「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

ライブ

音楽ライブをやっている人間ですが。

8月後半に、核となるライブが立て続けにあった。

 

17日に、北と西から4人の友人ミュージシャンを呼んだお盆自主企画ライブ。

25日、この夏4度歌いに行った江ノ島の海の家を借りて、自分で声をかける事ともに、SNSでも出演者を呼び掛けて、ある程度自由度をもたせて開催してみたライブ。

そして昨日26日、バンドセットにて、私の音楽の原点・藤井めぐみさん、バンドメンバーRURIさんのソロ名義、の3マンライブ。

 

それぞれの日で語れることがたくさんあるのだけど、大きく話すと。

どの日も、不安や緊張感がありながらも、「こうなればいいなぁ」という期待があった。

でもどの日も、私の想像からは離れたところに、現実があった。

「こうなればいいなあ」を遥かに超えてきた瞬間、期待通りにはいかなかったもののまた別の重要な意味を持って生まれた瞬間、『私という、小さな個人ではコントロールできぬ、その場にいた一人一人の人たちによって、生まれた瞬間』というのが無数にあった。

 

でもそれでいいのだと思った。

私は、私の『自分の出来ること』をやる。

いいライブをし、いい歌をうたう。お客さんに、愛をおしみなく出す。一緒にいるミュージシャンに最大の敬意をもって接する。場を作ってくれた人に感謝を告げる。宣伝をがんばる それはもうちょっと出来たかな なんて思っても。

これ以上のことまで、今まではコントロールしようとし、想像してたものとそぐわないと、自分にガッカリしてしまったりしてたんだけど、もうしようとしない。

あの人の反応が思ってたものと違ったとか、ここのときはこうしたかったんだけど思う通りにいかなかったとか、そういうのはもうコントロールしようとしない。

充分に準備したうえで起きたことなら、それを受け入れる。すべて受け入れる。でもすべてを背負わない、起きた流れにまかせる。

 

誰かの心を思い通りに動かそうとするなんて、人間の心を舐めるなよって。

それぞれがそれぞれ、傍目にはとてもわからない過去の経験や、感性、感情を持ってるんだ。

私という小さい個人が思う通りになんて、いくはずないだろ。

ただ、信じている。

「何か」はわからないけど、その場にいた人に「何か」が起きること、わかりやすく良いことなのか、わからないけど。

私や、私の仲間が出した世界と、誰かの世界がほんの一瞬でも交わる。それが出来たなら、私はもはや、誰かが一瞬通り過ぎただけの他人だったとしても、近親者のような、本当に近くの人のように思う。遠い親戚のあの人、親、兄弟、近所の人、そんなような感覚。血がつながった家族だって、何を考えてるのかはわからないし、一つでも交わったなら十分近い人だろう。

どうか、その近い人たちの日々が、それぞれの波乱はありつつも、平穏なものでありますように。

そんなファミリー的な中になんて、入りづらい!と思う人がいるかも知れない。そしたらもうちょっと入りやすい扉にしたいけど、普通の「家庭」とは違うので、誰でも出たり入ったり来たり居なくなったりは自由だし、ドアはいつでも開けっ放しではある。

 

そういう日々を続けていこうと思いました。

取り組めることだけは取り組んで、愛すべき人たちを呼んだり会ったりして、あとは流れにゆだねた想像できない日々を迎える為。

 

良いことでさえも、受け止める準備がないとやってこないのかも知れないと思った。「どうせ失敗するだろう」「わかってもらえないだろう」「人が来なくて当たり前だ」。

いや、違う、「ここまでやったんだ、大成功しちゃってもいいんだ」「思った通りには伝わらなくても、思いもしなかったところで何かが伝わるかも」「どんどん人が来ちゃっても大丈夫、それくらいのものをやるから」と受け入れる、引き受けていくよ。絶対そうなる!という決めつけではなくて、『こういうのが起きても、オッケー』という、幸せに対するスタンス。

傲慢ではなく、信用です。今周りにいてくれる人に対しての。 

そしてそれを未だ見ぬあなたに繋ぐため、この身体をそのことに使うための、自信。 

 

そういうものがあったライブの日々でした。

ありがとうございました。もう既に宝物です。

この先誰にどう貶められたとしても自分から墜落していったとしても、誰にも奪えまい。

 

 

「この空が晴れたら」

私は誰かに履かされていた靴をぬいで 走るよ

聴こえる?届いてる?子どもの私よ

血の繋がらない家族ができるから

もう泣かないで