるよね~」とは知っていても、どこかそれを悪いものと思っていたというか。波を、意志の力で鎮めなければとか思っていた。けれど、波を止めるのは無理と、まずは気づいただけでも違ったというか。だって私たちは原子レベルで波だから!(強調)

 

そっか~仕方ないねって気づいたら次は、来るべき絶望の時間にそなえて、絶望の時間がきたらやることを決めておく。

ハーゲンダッツを食べることを自分に許すとか、ひたすら寝るとか。

なんとなく難しいのもわかる。なんでか絶望してるときほど「私なんて苦しめばいいよ」とか思って、自分をより責めてみたり、あえて雨の中にたたずんでみたりしちゃう。

だけどもしそれに飽きてきたら、「別にそんなに苦しまなくてよくね?自分」と思えてきたら、どうぞどうぞ、自分を甘やかす。

 

そして最終的にはその波自体を、最小値マイナス100、最大値50くらいだったのを、

最小値0、最大値100とかに、上方修正していくこと。

大げさなことでなく、この一連の流れを私は希望と呼んでいます。

波という、私たちと原子レベルで切り離せない現象とともに、うまくやっていく方法をなんとか探そうと、死にそうになりながらも必死に向き合っている人のことも、希望と呼んでいます。

今日の話は以上です。

 

 

※「波」による、他の人への影響(気分の上下で身近な人を混乱させてしまう、とか人を傷つけてしまう、とか)は、語ることがたくさんあると思うのですが、今日の文章はあくまで「自分が自分と向き合うときのこと」で書きました。

きぼうのひかり

選ばれない夜があった。

理解されない夜があった。

無視、されているわけでないけど、見向きもされない夜、

一人ぼっちの夜があった。

そんなときは、冷静なときならばなんでもない出来事でさえも、自分を否定している声のように聴こえた。

 

誰にもわからないかも知れないけど、たった一人でも、ここに立つのだと思っていた、

けどそんな覚悟をしていても、暗い闇みたいなものに飲み込まれて、足元がゆらいだ。

 

苦しい。孤独だ。辛い。

でも、そんなときなのに、ひとしきり泣いた後は、なぜかいつも希望の光のようなものが一筋、差し込んでいた。

私はそれは煩わしいと思った。

希望の光なんかなければ、闇の中にずっと居られれば、いいのに。

ここからまた這い上がらなきゃいけないなんて、なんでよ。そんなしんどいことなんでしなきゃいけない。暗い部屋の中にいさせてくれよ、と思った。私が本当にそこから抜け出せなければ、抜け出そうなんて思わなければ、いつか慣れるし、多分周りの人も諦めてくれるし、中途半端に希望なんて見せられるくらいなら、いらないのに、なんで差し込んでくるんだよ、こんな光は。

そう思っていた。いつか光さえ消えて絶望の海に沈んだら、それはそれで世界の深淵が見えるでしょ、それではそれでいいでしょうと思っていた。

 

だけど希望の光がいつまでたってもなくなりゃしない。

何回傷ついても、いつでもそこに見えてしまう、その光が。

性懲りもなく、いつでもそこにあるので、もう諦めることを諦めることにした。

いつでもそこにある、そいつについて歌ってやろうと思った。

だって、絞り出すでも、無理矢理呼び出すのでもなく、ただそこにあるのだもん。

 

そしてそれが私のたった一つの才能だと、ようやく気が付いた。

希望の光が見えてしまう才能。

深淵にいる人が見たら、バカバカしいって思うかな。

それでもこれは役割分担です。これが私の役割です。

どこにいたって見えてしまいます、誰に対しても見えてしまいます、光が。

 

煩わしかった眩しさを、今はとても大切にしている。

あの夜 その夜

とても感動できる夜があって、そういうときはお酒は1~2杯くらいなのに、頭の中がグワングワンと回って、いろんな人たちの顔を思い出しては涙がぼろぼろ出てくる。

でも不思議と哀しい気持ちではなく、どっちかというと大いなるものと繋がってるような、どこか切ないんだけど完全に満たされた気持ちのような。悲しい出来事さえも、「良かった」と思えるような、いやちょっと違うかも、「存在しててよかった」と思えるような感じか。

誰かの顔が出てくる場面はこれが走馬燈か、と思う、こんな一連の気分は、よく聞くところの死ぬ直前の気分みたいだ。だけど私はまだまだ生きてる。

こんな、少しトリップしたような気分について、のこと。

 

歌い始めてから、ときどきこういう気分になれる夜がある。

『何もかも間違いなど一つもなかった』と感じることができる。

 

それはただ単に楽しかった、というだけでなく、多分、自分を出し切って出し切って出し切れたときに、なるのだと思う。

そしてそれを誰かが、暖かさをもって、受け止めてくれたとき。

勿論いつも出し切ってるつもりではいるのだけど、知らないうちに臆病になり、『こんな自分じゃ受け入れてもらえないかも知れないから大人しいフリをしておこう』とか『今日はこのくらいがちょうどいいんだ』とどこかで思ってしまって、出し惜しみしてしまったときだとか(すべて無意識だとしても)、そういうときは、絶対に起こらない。

 

でもいつでも誰にでも受け止めておくれよとは言えない、だからまずは、自分が、出し尽くせばいいんだと思った。

もしも、自分の心にあるものを全て出し尽くしたのに、何にも反応が返ってこなくって、辛い思いをすることがあったとしても、それでも余力を残している場合じゃないんだと。

 だってこの気分は、さっき、死ぬ前の気分みたいと言ったけれど、まさしく、私が死んでるから味わえるんだと思う。

身体は生きてるけど、古い自分、「オマエなんか価値がないよ」、「私はどうせダメだ」と思ってた、今までの自分が死ぬから、味わえるんだと思う。

そしてまた生まれる。「すべては大丈夫だ」と思う自分が産まれてくる。

だからどんなときでも、怖がらず、いーや怖がりながらでもいいから、自分を出し尽くして一度空っぽになるまでにして、旧:自分にさようならをする。また生まれてくるから大丈夫だよ。

 

「危ないクスリやってる人みたいな気分?それって幻覚じゃん?」とかって思うかしら。

でもね、次の日確かにちょっとだけ強くなってるんだよ。次の日起きたらまた正気に戻っていつも通りの日々。それでも、その夜を越えたのは幻なんかではなく、確かに自分の中に残り、前よりも少し自分を信じられるようになっている。

幻覚ではない、手ごたえ。

 

だからもう『もしかしたら受け入れられないかも知れないから』と自分を引っ込めるのはやめにして、出し尽くす。それ以外には、ない。

そのときにあなたが1ミリでも受け止めてくれたなら、私はとても幸せで、何度でもその夜は訪れる。

 

:::

 

ああ、私は、友達にさえも上手く伝えてわかりあうことが、できないよ。

まだまだ学ばなければいけないことが多すぎるよ。

それでも、それでも、絶望はしない。一つ、また一つの、出来事に傷つくまでもなく、たんたんと、思いを話す。感情的にはならない。だってもう、言葉の中に感情は入っている。

私はいろんな人からの受け売りで、そして世界に一つの言葉を話し始める。

疲れたらリラックスモード。お風呂にゆっくり浸かりましょう。

表裏

あなたがどれだけ心地よい嘘を求めていようとも、

私は本当を指すことしかできない。
でも、その本当は美しい姿だよ
汚く黒ずんだ身体の中の
美しい姿だよ 

だからもしかしたら、
心地よい嘘なのかもしれないね

 

あなたがどんなに絶望していようと、

中にある希望の香りしか私には見えない。