「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

ざれごと

あの子に「大丈夫だよ」って言う為だけに、そしてその言葉に説得力を持たせるためだけに、歌って、動いてるのに、いつのまにか必死な毎日でそれを忘れていた。

でも忘れたってまた思い出したらいいんだ。何度でも何度でも、忘れて思い出せばいいんだ。それ自体が生きていることの波で、それが私の歌だ。

自分のことを不器用だと思う。

いや、器用なところも多分あるんだけど、「得意、できること」と「苦手、できないこと」の差が大きいほど、不器用さ≒生きづらさに繋がるという話を精神科医に聞いたことがあって、差が大きいという意味では不器用だと思う。

誰しもが得意・苦手があると思うけど、苦手なことがたまたま、今の社会とか生きてる環境であんまり必要ないことだったりすると、辛さはあまり感じないかも知れないし、その逆もあるかも知れない。

そうして考えると私は今の世界ではやっぱり「生きづらいな」と感じてしまう。そして、同じような人が結構いるんじゃないかと思ってもいる。

 

ただ世界は変わっていくし、事件とか災害とか発明とかあったらかなり変わるし、なかったとしても少しずつ変化してるし、同じ世界の中でも、たとえば会社と家庭とバンドは違うだろうし。

この世界は生きづらいなとは思いながらも、一緒に生きていきたいと思える人たちがいるので、絶望はしていない、むしろこの人たちとこの先を少しでも変えていけるのかということが、正直に言うと楽しみでもある。だから希望の歌をうたう。

この人たちというのはある限定された人たちというよりも、たとえばこれを読んでる誰かも含まれた人たちのことだと思ってる。私の中では勝手に。

 

変えていくのは、

「社会」なのか「家族との関係性」なのか、

「分かりあうのを諦めてたあの人と、心をブチ開けて話してみる」ことなのか、つまり誰かとの関係か。

いややっぱり、いったん他人のことはすべてとっぱらって、シンプルになって自分で自分を掘り起こしてくることなのか。

(そのときは見たことのない新しい自分でもあるのだけど、自信を持つとか自分を好きになるとか、そういうことより更に前の段階の、ただ嬉しい楽しい悲しい寂しい苦しいと感じてる状態に還ってるのだと思う)

 

変えるということは、「今より親密になる」ことを目指すのももちろんだし、近寄ると苦しいものであれば「今よりも距離を置く」ということも当然選択肢がある。

むしろ逃げること、辞めること、止めること、離れることで、いい変化が訪れることもあるよ、と大きめな声で言った方がいいかもしれないと思う。逃げるのは悪いこと、ってイメージがまだ強い今は。

 

そうしていって、人や社会や物事と、適切な関係性、適切な距離感をもって、

「この人とは分かりあえるかもしれないから頑張ろう」「この人とは分かりあえないからお互い別の道をいくのが最善」とかってお互いの傷が浅いうちに間違いのない適切な判断をし、

できることはできる、できないことはできないから誰かを頼るか、諦めるか、早めの判断をし、

「これは重要だ」「これは重要じゃない」とかも自分でわかるようになって、

いい感じにバランスよくすべてが進んでいく‥‥‥

 

なんて、そんなことができたらスゴイよねって話で、

自分が不器用だという話に戻すと、現時点では不器用な自分にはそんなスムーズに生きるなんてことは、まっったくできない。いや少しずつは出来るようにはなってきたけども、まだまだ全然。判断に時間がかかるし、迷いもする。

すっぱり「これはやる!」「これは嫌!」と言えるようにもなってきたけど、でもまだまだ「ああなんで私はあの判断をしたんだ……」と思うこともあるし…。

 

でも、なかなか判断が出来ないこと、迷うということは、自分にも他人にも何も諦めていなく、何にも決めつけていないからだとも思う。

いろんな可能性を思っているから、時間や労力を使うから、慣れるまで時間がかかるし、疲れるだけなんだよ。

不器用だろうとなんだろうと、判断がついた時点、わかった時点、気づいた時点、納得できた時点で、思ったようにすればいい。何十年かかってもいい。

でも不器用だからって決めつけてカテゴライズして、いつも悩んでなきゃいけない訳じゃなくて、ふとしたきっかけで一瞬で気づいてもしまってもいい。

知ることがひとつ増えれば出来ることがひとつ増えていくから、経験を重ねることはできるし、1回目よりも2回目が、2回目よりも3回目が、最新が最善になる。

それが不器用の良いところだと思う。

 

ときに器用な人に助けられながら、ときに不器用同士で話し合いながら。

ときどき、器用な人を助けながら。

そんなことを言ってると器用とか不器用とかただの言葉だな、結局はすべての人間の中に両方あるんだな、とか思えてきてしまって、器用は不器用で、不器用は器用で、あなたは私で、私もあなたで、光は闇で闇は光で……と言語化できないところに突入してきてしまうので、この先は音楽で。ということになる。

そしてこのブログを書き始めた時点で思ってたことの数百倍前向きな文章を書いているので自分でも驚いている。

不器用、不器用って一見ネガティブな言葉をたくさん使ってるのに、その不器用さに希望しか見いだせない、今は。

それは自分のこともそうだし、自分の周りの不器用な人たちもそうだし、多分あなたの中にある、不器用な部分に対してもそうです。

寝よう。

 

いろんな考えの末にコメント欄を閉鎖しました。

今までコメントしてくださった方々、嬉しかったです。本当にありがとうございました。