勇気は5年越しに使う
今日路上ライブをした。
「あー、よくいるよね、道端で歌ってる人」
とお思いだろうか。そうだ、別になんでもないことだ。ある人からしたらなんでもないこと。
でも私からしたら4年越しだ、4年越しの思いで、勇気だ。
勇気を出すのに4、5年はかかるんだ、私は。
そもそもライブハウスで歌いだすまでに、5年の潜伏期間があった。
それまではずっとカラオケで一人歌っていた。いつか人前で自分の曲を歌うんだ、と思いながら、それでもずっと出来なかった。
怖かったからだ。
人前で歌うのが。人に評価されるのが。誰かに「あいつの歌は大したことないな」と言われたりするんじゃないかと思ったり、無視されるのが怖くてできなかった。
「えっ歌なんてやってるの?」「才能ないんじゃない(笑)」と思われるのが、「へーなんかやってるけど、どうでもいい」って通りすぎられることすら怖かった。
自分が無価値なことをやってるのではないかと思ってしまうような、誰かの目線がすべて怖かった。
それでもこのまま死ぬのは嫌だ、と5年目にやっと動き出して、
ライブハウスで歌い始めてもうすぐ4年、緊張はするけれども大分普通になってきた。
でもライブハウスと路上、どちらが緊張するかってそれは人によるだろうけど、私としては路上というたくさんの人々が通り過ぎてく場所で歌うのは、またまったく別の勇気が必要だった。
だからライブハウスで歌うのには慣れても、路上はまだすごく怖かった。
ライブハウスとは違って、用意された場所でないというか、歌を聴きに来てる人たちの耳に届けるわけじゃないから、道行く人に「うるせーな、お前の歌なんて聞きたくねーよ」と思われるんじゃないかとか、警察に「迷惑だやめろ」と言われるんじゃないかとか思ったし、やらない理由はいくらでもあった。
でも、どんなに誰かにやめなよって言われても、やってもやらなくても別に変らないんじゃないって言われても、でもやらずにいたらなんだか自分がずっともやもやし続けてしまう何かについて。別に失敗だってなんだっていいんだよ、やってみて「やっぱ意味ないかー」「向いてないかー」と思ったとしてもそれで別にいいんだよ、やらずに自分が自分へのわだかまりを抱えているよりは、という出来事を、やってみたんだよ私は。誰かにとっては取るに足らなくて自分にとってはとても勇気が必要なそのことを。
何回かね、友人に混ぜてもらったり、ライブ帰りに仲間と一緒のときに一瞬だけ路上で歌ったことはあって、
先週は伊藤悦士さんが見ててくれた中で初めてフルライブin路上をしたり、ちょっとずつちょっとずつ、それこそ4年間のちゃんと場所が用意されたライブハウスのライブや野外ライブで、貯めてきた、自信と勇気とわだかまりを持って。
そして今日は初めて路上で1人で歌った。初めて、なんの後ろ盾もなかった。
そしたらなんだかすごく不思議な夜になった。
文章にしたらきっとなんでもないことだけど、なんかいろいろ入り混じって、出会いも事件も起きた。挫けそうになり泣きそうになり、それでも孤独ではなかった。
人がたくさん集まったわけでも、投げ銭がたくさん集まったわけでも、なかったけど、
「人が行きかってすれ違って、それぞれの人生を歩いてるし、全部が全部きれいなものばっかじゃないだろう。でもその、目の前を通り過ぎるあなたの人生がどんなものか分からなくとも、幸福を願うし、美しいと思うよ。私を叱る人も、気にも留めない人も、それぞれの仕事をしているのだ。でももしも友好的に声をかけてくれたり無言で足を止めてくれたりして、ひと時を一緒に過ごせるのであれば、私にとってもこれ以上ない幸福だけど」というような気持ちになるような出来事が。
あ~~またなんだかよくわからないこと言ってるな自分!
でもそうとしか言い表せないよ!何も嘘じゃねー。
こんなちょっとのことにこんな4年越しの勇気を必要とする私は進むのがなんて遅いのかと思う。でもそれでもいいんじゃないかと思う、私には。
そもそも人前で歌うのなんて一生かかっても無理、というあの人にだって、私には一生かかってもできない何かがあるだろう。だから何年かかろうと、誰かと比べて随分遅かろうと、私にとってのもやもやを切り抜けてみせたぞ、ということに意味があるのだ。
勇気勇気、とかさんざん言ってみたけど、別に勇気なんて出さずに自然にできることがあるのならそれでもいい。
あなたに出来ない事で私に出来ることが必ずあるし、私にできないことであなたに出来ることが必ずあると思うとどんな人も称えたい。勇気が必要なことでも全然必要ないことでもどっちでもいい。
急に、目の前の現実が何か変わったわけではない。
路上ライブができたからって、目にみえるもの、人気や知名度が一気にアップしたわけではない。
それでも、自分で自分が決めてたことを出来たというだけで、私の明日は少し変わりそう。
4~5年の長い助走、ジャンプしたのは他の誰からみてもなんでもない高さの塀だけど、
私だけがとても感動している。でもそれでいいんだきっと。読んでくれてありがと。
引き出し
怒涛の4月を過ごしておりました。
いいよいいよ、いい感じだよ。
悪いときもご愛敬。大きく見れば、そう、それでいいんだと思える感じ。
4月は福島の人たちとたくさん会ったなあ。
埼玉出身だけど、なぜだか私は福島が大好きで、小さい頃から姉妹都市の関係でたくさん行っていたこともあるんだけど、たぶん福島の人に希望をみているからなんだと思う。
素朴で真っすぐで純粋で熱い人たち。そりゃあ福島だっていろんな人がいるんでしょうけど、私の出会った人たちはそういう人が多かった。
そしてその純粋に加えて、あの大震災、福島はいつだって「当事者」だから。
とても大きな出来事でしたよ。それでも東京に住んでる私や私の周りは慣れて、忘れてってるよ。
時間が経つと薄れていくのは福島の人だって変わらないかもしれない。それでも、私がつい本当に忘れてしまいそうになる「本当に大事なこと」を、福島の人たちが思い出させてくれるような気がしてならない。
命とか、安全な生活とか、人の体温とか、大事ですよ~と言われても、言われ過ぎて「わかってるよ!」と聞き流してしまいそうな、当たり前について。口だけでない、身体に染み付いたその本当の意味を思い出させてくれる。
そして決して悲観的ではない、強さもある。
来月アコワンというコンテストでいわきに行きます。
アコワンは、平たく言えば、福島開催のフェスで歌える人を投票で選ぶアコースティックのオーディションですが、私が一番体温を感じるオーディションです。
「オーディションは政治」だと誰かが言っていたなあ。純粋な実力、人気に加えて、戦略、というか、その日にどれだけ有権者を集めるか、そのときまでにどう自分に入れてもらえるような動きをとれるか、というのが大事という意味なのかなと思う。
政治はめっちゃくちゃ苦手だなあ(笑)だからといって「どんな中でも、私が私らしくやれば、人の心がきっと動いて、奇跡が起こるはず!」というのは現実わかってなさすぎる甘すぎ認識なのかもしれない。
それでももう苦手なことは潔く諦めると決めて、その奇跡が起こるまでやる。起こらなかったらまたどこかでやる。それの繰り返しなんだと思う、私のやっていることは。そう簡単にはいかないけど、目指している限りは、誰かの心に触れられることが少しでも増えていく。増やしていきたい。
そんなに人の心に触れたいかって?なんでかって?
自分の存在意義を認めたいから?いや多分だけど、それよりもっと根本的な心の部分でそう思っている気がするよ。生物としてというか、人間に生まれてきたからには、というくらいのところで。
だって面白いじゃない。人と人は分かり合えないよって、傷ついたあの人は言うけれど、思わぬところで、思わぬ誰かと、思わぬ部分で、思わぬフレーズのところで、思わぬメロディーで、思わぬ瞬間に。分かるときがあるんだよ。分かるときは少し触れてるんだよ。見たこともない誰かに、見たこともない場所、知らない体温に。
それよりも美しいものがあるのだろうかと思う。
だから生きてる限り手を伸ばすよ。
そりゃわからないよあなたの気持ちはさあ。分からないよ全然わからない、私は私のことというか私の人生でいっぱいいっぱい。
私はね、今まではたとえば自分の「楽しい」って書いてある引き出しの中に「悲しい」「苦しい」「悔しい」とかの感情が入ってしまってて、もうグッチャグチャだったんですよ。だから「なんで!」って、「なんで楽しいことのはずなのに苦しいんだ」とか、思わぬところで体力も精神力も削って、毎日ヘトヘトだった。分けられてなかった。それは、なんだろ、見ないようにしてた、向き合わないようにしてた…とか逃げの意味っていうよりは、何が悲しくて苦しいのかその正体が分かってなかったというか、「私が弱いからそう思う(悲しいとか思ってしまう)のだ」って、自分のせいってことにしてたからかもしれない。
いいんだよ、嫌いなものを嫌いと思っちゃっても、出来ないことをいつまでもできないままでも。悲しくて苦しいのは非力な自分のせい、ではなく、そう思ってしまう環境が原因ということも少なからずあった。
はっきり言ってしまうと、気の合わない人たちと長い時間一緒にいなきゃいけない空間とか、出来ないことを出来ないやつはいらん!と無言のプレッシャーをかけられる時間とかね。(またそれを「私よりあの人たちが優れているから自分はそう思うんだ」とか思っちゃってたから苦しかった)
そりゃあそんなとこに居続けたら、そんな弱気にもなるわ!
もーいいからと、原因になる環境を自分から追い出して、少しずつ、この「苦しい」は○○だから「苦しい」ね、「悲しい」は○○が▽▽だったから私はそれを××と受け止めてしまって「悲しい」のね、とかって、ちゃんと原因と結果を分けるようにした、なんでもかんでも悲しい!苦しい!辛い!!!理由は全部とにかく私がダメだからーーーー!!とかゴチャゴチャにするのじゃなく。この苦しいのはこの原因があったぞと。あいつにあんなこと言われたからだぞ、じゃあそれを取り除いてくぞ。あいつがいる場所にもう行かなくてもいいし、どーしても逃げられないなら受け止める自分の側を変えてみようか、笑顔で言い返してみるのはどうだ、と。(←これはまだ私もできてない、まずは逃げられるのなら逃げるのだ)もちろん向こうは向こうで思うことがあったりするのかもしれないしそれはそれでいいんだけど、まずはほっといて自分の安全確保だ、生き物ですもの。
そうしたら「嬉しい!」「楽しい!」「(大好き!)」とかも浮き彫りになってきた。それが冒頭の「いい感じ」の意味です。
そっちの方を続けていこうじゃあないか、割合を増やしていこうじゃあないかと。
「芸術家は不幸な方がよい作品を作れる」説に反旗を翻したい私は、
そういう風にして幸せに生きていこうじゃあないかと思っている。
幸せって触れること。そーいう、どうしたらいいかね?私はこれがいい方法だったけど、あなたは?という話し合いをあなたとしたいだけ。でも話しするレベル以上に音楽や文章で届く可能性もあるし、とにかくあらゆる方法であらゆる角度であらゆる感性にいつか誰かに届くようにしているだけなんだと思う。
もし私のこの文章も音楽もあなたの苦しみをとる役割にはなれなかったとしても、世の中にたくさんいる素晴らしいミュージシャン、小説家、ジャーナリスト、漫画家、画家、ブロガー、ユーチューバー、アイドル、なんだろう語録なくて思いつかないけど、そういう発信してる人の中にはぴったりの人がいるかもしれないから、探したり、やる方は、そんな人に見つけてもらえるようにやり続けるだけ。居ないんだったら自分がなってもいい。
そのほかに何も思いつかない。
嗚呼
いろんな人がいろんなことを言うよ。
あの人もあの人も間違ってない。全部正しい。
だからそれを一度全部受け取ってみて、解釈してみて、「あの人はこういう立場から物事をみてるからああいう風に思うのかもしれない」「私は違う意見だけどあの人の経験してきたであろうことから言ったらあれは正しいんだろうな」とかって全部全部考えてたけど、
なんだか疲れてきてしまったので。笑、これからはちょっと変える。
誰かが言う、どんなに正しそうに思える意見だとか、どんなに『現実を一番とらえていそう』な言葉だとか、そういうのよりも、
どんなに根拠がなかろうと、自分の胸で信じているものだけを見ていくよ。
それは、現実を無視して、自分の都合の良い方にとらえてみないフリして逃げる、とかいうのとはちょっと違う。
いろんな人から見た現実を、それはその人からしたら紛れもない「実際に起きている出来事」なのだとしても、私には私の目の前にある『予感』というか、『気配』というか、私が信じないで他に誰かが信じるんだよっていう、自分が今まで見てきたこととか、わかんないけどとにかく 自分の身体を通って自分の眼や心に映し出される世界のことを信じたい。
信じたいものを信じていきたい。根拠などなくていい、目の前の現実が少し追いついてなかろうと、そんなことはどうでもいい。
私がその世界を信じていれば近づくだろうと思う。
だって、ここからの景色を見られるのは、世界でたった私だけ。
苦しいことも辛いことも、楽しいことも幸せなことも、全部私のもの、他の誰の基準でも気分でもない。それを大事に思えて、初めて私は地面に立ち、存在し、他の誰かに曇りなく目を向けることができるだろう。
研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ私の感覚。
合ってる、全部合ってる。
苦しいものは苦しい、苦しいと感じることが悪いんじゃない、辛いと思ってしまうことが弱いんじゃない。弱さをなんとか誤魔化そうとするな。器用に振舞おうとするな。
外側に貼り付けるものばかり増やしていく前に、小手先の技術だけ身に着けていく前に、どうか私を私が 静かに立ち支えられるような 凛とした確信をくれ。
収集作業
自分一人の力じゃもうどうにもならない気がして、
「ああきっと、仲間に助けられる日になるんだろうなあ」と思っていたら本当にそうだったワンマンライブ。
とても良かった大成功だった。
お客様が、直前まであまり集まらなくて、ああ、どうしよう、たくさんの人の力を借りているのに、申し訳ない、どうしよう、とかいうことを、ずっと思っていた。思いつめすぎてた。
そんなとき、行くよ!と来てくれた人の中に、ミュージシャン仲間が多くいて、
そして本番でも大好きなミュージシャン達に終始救われた。
なんだろう、私はいつも自分のことしか考えていないし(キャパシティーが少ない)、人のライブも頻繁に行くわけじゃない(体力がない)、付き合いのよくない奴だけど、それでも仲間っていうものは、「いいんだぜ」っていう感じで助けてくれるものなんだなあと。
何が言いたいかって、もっとこんな人たちを信頼しようと思うんだよ。
私はいつだって「迷惑かけるの嫌だから誘わない」とかそういう、人の生活に入り込んでしまうのが怖かったというか、自分なんかが皆様の時間をとらせてすみません、みたいな意識が常にあったのだけど、もうそろそろそういうのは終わりでいいかなと。
出てきた音楽があって、それを演奏したくて、みんなにも手伝ってもらって、どんどん良いものにしていって、それでいいんじゃないかと。
そんな当たり前のことが、やっとできるようになった。遠慮なんてしたくないよ。やらなきゃ、誘わなきゃ、巻き込まなきゃきっともったいないんだ。
そしてもちろん、ミュージシャンでない斉藤ファンの皆様。変わり者で、素晴らしい皆さま。
数多くいる素敵なミュージシャンの中で、多分時代おくれなのであろう私を応援してくれて、本当にありがとうございます。
なんかこういう気持ちも、今までは「応援ありがとう、なんて、なんか偉そうで言えない」とか思ってたのですが、今は素直にそう思います。いつも本当にありがとうございます。
ようやくミュージシャンらしくなってきたんですよ。
希望の光が前に見えてきた。
そんなときに、
あの子がライブを辞めるって聞いた。
あの人が、2階から飛び降りたって聞いた。
あの子が今日もツイッターで死にたいと呟いてた。
私は何にもできないじゃん、と思う。
どんな人の人生も、その人の人生だよ。そうだよ、私が入り込めるなんて思うなよ。
分かってるんだけど、何か出来なかっただろうか、何か出来ないだろうかと思ってしまう。
あの子の今の目の前のことをなんとかしたいと思ってできることって、つきっきりで、片時も離れず、落ち着くまで、そばにずっと居てあげることか。
誰のそばに、いつまで、どのくらいいてあげたら大丈夫になる???
そんな助けたいなんて言っても、勝手な自分は、結局は薄情で、きっと人ひとりなんてとても支えきれずに、逃げ出してしまうと思う。勝手な自分だけど、それだけ、人ひとりを助けるっていうのは並大抵のことじゃないんだと思う。
だからその方法じゃない、誰かとずっと一緒にいてあげるだとか、私がやるべきなのはその方法じゃないんだと思う。
直接あの子に何かしてあげられないのだとしても、私が、私のやることを逃げずにやって、恐れずに広げて、それが周りまわってあの子の苦しみを1ミリでもとれることに繋がるんだと信じてやり続ける。それしか多分ない。本当にそれを本気でやるしかないんだよ。
毎日充実しています、好きな音楽を、好きな人たちと出来ていてとても幸せです。
でもそれは、私だけの希望じゃない。絶望の中にいるあの子にとっての一筋の光を生み出すための、私の光集め作業の一環。だから私がまずは幸せを続ける。ときどき落ちそうになっても、光集めは止めない。
新しい世界の幕開け
今年はありがとうございました。
ずっと前に出会ってくださった方も
今年出会えた方も まだ見ぬ方々も、良いお年をお迎えください。
2018年は、良い事がたくさんあると思います。
皆大吉!!!!!
クリスマスもお正月も、「はしゃぐのはカッコ悪い(なんとなく)」なんて思っていたけれど、
クリスマスにはラジオから流れる『クリスマスキャロル』の朗読と、ジョンレノン&オノヨーコの『Happy Christmas』を聴いて「わークリスマスって、人々の幸せと平和を願う日なんだ。なんて尊い日なんだ!!」と思い、
年末には、ライブ会場でよく顔を合わせる方々から『今年はめいちゃんと楽しい時間が過ごせてよかったよ。来年もよろしくね!』と声をかけて頂いて、「わーー1年の締めくくりって、出会った人々と改めてその喜びを確認できる日なんだ。いいなあ!!」と思い、
すっかりこの年末を満喫した気持ちです。
結局はね、そういう「はしゃぐクリスマス、お正月」への嫌悪、だったりするものみたいなものは、
「イベントとして、形だけ取り囲んではしゃぐ」ことがカッコ悪いと思うことからきてた(いや、本当にこれは斜に構えすぎなんだけど、ついついこういう考えに陥りがちだった)けど、
そこに人間の想いがちゃんと込められているのであれば、こういう節目節目の人との言葉の交し合いとか、祈りとか、とても大事だな、と思うのです。
もともとはなんで始まったものなのか、どんな人々がそこにいて、どんな気持ちを伝えてきたのか。
それさえ、思い出せればいいなと思います。
ミュージシャン的なことを言うと、年末にレコーディングをして、仕上がりが楽しみなものが録れまして、
来年皆様に聴かせられると思うと、それだけで未来(あと10分後の来年)に希望が持てます。
なのでわりと本気で、全力で、
皆様の2018年がよいものになるようにここで祈っております。
来年もよろしくお願いいたします。
逃れられないなら逃れようとしない
私から逃れられない。
もう何度も何度も何度も繰り返してきたことなんだけど、小さな疲れを積み重ねてしまっていた。
空いてる時間に曲が書こうとしたけど全然思う通りにいかないとか、良いライブしたぞ!と思って録音したものを聴きなおしてみたらあんまり良くなかっただとか、職場に行ったら自分の要領の悪さにイライラしたりだとか、
そういう小さなことが重なって、いつのまにか
「う~ん、どうしたらいいんだろう」って頭でばっかり考え始めてしまって、
頭を使う=実はものすごく体力を使うこと、であるのであって。(人によって体質とかで違うかも知れないけど、私にとっては明らかに、考えすぎてるときとそうでないときの消耗が違う。睡眠時間、テンション、食欲、何もかも。)
消耗して、気付いたら寝落ちしてしまっていたりだとか、それで「ああ、予定が思い通り進まなかった」と自己嫌悪をする、そして自己嫌悪にも頭を使うので、またより疲れるという負のループ。
ここから抜け出すにはどうしたらいいのか。
とか考え始めちゃうとまたループにはまる。
なので、効果があるとしたら、多分何かを、すっぱり止めることなのだと思う。
それは「やらなきゃ」「何かをやらなきゃ」という焦りを止めて、「今日は寝る、休む!」と諦めてそれを実行することなのだと思う。
そーーんな簡単なことをなぜ言ってるのか?と、思われる人もいるかも知れない。
だけどほんとにね、私にとってはとても難しいことだった。
多分、「やらなきゃ」「何かをやらなきゃ」という焦りを止めるっていうのは、
「自分、現状で結構うまくやれてるよ」っていう、ある意味『自信』みたいなものが必要なんだと思う。”今すぐ何かしなくちゃ”とか思わなくてもいいよ、一つ一つやればいいからね!という自分への自信もやさしさも余裕も、なかったのだと思う。
「お前現状じゃ何もないから早く何か成し遂げろ!」と、自分をいつも責めているのだと思う。
でもそれで体力も気力を消耗して、結局何もできずにいるのでは、非効率だ。
本当は自分は世界でたった一人の価値ある人間なのに!とかではなく、
ただただ、非効率だ。
効率が悪い。
昔からなんだか燃費が悪い。
最初から省エネできる人が羨ましい。
心からうらやましい。
「行動にうつせ!」ってさ、すごくよくわかるんだけどさ、行動する気力も余裕もないときはどうしたらいいのよ。
抜け出す方法は正直わからない。
だけどなんか今、私は書いてる。
書いてるってことは回復し始めてるっていう事なんだと思う。
ブログを書くペースが遅いのは、そういう、「ダメだと思ってるモード」のときは、本当にだめだ、だめだ…とかばっかり書いてしまって、それでボツにする。だめだ、のままで人目に晒してしまっても別に問題はないのかもしれないけど、私の場合はだめだ…で終わるのは嫌なので載せない。でも調子いいときはいいときで、立ち止まることなく動いてるから、ゆっくりブログを書く。とかしなかったりもする。
だから書いてるってことは、なんか辛かったけど、そろそろ大丈夫、っていう移行時期なんだと思う。そろそろ何か動き出せそうかも、っていう時期に書きたくなるんだと思う。
そういうことにしてる。実際そうだから、そうなのか、そういうことにするから、そうなるのか。
わからないけれど、少しずつ人に見せても大丈夫な自分になれてて準備運動みたいなもんだと思う。
調子悪い時期から、いい時期に移行してると思う。
そのことを、一体誰のためになるんだかはわからないけど、書きたかったんだと思う。
何もかも上手く言ってて調子いいぞ、と思うときと、自分なんか何もできないしダメなんだ…と思うときの、テンションの波の差が大きくて、本当に何なの?めんどくさいな自分…と思うけど、そんな自分から逃れられない。
なら、逃れようとしない方がいいのかもしれない。
ダメな部分をこそ、歌にして…!とかも、力んで考えない。考えなくても、出てくるときはきっと勝手に出てくる。
疲れてしまう原因が積み重ねなら、きっと元気になるのも積み重ねなんだと思う。
今なら、できそう。と思うときだけ、まず部屋を片付けよう。パソコンのファイルを整理して、昔の自分の音源とか聴いてみて「ふーん」とか思おう。
決められたことなんか何もできない。流されて流されて、いつも自分の感情に引っ張られているだけよ。なんでも、できるときにやるだけよ。
自分を肯定するなんて、ただの言葉よ。考えれば考えるほどわかんなくなるよ、「自分を肯定するって何???」。
肯定しようとして、「あなたはそのままでいいんだよ」、「じゃあ今現在、そのままでいいと自分に思えていない自分はダメなのか」ってなる位なら、どんな言葉もいらない。
言葉に助けられても、言葉にとらわれてはいけないんだと思う。
考えるな感じろ、というより
考えるな無になれ。
でも別に無になれなくたって、どうってことない、誰も責めない、死にはしない。
多分私たちはいつまでも、根本的には変わらないのかもしれないから、
今は、一番自分が苦しくないのが正解なんだと思う。
私の友達みんな媚を売れない
私の友達は、「嘘をつけない。いいと思ってないことに、愛想笑いなんてできない」という人が多い。
本人たちは悩んでもいるようだ、もっとうまく世渡りできたらいいのにと。
それでも八方美人な私はそんな彼女たち(彼ら)を美しいと思う。
なぜ美しいと思うのだろう。
私は、私の八方美人を「ラブ&ピースの為」(無理と言われてもなんだろうとなるべく多くの人にとってのその時間を肯定的なものにしたい)という強い無意識でやっている為、「八方美人」と悪い意味で使われることの多い言葉のわりには、それを悪いようには思っていない。
そしてなるべくフラットであろうとしている。
すると「好き」か「嫌い」かではなく、その間にある「グレー(普通)」みたいなゾーン、「好きか嫌いかなんて簡単に決めつけないぞ!」の幅がとっても広がってくる。
←←←←←←好き→→→→→→|←普通→|←←←←←←嫌い→→→→→→
だったのが、
←好き→→→→→|←←←簡単に決められないぞ、のグレーゾーン→→→→→→→|嫌い
みたいな。
多分許せるものは多いし、これでいいと思っている。
だけど、ときどき、「すべてをグレー」と思っていると、自分が揺らぐことがある。
あの人もいいよね、あの人もあんなところがいいよね。
あれ、でも、私が本当に美しいと思うものはなんだっけ。距離を置きたいと思うものはなんだっけ。
すべてをフラットで、平等に、自分の使える体力も、時間も、お金も、心の容量も、距離感も、全部同じでいいんだっけ。
美しいと思うものにはより近づき、苦手だと思うものからは自分の思う邪悪を学びそっと距離を置く。その方が何より「どこかの誰かのラブアンドピース」なんかより「何よりも自分に対してラブ&ピース(愛と平穏)」じゃないかい、と。
でも一人でいると忘れてて、マヒしてて、あれ、私何も感じない人間だったっけ、とか思う。
そんなときに、そういう友達が現れて、「器用に振舞えない」と言う。
あ、そっか、と、
私も、もっと好きとか嫌いとかはっきり言っていいんだ、と思い出すんだよね。
そしてそれは精神的にとても良い。
何も、好きなもの以外すべて拒否!までしなくてもいいから、
嫌い!無理!というのは一番素直な感覚で、防衛反応でもあるのだし、出てくるままでいいのかもしれないと。
それが分かれば、好きなものには「好きです!」とまた素直に言えて、腐りそうになっていた時間から目が覚めて、好きなものの近くにいたい、自分も混ざりたい、もっと好きと感じたい!と、なんというか、気力すら湧いてくるんです。
友達よ、ありがとう。
忘れてた感覚を思い出したら、歌もまた歌えそう。
いつでも鏡のようで、映った自分の姿をみることができた。
だから自分勝手でも無責任でもきれいごとでもなんでもどうでもいいから、どうかそのままでいて!!と思っている。