産声
水の流れる音が聴こえる。
私は
私は、と文章を打とうとすると、立ち止まってしまう、私、を語る事になんの意味があるのかって思う。でも私は、って今日は言ってみる。
私はいつも何かあると、すぐに泣きたくなる、し、苦しくなってしまう。
たとえば真昼間の、誰がどうみても平和そのものの風景の中や、誰が見ても何の不自然さもなく せかせかと動いて 経済や何らかの歯車をスムーズに動かしているような人々の中でも。
それは子どもがお父さんに抱きかかえられているような暖かい光景を見たときでもあるし、誰かのほんの些細な言葉や態度で いわゆる『傷つけられた』ときも。
それは相手にとってはたとえ軽く肩がぶつかったくらいの出来事だったとしても、コップのギリギリに注がれた水のように、限界ギリギリまでピーンと張ったギターの弦のように、ほんの少しの衝撃で、もう溢れてしまう、切れてしまう。
傍から見たら「ほんの少し触っただけなのに、なぜ?」と思うくらいの出来事で溢れ出してしまうのは、自分の中でだけは常にギリギリだったから、溢れ出す直前のまま、常に居たから。
そんなことが苦しかった。
いつもギリギリの状態でいて、ほんの少しの刺激であふれ出てしまうものに、
「えっ、こんなことで??」「面倒くさ!」「今まで苦労したことがないんだよ」と言われたことが、何も言われなくとも少々冷ややかな態度になって避けられたことが、苦しかったし悲しかったし、悔しかった。
今なら、冷ややかな態度をしてきた人の気持ちも少しわかる。目の前の人が急に取り乱したなら、相手だって、取り乱す、もしくは自分の平穏を保つために否定したり、見ないようにするのは人間が自分を防衛するためというなら何も間違っちゃいない。
ただ私は私で、もがき泣いているところを見せれば誰かが何か言うことを聞いてくれるなんて思ったこともなかったし、ただただ何かに反応して、溢れ出てきてしまうものに対して、自分でもどう制御したらいいのかなんて分からなかった。誰かわかるなら教えてくれ、どんな方法でも試すから、と思ってた。汗と同じだった。暑かったら汗が出てくる、そのことと何も変わらないのに、なぜ涙だけは責められるのだろうと思っていた。
今はもう、結構上手くやれている。
動揺させてはいけない人たちがたくさんいる、たとえば職場とかで、どうしても張りつめていたものが誰かの何気ない一言や態度で切れてしまったとき。
トイレにこもって5分間、思い切り泣くのだ。そしたらなんだか頭がだんだん冷静になって、「誰もそんな責めちゃいない、自分で自分を責めるのさえ止めれば、誰もそんな私のことなんか責めちゃいない(そこまでの関心をもって言ってない)だろう」ってことに気が付いてきて、深呼吸して苦しい息を整えることができたら、化粧を直して外に出られるのだ。
誰も傷つけない、ということよりも何よりも自分自身が必要以上に傷つかない。
大人になっただろう、少女の私。
感情は変わらなくても、その対処方法はわかってくるんだよ。
だから私は今の私の方が好きだ。
どんなに若いときの方が肌がピチピチであったんだろうと、皺が増えようとシミが増えようと今の私の方が断然好きなんだよ。
でもね少女の私、顔をドロドロにして泣いたことを否定することもない。
なぜか私は今歌を歌えている。
人の前で歌うことは、人の前で裸で立っているのと同じような気持ちでいつもいる。
だからなんだかすべて見られたような気持ちになるから、必死になって声を出し切れば出し切るほど、なんだか真っ裸を見られた気になって恥ずかしさとどうしようもない気持ちでいっぱいになる。服を着た人たちの中で自分だけが裸。
だからと言って、中途半端に半分だけ脱いだだけでは、きっと見ている人たちも裸にできないだろうと思う。自分がまず先に裸になって、見ている人も肌色にしてしまえたら、そのときは何にも代えられない瞬間になるのかも知れない、と思う。
だけども少しためらったりしてしまう、「私が裸をさらけ出すことで、誰かの何かを脅かしてしまわないかな…」と思うと、まだ何かの制御がかかって、最後まで絞り出せない。
でもね、そう、少女の私が少しの感情の揺れでどろどろになるまで泣いたとき、
もうすべては晒されていた、丸裸の感情は、誰かの目に触れすでに晒されていたんだ。
だからもう怖がることなかれ、
それで誰かをまた傷つけるほど、「誰か」も弱くないよ。
だからもう、今の私よ、もうとっくに許すも許さないもなくこれでいい、このほかにない。
ただ心に触れたものに、涙の代わりに歌を歌え。
歌を歌うんだよ。遠慮なんてするな。
水たまりの音が聴こえる。午前3時です