「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

サマータイム

夏は大好きな季節です。

でも「暑いのは苦手、冬の方がいい」って思う人が周りにチラホラいたから、「夏、やっほーーーーー!!!」となるのになんだか悪い気がしてしまって、なれずにいた。

でもその遠慮って何かいいことを生むの?生まないんだったら、思う存分、今を喜べば?と思う自分もいて、「それもそうだな。暑いの苦手な人はきっと、冬よっしゃこーーい!!!!ってなってるのかもしれないし。夏やっほーーーーーーー!!!!!」と思ってる近頃です。

その遠慮、本当はいらないのかもね。っていうものが他にもあるのかな。

 

 

 

近頃あらためて思うのは、そして誤解をまったく恐れずに言うのならば、私は周りにいる人たちが好きすぎます。

「ピースフルな私、すごいでしょ?」ってことが言いたいわけじゃなくて、悩みがありまして、それがゆえに、適切な距離感というものをずっとつかめずにいます。

「好きなわりには返信返さないんかい!」とか、「そんなの感じとれないけど!」とかってまあおっしゃりたいことは重々承知してるつもりなんですけれども、

今わかりやすく周りにいる人、バンドメンバーとか、お客さんとか、同居人とか、ミュージシャンの友人とか、ミュージシャン関係ない友人とか、会社の人とか、出かけた先で出会った人々とか、なんか知らんけどこのあまり更新しないブログをチェックしてくれてる顔のみえない人たちだとか、画面の向こうの人、ニュースの向こうの人だとか。(それも″自分の周り”に含めるんかい、と思われるかもですが、自分の目に入ったものは自分の身の回りのことだと思うんです)

 

でも皆、それぞれの時間と生活があるでしょう。

「絶対この日、この時間、一緒にいて!」なんて言えないし、どこまでその人の時間に侵入していいのか、どのくらい差し出していいのか、どのくらい受け取っていいのか、

何もわからないんです。

もちろん私も自身の小さな生活と、身体を守りながらではあるのですが。

 

私は「東北が肌に合う」と前から申してますけどそれは、「愛してるよ!」「おう、こちらも愛してるよ!」っていうような、まあ実際はこんな直接的ではないにしろ、そんなような わかりやすいやりとりができる人が多い気がするからです。

それでいて、「あ、時間だ!じゃ、また!」みたいな潔さがあって、別れ際も非常にわかりやすく、優柔不断な自分でも「ああそっか。自分の生活に帰ってくのね、うん、またねー」みたいに切り替えられるのです。とてもシンプルで居られるのです。

 

東京の人たちもやはり愛しているのです。

でもそれはやっぱり人数の多さなのでしょうか、夜の長さなのでしょうか、

「こう言ってくれてるけど、気を遣ってくれてるのかもしれないし、どのくらい甘えていいのかわからない」

「居ようと思えばずっとここにいられるけど、それは自分にとっても相手にとっても良いことなのかわかんない」ことが多いんです。

だから「この人のこと大好きだしここに居て欲しいけど、これ以上引き留めたらこのあと大変だろうしな」とか、「この人は今ここにいてこれをしてるけど、それはこういう流れがあったなのからで、また来てね、っていうのはこの人の流れを止めてしまうかも知れないな」とかって、なんだか様々な事情が複雑に絡み合っていて、それを考えてしまって、とても難しいんです。

どこまで我儘を言っていいのか。いくらでも言ってしまって、あとは相手にゆだねればいいのか。でも相手が優しい人だったら、無理をさせてしまうんじゃないか、と思ってしまいます。

私にとってとても難しいです。

この人とは、このくらいの距離感でいいよ、ってちょうどいいバランスを保つことが。

 

人の多い東京でも、東京ほどは人の多くない地方でも、そこにいる人間一人っていうのはそんなに変わらないと思います。

それでも、関わり方はやっぱり変わってくる。

顔色を、「空気」とか呼ばれるものを読み合いながら、少なからずやらないといけないから。

心のなかはずっと、「愛してる!」「じゃ、また!次会うまで元気で。」の繰り返しです。

 

そんな自分に「そんな感性豊かな自分きどりかよ、だったら夢物語を言ってないで、自分に出来ることを何か一つでもやんなさいよ」って常に言い聞かせてもいて、結構心のなかでハードな修行をしてるな、とたまに自覚もします。

 

 

ここ最近で2マンライブもしていて、バンドメンバーや、ミュージシャンもそうだし、

もうあのね、小さなライブハウスに来てくれるお客さんとか本当に有難さが有り余って好きすぎて仕方ない。優しいんだと思うみんなほんとに優しいんだと思う。だから斉藤の歌とか聴きにきちゃうんだよ。変わってるよ。でもほんとはみんな変わってるんだよ。

お客さんが男性だったら「愛してます!」とか言ったらなんか本意じゃないことが伝わってしまいそうだし、そんなん「ありがとですー。またぜひー!」位しか言えないですよ、言えないだけですよ。そこんとこわかってますか。

 

 

バンドメンバーとか、10個以上上のオニーサンと隠れドSなオネーサンですけど、なんで私と、こんな5年前にバンド組もうとしてまっっっったく何もかも上手くいかなくてストレスで救急車に乗りまでした私と、バンドやってくれてるんスか?!!?!?!?!みたいな気持ちでいっぱいだし、上記のように「甘えていいよと言われても、素直に甘えられませんよ」な私が、唯一「まあいいか我儘いおう」と思える人たちで、でも仲間も仲間で好きすぎたら内輪ノリになってしまって来づらい人がいるだろうから、「私そんな依存してませんよ」スタンスを保とうとするので精一杯ですし。

 

画面の向こうの人たちよ、なんでそんなに一生懸命生きてるの?!

何かを良くしようと勇敢な人もいるし、愚痴を書き連ねてる人もいる、淡々としながらやることやってる人もいる。ニュースに流れてくる人、何かに巻き込まれた人も。それぞれの生活、それぞれの思い、とてもとても理解し尽くせない。

あなたが当たり前にやっていることが、私にはとてもできない、どうして出来るの?凄すぎるよ。といつも思っています。

 

 

あーーーーーーー!!!めんどくさい自分よふっとばせー!!!!!!!!!

結局は愛しい人たちに、何ができるかって言ったら、自分を生かすことをしながら、「ああ、最高だ」って思える瞬間を、それが楽しさでも、達成感でも、なんでもいい、切なさでもいいから、そう思える瞬間を少しずつ増やして、

「あなたのおかげで私は私で居られます」とお礼を言うことしかないという、シンプルな答えがいつもあります。

 

どうかそれを後押ししてくれ、私の大好きな、夏という季節よ。

深刻にならないで、いつかの別れの切なさはいつもあれども、力は地面から湧いてくる。

暑くなり過ぎたら、砂浜から飛び込ませて、水平線を眺めさせてくれ。

そういうことを暑苦しいくらいに思っています。

 

 

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決めつけないで

決めつけないでくれよって思う。

あのときの出来事を、「それはきっとこういうことだよ」なんて。

いやたとえ決めつけでも、自分の中で、ストンと納得できるようなものであれば、全然いいんだよ。その言葉がスッと入ってきたなら、多分それで合ってると思うんだ。

でも、そんなんじゃ全然心に入ってこないよ、と思うようなことを言って決めつけないで。言葉は正しくても、自分の身体がムズムズして「そうじゃない違う」と言っているような気がするとき。

 

出来事は、時間が経つに連れて変わるんだ。一つの出来事でも、時間が経つに連れて、意味が変わる、それを受け止める私の方も変わっていくから。

でも頭のいい誰かは1秒ごとに結論を出していき、それを私に突きつける。

けど私はそんなに早く物事を判断はできない。

時間が経ってから分かることもあるし、誰かと会って話しをし、その人の生きてきた道や、感じてきたことに触れて、それから分かることもある。

未来の自分が決めるのだ、まだ今わからない事については。

それまで答えを保留にさせて、ときにはその出来事の悪い結末を考えたり、弱気な考えに押しつぶされそうになる。それでも、いやきっと、よりよい出来事のために出来事はあったのだと、自分の中の一番小さくてそれでいて一番強い心持ちを、繰り返し繰り返し思い出してまた握りしめていくんだから。そんなわかったような言葉で決めつけるな。奪うな。

 

もしあなたが、

そんな誰かの言葉に 自分の一番大事なものを否定されたような気になってしまったときは。いや、他の誰かに否定なんて出来るわけはないんだと、ただその「そうじゃないよ」とムズムズする身体の方を信じて、そのままでいておくれ。

勇気は5年越しに使う

今日路上ライブをした。

「あー、よくいるよね、道端で歌ってる人」

とお思いだろうか。そうだ、別になんでもないことだ。ある人からしたらなんでもないこと。

 

でも私からしたら4年越しだ、4年越しの思いで、勇気だ。

 

勇気を出すのに4、5年はかかるんだ、私は。

そもそもライブハウスで歌いだすまでに、5年の潜伏期間があった。

それまではずっとカラオケで一人歌っていた。いつか人前で自分の曲を歌うんだ、と思いながら、それでもずっと出来なかった。

怖かったからだ。

人前で歌うのが。人に評価されるのが。誰かに「あいつの歌は大したことないな」と言われたりするんじゃないかと思ったり、無視されるのが怖くてできなかった。

「えっ歌なんてやってるの?」「才能ないんじゃない(笑)」と思われるのが、「へーなんかやってるけど、どうでもいい」って通りすぎられることすら怖かった。

自分が無価値なことをやってるのではないかと思ってしまうような、誰かの目線がすべて怖かった。

 

それでもこのまま死ぬのは嫌だ、と5年目にやっと動き出して、

ライブハウスで歌い始めてもうすぐ4年、緊張はするけれども大分普通になってきた。

でもライブハウスと路上、どちらが緊張するかってそれは人によるだろうけど、私としては路上というたくさんの人々が通り過ぎてく場所で歌うのは、またまったく別の勇気が必要だった。

だからライブハウスで歌うのには慣れても、路上はまだすごく怖かった。

ライブハウスとは違って、用意された場所でないというか、歌を聴きに来てる人たちの耳に届けるわけじゃないから、道行く人に「うるせーな、お前の歌なんて聞きたくねーよ」と思われるんじゃないかとか、警察に「迷惑だやめろ」と言われるんじゃないかとか思ったし、やらない理由はいくらでもあった。

 

でも、どんなに誰かにやめなよって言われても、やってもやらなくても別に変らないんじゃないって言われても、でもやらずにいたらなんだか自分がずっともやもやし続けてしまう何かについて。別に失敗だってなんだっていいんだよ、やってみて「やっぱ意味ないかー」「向いてないかー」と思ったとしてもそれで別にいいんだよ、やらずに自分が自分へのわだかまりを抱えているよりは、という出来事を、やってみたんだよ私は。誰かにとっては取るに足らなくて自分にとってはとても勇気が必要なそのことを。

 

何回かね、友人に混ぜてもらったり、ライブ帰りに仲間と一緒のときに一瞬だけ路上で歌ったことはあって、

先週は伊藤悦士さんが見ててくれた中で初めてフルライブin路上をしたり、ちょっとずつちょっとずつ、それこそ4年間のちゃんと場所が用意されたライブハウスのライブや野外ライブで、貯めてきた、自信と勇気とわだかまりを持って。

そして今日は初めて路上で1人で歌った。初めて、なんの後ろ盾もなかった。

 

そしたらなんだかすごく不思議な夜になった。

文章にしたらきっとなんでもないことだけど、なんかいろいろ入り混じって、出会いも事件も起きた。挫けそうになり泣きそうになり、それでも孤独ではなかった。

人がたくさん集まったわけでも、投げ銭がたくさん集まったわけでも、なかったけど、

「人が行きかってすれ違って、それぞれの人生を歩いてるし、全部が全部きれいなものばっかじゃないだろう。でもその、目の前を通り過ぎるあなたの人生がどんなものか分からなくとも、幸福を願うし、美しいと思うよ。私を叱る人も、気にも留めない人も、それぞれの仕事をしているのだ。でももしも友好的に声をかけてくれたり無言で足を止めてくれたりして、ひと時を一緒に過ごせるのであれば、私にとってもこれ以上ない幸福だけど」というような気持ちになるような出来事が。

 

あ~~またなんだかよくわからないこと言ってるな自分!

でもそうとしか言い表せないよ!何も嘘じゃねー。

 

こんなちょっとのことにこんな4年越しの勇気を必要とする私は進むのがなんて遅いのかと思う。でもそれでもいいんじゃないかと思う、私には。

そもそも人前で歌うのなんて一生かかっても無理、というあの人にだって、私には一生かかってもできない何かがあるだろう。だから何年かかろうと、誰かと比べて随分遅かろうと、私にとってのもやもやを切り抜けてみせたぞ、ということに意味があるのだ。

勇気勇気、とかさんざん言ってみたけど、別に勇気なんて出さずに自然にできることがあるのならそれでもいい。

あなたに出来ない事で私に出来ることが必ずあるし、私にできないことであなたに出来ることが必ずあると思うとどんな人も称えたい。勇気が必要なことでも全然必要ないことでもどっちでもいい。

 

急に、目の前の現実が何か変わったわけではない。

路上ライブができたからって、目にみえるもの、人気や知名度が一気にアップしたわけではない。

それでも、自分で自分が決めてたことを出来たというだけで、私の明日は少し変わりそう。

4~5年の長い助走、ジャンプしたのは他の誰からみてもなんでもない高さの塀だけど、

私だけがとても感動している。でもそれでいいんだきっと。読んでくれてありがと。

 

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引き出し

怒涛の4月を過ごしておりました。

いいよいいよ、いい感じだよ。

悪いときもご愛敬。大きく見れば、そう、それでいいんだと思える感じ。

 

4月は福島の人たちとたくさん会ったなあ。

玉出身だけど、なぜだか私は福島が大好きで、小さい頃から姉妹都市の関係でたくさん行っていたこともあるんだけど、たぶん福島の人に希望をみているからなんだと思う。

素朴で真っすぐで純粋で熱い人たち。そりゃあ福島だっていろんな人がいるんでしょうけど、私の出会った人たちはそういう人が多かった。

そしてその純粋に加えて、あの大震災、福島はいつだって「当事者」だから。

とても大きな出来事でしたよ。それでも東京に住んでる私や私の周りは慣れて、忘れてってるよ。

時間が経つと薄れていくのは福島の人だって変わらないかもしれない。それでも、私がつい本当に忘れてしまいそうになる「本当に大事なこと」を、福島の人たちが思い出させてくれるような気がしてならない。

命とか、安全な生活とか、人の体温とか、大事ですよ~と言われても、言われ過ぎて「わかってるよ!」と聞き流してしまいそうな、当たり前について。口だけでない、身体に染み付いたその本当の意味を思い出させてくれる。

そして決して悲観的ではない、強さもある。

 

来月アコワンというコンテストでいわきに行きます。

アコワンは、平たく言えば、福島開催のフェスで歌える人を投票で選ぶアコースティックのオーディションですが、私が一番体温を感じるオーディションです。

「オーディションは政治」だと誰かが言っていたなあ。純粋な実力、人気に加えて、戦略、というか、その日にどれだけ有権者を集めるか、そのときまでにどう自分に入れてもらえるような動きをとれるか、というのが大事という意味なのかなと思う。

政治はめっちゃくちゃ苦手だなあ(笑)だからといって「どんな中でも、私が私らしくやれば、人の心がきっと動いて、奇跡が起こるはず!」というのは現実わかってなさすぎる甘すぎ認識なのかもしれない。

それでももう苦手なことは潔く諦めると決めて、その奇跡が起こるまでやる。起こらなかったらまたどこかでやる。それの繰り返しなんだと思う、私のやっていることは。そう簡単にはいかないけど、目指している限りは、誰かの心に触れられることが少しでも増えていく。増やしていきたい。

 

そんなに人の心に触れたいかって?なんでかって?

自分の存在意義を認めたいから?いや多分だけど、それよりもっと根本的な心の部分でそう思っている気がするよ。生物としてというか、人間に生まれてきたからには、というくらいのところで。

だって面白いじゃない。人と人は分かり合えないよって、傷ついたあの人は言うけれど、思わぬところで、思わぬ誰かと、思わぬ部分で、思わぬフレーズのところで、思わぬメロディーで、思わぬ瞬間に。分かるときがあるんだよ。分かるときは少し触れてるんだよ。見たこともない誰かに、見たこともない場所、知らない体温に。

それよりも美しいものがあるのだろうかと思う。

だから生きてる限り手を伸ばすよ。

 

そりゃわからないよあなたの気持ちはさあ。分からないよ全然わからない、私は私のことというか私の人生でいっぱいいっぱい。

私はね、今まではたとえば自分の「楽しい」って書いてある引き出しの中に「悲しい」「苦しい」「悔しい」とかの感情が入ってしまってて、もうグッチャグチャだったんですよ。だから「なんで!」って、「なんで楽しいことのはずなのに苦しいんだ」とか、思わぬところで体力も精神力も削って、毎日ヘトヘトだった。分けられてなかった。それは、なんだろ、見ないようにしてた、向き合わないようにしてた…とか逃げの意味っていうよりは、何が悲しくて苦しいのかその正体が分かってなかったというか、「私が弱いからそう思う(悲しいとか思ってしまう)のだ」って、自分のせいってことにしてたからかもしれない。

いいんだよ、嫌いなものを嫌いと思っちゃっても、出来ないことをいつまでもできないままでも。悲しくて苦しいのは非力な自分のせい、ではなく、そう思ってしまう環境が原因ということも少なからずあった。

はっきり言ってしまうと、気の合わない人たちと長い時間一緒にいなきゃいけない空間とか、出来ないことを出来ないやつはいらん!と無言のプレッシャーをかけられる時間とかね。(またそれを「私よりあの人たちが優れているから自分はそう思うんだ」とか思っちゃってたから苦しかった)

 

そりゃあそんなとこに居続けたら、そんな弱気にもなるわ!

もーいいからと、原因になる環境を自分から追い出して、少しずつ、この「苦しい」は○○だから「苦しい」ね、「悲しい」は○○が▽▽だったから私はそれを××と受け止めてしまって「悲しい」のね、とかって、ちゃんと原因と結果を分けるようにした、なんでもかんでも悲しい!苦しい!辛い!!!理由は全部とにかく私がダメだからーーーー!!とかゴチャゴチャにするのじゃなく。この苦しいのはこの原因があったぞと。あいつにあんなこと言われたからだぞ、じゃあそれを取り除いてくぞ。あいつがいる場所にもう行かなくてもいいし、どーしても逃げられないなら受け止める自分の側を変えてみようか、笑顔で言い返してみるのはどうだ、と。(←これはまだ私もできてない、まずは逃げられるのなら逃げるのだ)もちろん向こうは向こうで思うことがあったりするのかもしれないしそれはそれでいいんだけど、まずはほっといて自分の安全確保だ、生き物ですもの。

 

そうしたら「嬉しい!」「楽しい!」「(大好き!)」とかも浮き彫りになってきた。それが冒頭の「いい感じ」の意味です。

そっちの方を続けていこうじゃあないか、割合を増やしていこうじゃあないかと。

「芸術家は不幸な方がよい作品を作れる」説に反旗を翻したい私は、

そういう風にして幸せに生きていこうじゃあないかと思っている。

 

幸せって触れること。そーいう、どうしたらいいかね?私はこれがいい方法だったけど、あなたは?という話し合いをあなたとしたいだけ。でも話しするレベル以上に音楽や文章で届く可能性もあるし、とにかくあらゆる方法であらゆる角度であらゆる感性にいつか誰かに届くようにしているだけなんだと思う。

もし私のこの文章も音楽もあなたの苦しみをとる役割にはなれなかったとしても、世の中にたくさんいる素晴らしいミュージシャン、小説家、ジャーナリスト、漫画家、画家、ブロガー、ユーチューバー、アイドル、なんだろう語録なくて思いつかないけど、そういう発信してる人の中にはぴったりの人がいるかもしれないから、探したり、やる方は、そんな人に見つけてもらえるようにやり続けるだけ。居ないんだったら自分がなってもいい。

 

 

そのほかに何も思いつかない。

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嗚呼

いろんな人がいろんなことを言うよ。

あの人もあの人も間違ってない。全部正しい。

だからそれを一度全部受け取ってみて、解釈してみて、「あの人はこういう立場から物事をみてるからああいう風に思うのかもしれない」「私は違う意見だけどあの人の経験してきたであろうことから言ったらあれは正しいんだろうな」とかって全部全部考えてたけど、

なんだか疲れてきてしまったので。笑、これからはちょっと変える。

誰かが言う、どんなに正しそうに思える意見だとか、どんなに『現実を一番とらえていそう』な言葉だとか、そういうのよりも、

どんなに根拠がなかろうと、自分の胸で信じているものだけを見ていくよ。

 

それは、現実を無視して、自分の都合の良い方にとらえてみないフリして逃げる、とかいうのとはちょっと違う。

いろんな人から見た現実を、それはその人からしたら紛れもない「実際に起きている出来事」なのだとしても、私には私の目の前にある『予感』というか、『気配』というか、私が信じないで他に誰かが信じるんだよっていう、自分が今まで見てきたこととか、わかんないけどとにかく 自分の身体を通って自分の眼や心に映し出される世界のことを信じたい。

信じたいものを信じていきたい。根拠などなくていい、目の前の現実が少し追いついてなかろうと、そんなことはどうでもいい。

私がその世界を信じていれば近づくだろうと思う。

だって、ここからの景色を見られるのは、世界でたった私だけ。

苦しいことも辛いことも、楽しいことも幸せなことも、全部私のもの、他の誰の基準でも気分でもない。それを大事に思えて、初めて私は地面に立ち、存在し、他の誰かに曇りなく目を向けることができるだろう。

 

研ぎ澄ませ、研ぎ澄ませ私の感覚。

合ってる、全部合ってる。

苦しいものは苦しい、苦しいと感じることが悪いんじゃない、辛いと思ってしまうことが弱いんじゃない。弱さをなんとか誤魔化そうとするな。器用に振舞おうとするな。

外側に貼り付けるものばかり増やしていく前に、小手先の技術だけ身に着けていく前に、どうか私を私が 静かに立ち支えられるような 凛とした確信をくれ。

 

 

収集作業

 

自分一人の力じゃもうどうにもならない気がして、

「ああきっと、仲間に助けられる日になるんだろうなあ」と思っていたら本当にそうだったワンマンライブ。

とても良かった大成功だった。

お客様が、直前まであまり集まらなくて、ああ、どうしよう、たくさんの人の力を借りているのに、申し訳ない、どうしよう、とかいうことを、ずっと思っていた。思いつめすぎてた。

そんなとき、行くよ!と来てくれた人の中に、ミュージシャン仲間が多くいて、

そして本番でも大好きなミュージシャン達に終始救われた。

 

なんだろう、私はいつも自分のことしか考えていないし(キャパシティーが少ない)、人のライブも頻繁に行くわけじゃない(体力がない)、付き合いのよくない奴だけど、それでも仲間っていうものは、「いいんだぜ」っていう感じで助けてくれるものなんだなあと。

何が言いたいかって、もっとこんな人たちを信頼しようと思うんだよ。

私はいつだって「迷惑かけるの嫌だから誘わない」とかそういう、人の生活に入り込んでしまうのが怖かったというか、自分なんかが皆様の時間をとらせてすみません、みたいな意識が常にあったのだけど、もうそろそろそういうのは終わりでいいかなと。

出てきた音楽があって、それを演奏したくて、みんなにも手伝ってもらって、どんどん良いものにしていって、それでいいんじゃないかと。

そんな当たり前のことが、やっとできるようになった。遠慮なんてしたくないよ。やらなきゃ、誘わなきゃ、巻き込まなきゃきっともったいないんだ。

 

そしてもちろん、ミュージシャンでない斉藤ファンの皆様。変わり者で、素晴らしい皆さま。

数多くいる素敵なミュージシャンの中で、多分時代おくれなのであろう私を応援してくれて、本当にありがとうございます。

なんかこういう気持ちも、今までは「応援ありがとう、なんて、なんか偉そうで言えない」とか思ってたのですが、今は素直にそう思います。いつも本当にありがとうございます。

ようやくミュージシャンらしくなってきたんですよ。

 

 

希望の光が前に見えてきた。

 

そんなときに、

あの子がライブを辞めるって聞いた。

あの人が、2階から飛び降りたって聞いた。

あの子が今日もツイッターで死にたいと呟いてた。

 

私は何にもできないじゃん、と思う。

どんな人の人生も、その人の人生だよ。そうだよ、私が入り込めるなんて思うなよ。

分かってるんだけど、何か出来なかっただろうか、何か出来ないだろうかと思ってしまう。

あの子の今の目の前のことをなんとかしたいと思ってできることって、つきっきりで、片時も離れず、落ち着くまで、そばにずっと居てあげることか。

誰のそばに、いつまで、どのくらいいてあげたら大丈夫になる???

そんな助けたいなんて言っても、勝手な自分は、結局は薄情で、きっと人ひとりなんてとても支えきれずに、逃げ出してしまうと思う。勝手な自分だけど、それだけ、人ひとりを助けるっていうのは並大抵のことじゃないんだと思う。

だからその方法じゃない、誰かとずっと一緒にいてあげるだとか、私がやるべきなのはその方法じゃないんだと思う。

 

直接あの子に何かしてあげられないのだとしても、私が、私のやることを逃げずにやって、恐れずに広げて、それが周りまわってあの子の苦しみを1ミリでもとれることに繋がるんだと信じてやり続ける。それしか多分ない。本当にそれを本気でやるしかないんだよ。

 

毎日充実しています、好きな音楽を、好きな人たちと出来ていてとても幸せです。

でもそれは、私だけの希望じゃない。絶望の中にいるあの子にとっての一筋の光を生み出すための、私の光集め作業の一環。だから私がまずは幸せを続ける。ときどき落ちそうになっても、光集めは止めない。

新しい世界の幕開け

今年はありがとうございました。

ずっと前に出会ってくださった方も

今年出会えた方も まだ見ぬ方々も、良いお年をお迎えください。

 

2018年は、良い事がたくさんあると思います。

皆大吉!!!!!

 

クリスマスもお正月も、「はしゃぐのはカッコ悪い(なんとなく)」なんて思っていたけれど、

クリスマスにはラジオから流れる『クリスマスキャロル』の朗読と、ジョンレノン&オノヨーコの『Happy Christmas』を聴いて「わークリスマスって、人々の幸せと平和を願う日なんだ。なんて尊い日なんだ!!」と思い、

年末には、ライブ会場でよく顔を合わせる方々から『今年はめいちゃんと楽しい時間が過ごせてよかったよ。来年もよろしくね!』と声をかけて頂いて、「わーー1年の締めくくりって、出会った人々と改めてその喜びを確認できる日なんだ。いいなあ!!」と思い、

すっかりこの年末を満喫した気持ちです。

 

 

結局はね、そういう「はしゃぐクリスマス、お正月」への嫌悪、だったりするものみたいなものは、

「イベントとして、形だけ取り囲んではしゃぐ」ことがカッコ悪いと思うことからきてた(いや、本当にこれは斜に構えすぎなんだけど、ついついこういう考えに陥りがちだった)けど、

そこに人間の想いがちゃんと込められているのであれば、こういう節目節目の人との言葉の交し合いとか、祈りとか、とても大事だな、と思うのです。

 

もともとはなんで始まったものなのか、どんな人々がそこにいて、どんな気持ちを伝えてきたのか。

それさえ、思い出せればいいなと思います。

 

 

ミュージシャン的なことを言うと、年末にレコーディングをして、仕上がりが楽しみなものが録れまして、

来年皆様に聴かせられると思うと、それだけで未来(あと10分後の来年)に希望が持てます。

 

 なのでわりと本気で、全力で、

皆様の2018年がよいものになるようにここで祈っております。

 

 来年もよろしくお願いいたします。