「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

右でも左でも真ん中でも上でも下でもある私

誰を選んで、誰を好きになって、嫌いになって、応援してみたり、批判してみたりすること。

何もかもが自由ではあると思う。

だけどそういう自分の”感情”と共に、「人間って、そういうものだよねえ」という″理解”が必要だとも思う。

 

『人間って、権力とか影響力を持ったり、そして持ったまま長い時間が経ったりすると、最初は良かったとしても、力があるのが当たり前になってしまって、その立場を失うことが怖くなったり、失わないために隠し事をしたり嘘をついたり、横暴になったり、弱いものに力を振りかざしたりしてしまうものだよねえ。 ものすんごい精神力があれば、そうはならない人もいるかも知れないけど。大多数はそうでも仕方ないよねえ。』 とか、

『人間って、自分の都合の良いように、自分が見たいように世界を見ようとするものだよねえ。弱い私はもちろんそうだけど、強いあなたですら、そうだよねえ』とか、

『人間って、人には言わない欲があるんだろねえ。』とか。

 

そういう、どうしようもなく愚かな、悪くて黒くて弱いところを”理解”した上で、

最近のニュースで、時が流れてどんどん形が変わっていくもの、どうしても古い形で今に合わないから一度壊れないといけないもの などを、見ていると。

そこに携わる人達の悪いものを決してそのままにすることなく、だけど必要以上に責めることもなく、善いものは見逃さず、と、誰かの言動に一喜一憂することなく、自分の中に時代の流れの感覚を、取り入れることができる。

それが出来たら、今まで流れてきた時間を、過ぎ去った時代を、そっと大事にしまっておくことができる。

 

"理解"がないと、ただ自分が好きな者の”悪さ”を認めたくなくて、ただ受け入れられなくて、反対側にいるものを責めたり批判したりするしかなくなる。嫌いな者の”理解はできる”部分を見逃してしまう。

対象の、その場の一つの言動や行動で、判断するしかなくなるので、昨日まで批判してたのに今日は擁護してみたり、自分の態度が二転三転してしまう、一つのニュースにいちいち翻弄されてしまう。

 ましてやテレビやインターネットの膨大な情報の中。

誰が悪くて誰が良いのか、訳が分かんなくなって、訳が分かんなくなってる自分自身を守るしかなくなってきて、攻撃的になったり、決めつけてみたりする。

 

でも、もともと人間ってどんな生き物だっけ、と元をたどって原点に返ってみれば、善悪はっきり分かれることばかりではないと気づく。

自分が直接携わっていることなら白黒はっきりつけなきゃいけないこともあるだろうけど、そうでないなら、まずはなりゆきを見守る。決めつけないでいる強さを持ちたい。

「そのような流れになりましたね」と見守ることに神経を注ぎたい。

 

ただ、長年何かを拗らせた人(思考が偏り過ぎた人)が、長年熟成させたドロドロしたヘドロみたいなものの中にまた多くの人を巻き込んでいるところを見たら、やっぱり私も思う。「どうせ壊れてしまうものに、執着するな。そんな醜いものはぶっ壊しちまえ」。

 

 

ニュースに出てくる人、それを見ている私たちも、その小さな強さ一つ一つを持てたら、と思う。見守ることができる優しさと強さ。本当に悪いことは、断ち切る勇気。

やさしさ強さ・勇気なんてありきたりな言葉だけど、言葉を本気で使うのであれば、ありきたりな言葉にこそ大事なものがこもっている。

 

そしてその私たちのやさしさ強さ勇気が周りまわったら、胸が引き裂かれるような辛い出来事を、二度と産まないことへ、一番効果があると思う。