「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

私の軽やかさ


camp-fire.jp

初アルバム作成にあたり、クラウドファンディングを開始しました。

あなたの過去の意味を、未来につなぐためのものにする音楽と、アルバム作りよ。

500円からすべての支援者の名前をクレジットするから、この現代のラブ&ピースにあなたも参加しちゃいなYO!

 

 

軽やかになりたいと思っていた。

だって重苦しい深刻なものよりも、軽くて楽しいものの方が、人は惹きつけられるでしょう。

だけど「軽やかになりたい・・・!」とか思ってること自体がすでに重い。(笑)

し、このクラウドファンディングを始めるまでにも、クセになってるよなどうしようもなく重苦しい気持ちが手放せなかった。

 

クラウドファンディングのページにも書いてある、やるまでの心の葛藤。だいぶポップに書いたけど、本当はもっともっともっとウジウジしたものがあった。

 

 

だって失敗したらカッコ悪いじゃない。

同じ仕組みで何百万と集めてる人がいる中で、達成できなかったら、「お前の価値なんてそんなものだ」って言われてるみたいじゃない。

人からお金を集めるなんて、斉藤も変わったなあ…、とか思う人がいるかもしれないじゃない。

 

やるなら、なるべく楽しく、気軽にできるものにしないと。それはわかってはいたけど、

じゃあ私のこの、楽しくも気軽でもない不安の置き場を、どこにすればいいんだよって思ってた。

本当のことを全部塗りつぶす嘘をつかないといけないのか?ウジウジしたものを、好きな人は少ないのはわかるけど。

でも不安を打ち消す何かが欲しい、そしたら出来るし、私。と思っていた。

 

(ちなみに何社かのクラウドファンディングに試しに登録したりしたが、今載ってるくらいの文章でも、「マイナスなことはあまり書かない方がいいです」とはっきり言われたところもあって、「これくらいでマイナスって思われたら、私はどうすればいいんだよ!『ウエーイ!皆よろしくお願いネッ🌟』とかしか書けないのかよ!」と思った、ということもあった。)

 

 

でもとにかく、そんなウジウジした不安な気持ちを、打ち消すのではなくそのままにした形で、

それでも「動く」という方に舵をきれた自分は、本当に偉かった。

誰になんと言われようと偉かったのだ。

路上ライブを4年越しにやっとできたときみたいに、1年かかった。

それでもできたんだ。

 

なんでも不安に考えすぎてしまう、大変重苦しい自分だけど、

やる方に吹っ切ったときは、「それでも私やるわ」という、

『ノリ』で『流れに乗っただけ』のもので、

不安を覆すだけの理由などは特になかった。ただ、よしゃ、と始めた。

大変軽やかな気持ちだったと思う。

 

それが私の軽やかさなのだ。

もじゃもじゃ。

 

 

しかもすでに十数人協力してくれてるんだ。画面の向こう側の誰かが、力をくれるなんて、こんなことが起こり得るんだ。奇跡が普通に起きてるなんて、すごい世界だ。

不安に思ったことをなぞる道ではなく、奇跡の道を選んだのだ。

私はこのプロジェクト、始めた時点ですでに成功しているんだ。

だからあとは、一人でも多くの名前を、全方位に最高のラブ&ピースになるであろうアルバムに刻むために、「やってまーす」ということを広めるだけだ。

 

 

軽やかさにもいろいろあるんだ。

魅力的に人を煽ることができて、良い意味での軽薄さで楽しそうにワイワイしている人たちは未だにうらやましい。

でも、私には、私の、軽やかさがある。

それは『一見現実を重く深刻に考えてるようで、実際は空を飛べると本当に思っちゃってる』というようなもの。

『すごい長い時間ウジウジしてたのに、ある日突然、裸足で走り去っちゃう』というようなもの。

 

誰かに疎まれるかもしれないことも、明確な数字で導き出されるものも、とても怖い。

それでも、あなたたちと、もっと素晴らしくて大きくて美しいものを作ることができるってことを、全然これっぽっちもまったく諦めてない。

 

私なかなかチャラいでしょう。軽いでしょう。

だからヘーイ、そこの人!迷ってないで、ポチッと押して、名前刻んで、早くこっち側においでYO!

 

斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

新月


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ありがとうございました。

「面倒くさいこといろいろ書きつつも、終わったら『最高でした!』って結局言うんじゃん。」

と自分で思いますが、

そうです。めんどうくさいあの不安でどうしようもない気持ちを経験した後の、成功だったからこそ、そう思えるんです。

成功と言うのは、来てくれたあなたの顔を見ながら、今音楽の中にいるなと確かに思えたことを言います。だから結局は私の気分の問題なのかも知れないけれど、聴いてくれた人たちも、楽しかったならいいな。と思います。

 

なんかね正直、やっぱり「こうだったらいいな」という理想みたいなものは、あったんですよ。

「こういう人(年齢層、性別)にたくさん来てもらいたいな」「この場面ではこういう風になったらいいな」「このくらいの人数きたらいいな」とか。正直言うとです。

 

でもそういうのを、目安にするくらいならいいんだけど、『目的』にする必要はないと確信したというか。「結果は後からついてくる!」というまでは強い主張ではないし、一旦目安として考えること自体は悪いことではないと思っているのだけど。

でも、そういう細かい設定みたいなのを、自分でコントロールしようとして成功したこと、私は一度もない。し、今回「失敗など何もないけど、次への反省」で自分に挙げられることを突き詰めると↑のようなものをコントロールしようとしていた、ということにほとんど全て行き付く。

『いいライブをする』結果、『来た人に喜んでもらう』

このシンプルなのが全てだ。特に私のような人間には。

不器用なくせに、小賢しい調整をしようとするなよ。

あの日あの夜に来てくれた人、一緒に演奏してくれた仲間、見守っててくれたライブハウスの人。

それで全てだよ。そして作られた空間や時間は、私が「想定」なんかしていたものを、はるかに超えていくんだ。

どうなるかわからないことを、支配下に置きたいのは不安だから。なんだけど、その不安を持ち続けつつも暴れさせないようにする。

そして来てくれた人を信じる。ここまでやってきた自分を信用する。

それ以上はもう、ああなれとかこうなれとか、コントロールしようとすることはないな、と、それがわかったのが、あの3rdワンマンライブでした。

 

もちろんこれからも、まだ見ぬ誰かに届くよう、その場にいない人にも届くように歌います。

それでもやっぱりライブは、その日その場所のもの。

と、大好きなミュージシャンのライブにも数年行けていない自分でも思うのです。

 

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期待をしてしまうよね。

でも期待って多分重いよね。

期待じゃなくて応援できたらいい。

「私の思い通りにはならないけど、でもあなたの人生が幸せならいいね」って。

昔からどうしても人に期待してしまう癖があり、それが憎い。

たとえばだけど、「あなたのライブを観に行くかも」と言ってくれた人がいるとして、

勿論単純な嬉しさも大いにあるんだけど一方で『ああこの人が来てくれたら"自分はこう安心だから"、絶対に来てほしい!』と心のどこかで思ってしまい、その人が何らかの事情で来れなくなれば、ああ…もう私なんかダメなんだ…どうせと落胆してしまうことが、ちょっと前まではだけど、よくあった。

でもこれって多分向こうの立場に立てば、そんな重圧をかけられたらとツライと思う。

 

だって人は様々な事情で生きているし、時間・お金・体力・気力、すべてそろわない事には『約束』をするのだってなかなか大変なこと。あの人は自分の生活でいっぱいいっぱいかもしれない。あの人は家族がいるかもしれない。あの人は仕事が忙しいかもしれない。あの人は無理できる身体じゃないかもしれない。

今居てくれる人に感謝こそすれど、居れない人を責められることなど何一つない。

「あの人が(私にとって都合がいい)あの行動をしてくれるだろう」なんて、ただの私の頭の中の出来事でしかなく、あの人には本当は関係がない。

そもそも私だって約束したものに、時間・お金・体力・気力いずれかが伴わずに断念したことだってたくさんあるし。

 

期待するのはもうやめた。それは「期待なんかしたってどうせ裏切られるんでしょ…」という後ろ向きなものではなく、「期待なんかしなくたって、いつでも誰でも、期待以上のその人の人生を生きてるよ。だから期待なんかせずにあの人自身を応援するよ」と思う。

 

もし私が期待なんかしちゃうことがあったとしたら、それはあなたではなく私の問題なので、もう放っておいてください。

それでもどうしても期待をしてしまうときがあれば、1人とか2人とかではなく、1000人2000人くらいに期待をして、一人ずつにかけるものを軽くするので、安心してください。 

 

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グルグル何周も周ってやっぱり同じようなところに来る。

それでも前に周ったときとは少し違う景色。

上昇気流に乗っている。

今を大事に生きる。

ちょっぴりだらけた季節の変わり目の自分にすらハートマークをつけながら、

耐え忍ぶのではない、頭をクリアにさせる、

あの寒さを迎える準備をしている。

 

 

面倒くさい私の大事な前夜

頭の中がまたゴチャゴチャしてくる。

「ミュージシャンは人に夢を与える役割だから」、「人前で弱音なんて吐いてはいけない」?

そうだね、いつだって笑顔で、誰かを元気にすることができたら、どんなにいいだろう。

 

それでも私は取り繕うことができない。

ダメなときはモロにダメな顔になってしまう。

そのことを、「ああ、皆さんの前でこんな顔をして、自分はダメだなあ」と思うとますます落ち込む。

どうしたらいいのか。そもそも人前に立つことが向かないのか。

そして「夢を与える人」が「人前で弱音なんて吐いてはいけない」のは本当だろうか。

 

吐き方によるんじゃないか。

ただただ垂れ流すだけじゃなくて、あわよくば、「この人も凹むことがあるんだな…」とかって、同じような気持ちになる人に、むしろいつでも常時元気な人よりも感情的に側にいられるような凹み方はできないだろうか。

 

私の辛さは、凹みは、傷は、ただ私を傷つけるためにあるのではない。

同じような誰かに、「そんなときもあるよね」と言えるようになるための痛みだと、思っていたいのだ。

 

ワンマンライブが近づいている。過去2回もそうだったけど、やっぱり今回もプレッシャーに押しつぶされそうになっている。

初めてのワンマンライブのあとに、思い描いた1年半後の自分に、私は

なれているのだろうか?到底届いてないんじゃないか?こんなはずじゃなかったんじゃないか?足らないことだらけじゃないだろうか?どうして、何が間違っていたのか、何が私に足りないんだ。

過去と比べてしまうし、足りてないものばかりを数えてしまう。ああやっぱり私が暗いのかなあとか、明るいところに人は集まるよね、とか、私の音楽も人格も何もかもわかりづらいのから人は集まらないのかなとか、人を楽しませるように煽るのも結局下手くそだしなあとか。

足らないものだらけだ、喉が渇いたように苦しい、苦しい、苦しい、とても苦しい。

 

でもそんな足らないものばかり数えている自分は壊れてしまえばいいと思う。

そしてシンプルに生まれ変わればいいと思う。

たった今から、勇気も何も必要としない、ただ自分が淡々とできることをやり続ければいい。

「なぜうまくいかないの?!私がダメだから?!」とかって感情的にならずに、ただ続ける。

帰ってきたらよく眠ろう。

そしてステージの上にいるときだけは、目の前にいる人たちにいつも通り歌えばいい。

 

いいや、こんな考え自体、まるごとどこかにやっちまって、

ただ思うように振舞えよ斉藤。

 

ギターを始めて5年が経ちます。弾き語りを始めて4年が経ちました。

最初の頃の初期衝動のある斉藤の方がよかったです、

なんて、誰にも言われたことないのに、

「もしかして最初の方が良かったの?ねえ?そうなの?」と自分でも思ってないのに考えている。

 

そんな、少しギターを弾いて少し技術が身についただけで、なくなってしまう衝動のことなんてどうだっていいよ。

いつだって私の中には同じものがあるよ。誰にも気づかれずに通り過ぎられたとしても、いつか報われたとしても、ずっとずっと変わらないよ。それを本当に大切しているから、私が私じゃなくなるときは、身体がなくなるときではなく、この大切がなくなるときだよ。外側のものだけが、形を少し整えてたりして変わっていくよ。

 

これは孤独な獣道です。本当に間違ってない?この道は間違ってない?

そんなことはわからない。わかってしまったらそれは獣道ではない。

 

 不安だ不安だ不安だ不安だ。

ああ、初めてのワンマンライブのときに、「これからは自分なんて…じゃなくて、自分を最高と思っていきます」って、言ったじゃないか。また自分なんて…って思ってるのか?もう本当にめんどくさいな自分。

思ってようが、思ってなかろうが、どっちだっていい。どっちだっていいんだよ。

思ってたからなんだっていうんだよ。思ってるからダメだ、じゃまた永遠に同じとこをグルグルしてんだよ。ダメと思ってるから悪いとかじゃないんだよ。

思ってようが思ってなかろうがこのまま行くんだよ。思っててもいいんだよ、だって進むことに変わりはないからさ。

 そのことをちゃんとわかったら、もう面倒くさいこの自分のままでいいから、

重い重い自分の足を進めてあなたの待つ場所へとつながる扉を開けるのです。

 

だから私は、どんなにめんどくさいことを言ってようと結局は大丈夫です。

ワンマンライブがあります。↓ぜひ来てください。

【斉藤めい 3rdワンマンライブ】

11/16(金)真昼の月 夜の太陽(東新宿)

 open18:50 / start19:30 ¥2,300+当日ドリンク代 

 ✾演目&ゲストミュージシャン✾

 ・ギタ―弾き語り:斉藤めい

 ・ピアノ:村松亜紀

 ・ピアノ:黒田玲兎、オーボエ:Takashi

 ・バンドセットwith 2RPM(Gt.つる、Vn.RURI、Dr.プニ夫、Ba.まあ)

 

予約はコメント欄かmonbiri_4@yahoo.co.jpにメールをください。

16日0:00までの予約で当日「あなたは大吉」おみくじ(全部大吉以上で斉藤の手書きおみくじ)が引けます。

音楽と動物

最近ちょっと気づいたかもしれない。

私って、自分に自信がないと思ってたけれど、本当は誰より自分が可愛くて大好きなんじゃないかと。

自分のことが嫌いと思っていたけれど、本当は、他人の言葉ですぐに揺らいでしまう自分をなんとかしたかっただけなんじゃないかと。

 

自分が可愛くて大好きっていうのは、鏡をみながら「私ってなんて素晴らしいんだろう」とか、そういう類のものじゃなくって、生物レベルのっていうか、たとえば肉食動物に食べられそうになったときに全力を出して逃げられるとか、そういう、自分の命を守るために全力を尽くすことができる、とかそういう種類のものだと思う。

 

本心では自分が大事ってわかってるんだけど、自信ないとか嫌いとか思うのって、その大事な自分が、苦しいとか傷ついたりとかしたくないからなのではと。

「自分が大事な存在」なことは、もうわかっている。もし忘れてたなら、まず思い出さないといけないけど。

忘れてない限り、本当はもう十分、自分が大事なことなんてわかっている。

 

だから私が知りたいのは、「自分が大事な存在かどうか」についてじゃなくて、「その大事な自分が、他人の言葉や、周りの環境に振り回されないように、自分の感受性の扱い方」についてを知りたいんだと気づいた。

 

どう振舞えば、考え方も違う、感じ方も違う、でもなるべくわかりあいたい人たちの中で、大事な自分自身も感情も押し殺すことなく、いられますかと。

ただそれだけなのかも知れないと思った。

 

疲れてたら愚痴っぽくもなる。

それでも一晩でも二晩でもぐっすり寝ることができたら、やがて大事なことを思い出して、自分が生き延びる為の方法を探し始める。誰かに教えてもらったり、自分が探すことができたら誰かに教えたい。

 

ちなみに「大事な存在」という言葉は、「私って尊い存在でしょ!!」って誰か外側の人に向けたアピールでもなんでもなくて、自分の心の中で小さく、でも確かに感じることができる感覚としての実感だ。

 

そう、このブログに出てくることは「出てくるものだけ」のタイトルその通り、自分の中から「出てくるものだけ」を書く。

そしてそれは、たとえば「誰かにこんなことを言われて傷ついた」と書いたとして、『誰か』を責めるためのではなく、『こんなことを言われて傷ついた自分』が一体どう振舞ったら少しマシになったかの体験談です。

同じように感じた誰かの為になればいいと思うだけなんです。

 

 

2年前の自分が歌う。

「神様は自分の中 誰の中にも居ない」

1年前の自分が歌う。

「誰の声も聴くな 自分だけを聴いて」

 

私の感情よ生き延びろ。

そしてその感情に、何よりも強く共鳴するのが音楽なんです。

 

心の内側

私に何がわかるというんだろうか。

あの人の心の内側の。

いつも元気そうに見えるあの人の、

強気にみえるあの人の、

いつも笑顔のあの人の。

強がってばかりいるあの人の。

心の内側に本当は何があるんだろう。

それを、私はどれだけ分かることができるんだろう。

一生、全然わかんないかもしれない。

 

あなたはいま何を思うのか。

私はあなたの目には、お気楽そうに映るかな。

私はあなたのことを「いつも強くってうらやましいなあ」と思う。

だけどもしかしたらあなたも私のこと、「いつも強くっていいなあ」と思ってるかもしれない。

お互いのことなんか全然わかんない。

それでもいつか、

『そんなことないんだよ、いろいろあるんだよ』

と話し合えたらいい。

 

誰でもいつでも誤解だらけだよ。

誤解だらけだよ。

勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に悲しんで、勝手に拗ねて、勝手にいなくなったり、勝手に戻ってきたりすればいい。

誤解だらけの自分と誰かと世界を見渡した後に、自分の中にある確かな気持ちを、とりあえずきちんとすべて伝えたら、あとはどんな結果になろうと、それが最善だと信じるしかない。信じるのは怖い、今この場をなんとかしようと、説得したり、引き留めたり、あえて突き放したりしてしまう、信じて待つことは怖いのだ。

 

静かに待つ強さをくれ。

誤解を力づくで説くのではない、伝えることだけを伝えて、あとはゆっくり待つのだ。

どんなに心の中が荒々しく、哀しみにくれていようと。そして、それは一人で耐えなくてもいい。

 

信じて待つ、信じて待つ。

 

あなたが思っているよりもうらやましい自分ではないけれど、

私が思っているよりもうらやましいあなたではないのだ。

同じなのだ、きっと。

 

心の内側が見られたらいいね。

そしたら歌わなくてもきっとあなたの側にいつでもずっと寄り添えるだろう。

でもまだ見えないから、手探りで歌を歌っているのだ

ライブ

音楽ライブをやっている人間ですが。

8月後半に、核となるライブが立て続けにあった。

 

17日に、北と西から4人の友人ミュージシャンを呼んだお盆自主企画ライブ。

25日、この夏4度歌いに行った江ノ島の海の家を借りて、自分で声をかける事ともに、SNSでも出演者を呼び掛けて、ある程度自由度をもたせて開催してみたライブ。

そして昨日26日、バンドセットにて、私の音楽の原点・藤井めぐみさん、バンドメンバーRURIさんのソロ名義、の3マンライブ。

 

それぞれの日で語れることがたくさんあるのだけど、大きく話すと。

どの日も、不安や緊張感がありながらも、「こうなればいいなぁ」という期待があった。

でもどの日も、私の想像からは離れたところに、現実があった。

「こうなればいいなあ」を遥かに超えてきた瞬間、期待通りにはいかなかったもののまた別の重要な意味を持って生まれた瞬間、『私という、小さな個人ではコントロールできぬ、その場にいた一人一人の人たちによって、生まれた瞬間』というのが無数にあった。

 

でもそれでいいのだと思った。

私は、私の『自分の出来ること』をやる。

いいライブをし、いい歌をうたう。お客さんに、愛をおしみなく出す。一緒にいるミュージシャンに最大の敬意をもって接する。場を作ってくれた人に感謝を告げる。宣伝をがんばる それはもうちょっと出来たかな なんて思っても。

これ以上のことまで、今まではコントロールしようとし、想像してたものとそぐわないと、自分にガッカリしてしまったりしてたんだけど、もうしようとしない。

あの人の反応が思ってたものと違ったとか、ここのときはこうしたかったんだけど思う通りにいかなかったとか、そういうのはもうコントロールしようとしない。

充分に準備したうえで起きたことなら、それを受け入れる。すべて受け入れる。でもすべてを背負わない、起きた流れにまかせる。

 

誰かの心を思い通りに動かそうとするなんて、人間の心を舐めるなよって。

それぞれがそれぞれ、傍目にはとてもわからない過去の経験や、感性、感情を持ってるんだ。

私という小さい個人が思う通りになんて、いくはずないだろ。

ただ、信じている。

「何か」はわからないけど、その場にいた人に「何か」が起きること、わかりやすく良いことなのか、わからないけど。

私や、私の仲間が出した世界と、誰かの世界がほんの一瞬でも交わる。それが出来たなら、私はもはや、誰かが一瞬通り過ぎただけの他人だったとしても、近親者のような、本当に近くの人のように思う。遠い親戚のあの人、親、兄弟、近所の人、そんなような感覚。血がつながった家族だって、何を考えてるのかはわからないし、一つでも交わったなら十分近い人だろう。

どうか、その近い人たちの日々が、それぞれの波乱はありつつも、平穏なものでありますように。

そんなファミリー的な中になんて、入りづらい!と思う人がいるかも知れない。そしたらもうちょっと入りやすい扉にしたいけど、普通の「家庭」とは違うので、誰でも出たり入ったり来たり居なくなったりは自由だし、ドアはいつでも開けっ放しではある。

 

そういう日々を続けていこうと思いました。

取り組めることだけは取り組んで、愛すべき人たちを呼んだり会ったりして、あとは流れにゆだねた想像できない日々を迎える為。

 

良いことでさえも、受け止める準備がないとやってこないのかも知れないと思った。「どうせ失敗するだろう」「わかってもらえないだろう」「人が来なくて当たり前だ」。

いや、違う、「ここまでやったんだ、大成功しちゃってもいいんだ」「思った通りには伝わらなくても、思いもしなかったところで何かが伝わるかも」「どんどん人が来ちゃっても大丈夫、それくらいのものをやるから」と受け入れる、引き受けていくよ。絶対そうなる!という決めつけではなくて、『こういうのが起きても、オッケー』という、幸せに対するスタンス。

傲慢ではなく、信用です。今周りにいてくれる人に対しての。 

そしてそれを未だ見ぬあなたに繋ぐため、この身体をそのことに使うための、自信。 

 

そういうものがあったライブの日々でした。

ありがとうございました。もう既に宝物です。

この先誰にどう貶められたとしても自分から墜落していったとしても、誰にも奪えまい。

 

 

「この空が晴れたら」

私は誰かに履かされていた靴をぬいで 走るよ

聴こえる?届いてる?子どもの私よ

血の繋がらない家族ができるから

もう泣かないで

 

時代おくれな言葉たちを今日も抱きしめ行く

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから今は何もやらなくていいや」という怠慢に、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから何もやらなくていいや」という怠慢な自分を、責めて責めまくって絶望の中へ入り込んでしまうことに、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから何もやらなくていいや」という怠慢な自分を、責めて責めまくって絶望の中へ入り込んでしまい、二度と立ち上がれなくなるような気がして自分なんかダメなんじゃないかと思ってしまうことに、

負けるものか。

 

この思考はきっとどこまでいっても、どんな理由を探しても、グルグル回っているから、解決なんてしないんだ。どこかで止めなければ。頭で考えることを止めて、身体を動かしてやらなければ。

だけど悩んだ跡は残る。それが、身体だけではどうにもいかなくなったときに、役に立つはずなんだ。だから無駄じゃなかった。これでよかった。

 

 

無駄な時間をたくさん過ごしてしまった、なんて思うことはない。

ぜんぶこれでよかった。

だから次へいこう、私よ。