YES
人間が好きだから歌を歌っている。
そう言った自分に、ものすごい速さで返答をする「本当か?本当に人間が好きか?じゃあ人間の、汚い部分、弱い部分、おそろしい部分、ダメダメな部分、狂気、残酷、嫉妬、虚栄心、哀しみ絶望、それをすべて見てもすべて承知の上で、それでも好きと言うんだな?本当に本当なんだな????」もう一方の自分。
外側にいる他の誰かなんかよりも、速く反応してきて、そしてしつこく執拗に疑ってくる。
揺るぎそうになる。だって確かに、あのときあの人の言葉にあんなに傷つけられたし、弱さにつけこまれ騙され、奪われ、無視された。
今だって、翻弄され、なぜ私だけを責めるのだと悲しくなり、なんて面倒くさいのだと、思ったりする。
それでも絞り出した声で「はい」と答える。
迷いながら疑いながら、ただ声だけは不自然な程強く。
根拠などはない。今までのすべてを清算できる理由などはない。
ただYESに舵を切り、それから後のことは出くわした時に考えよう、方向を定めたあとに、何かあったらまたそのときに考えよう、みつけていこうと思っただけのこと。
それだけのこと。
ざれごと
あの子に「大丈夫だよ」って言う為だけに、そしてその言葉に説得力を持たせるためだけに、歌って、動いてるのに、いつのまにか必死な毎日でそれを忘れていた。
でも忘れたってまた思い出したらいいんだ。何度でも何度でも、忘れて思い出せばいいんだ。それ自体が生きていることの波で、それが私の歌だ。
*
自分のことを不器用だと思う。
いや、器用なところも多分あるんだけど、「得意、できること」と「苦手、できないこと」の差が大きいほど、不器用さ≒生きづらさに繋がるという話を精神科医に聞いたことがあって、差が大きいという意味では不器用だと思う。
誰しもが得意・苦手があると思うけど、苦手なことがたまたま、今の社会とか生きてる環境であんまり必要ないことだったりすると、辛さはあまり感じないかも知れないし、その逆もあるかも知れない。
そうして考えると私は今の世界ではやっぱり「生きづらいな」と感じてしまう。そして、同じような人が結構いるんじゃないかと思ってもいる。
ただ世界は変わっていくし、事件とか災害とか発明とかあったらかなり変わるし、なかったとしても少しずつ変化してるし、同じ世界の中でも、たとえば会社と家庭とバンドは違うだろうし。
この世界は生きづらいなとは思いながらも、一緒に生きていきたいと思える人たちがいるので、絶望はしていない、むしろこの人たちとこの先を少しでも変えていけるのかということが、正直に言うと楽しみでもある。だから希望の歌をうたう。
この人たちというのはある限定された人たちというよりも、たとえばこれを読んでる誰かも含まれた人たちのことだと思ってる。私の中では勝手に。
変えていくのは、
「社会」なのか「家族との関係性」なのか、
「分かりあうのを諦めてたあの人と、心をブチ開けて話してみる」ことなのか、つまり誰かとの関係か。
いややっぱり、いったん他人のことはすべてとっぱらって、シンプルになって自分で自分を掘り起こしてくることなのか。
(そのときは見たことのない新しい自分でもあるのだけど、自信を持つとか自分を好きになるとか、そういうことより更に前の段階の、ただ嬉しい楽しい悲しい寂しい苦しいと感じてる状態に還ってるのだと思う)
変えるということは、「今より親密になる」ことを目指すのももちろんだし、近寄ると苦しいものであれば「今よりも距離を置く」ということも当然選択肢がある。
むしろ逃げること、辞めること、止めること、離れることで、いい変化が訪れることもあるよ、と大きめな声で言った方がいいかもしれないと思う。逃げるのは悪いこと、ってイメージがまだ強い今は。
そうしていって、人や社会や物事と、適切な関係性、適切な距離感をもって、
「この人とは分かりあえるかもしれないから頑張ろう」「この人とは分かりあえないからお互い別の道をいくのが最善」とかってお互いの傷が浅いうちに間違いのない適切な判断をし、
できることはできる、できないことはできないから誰かを頼るか、諦めるか、早めの判断をし、
「これは重要だ」「これは重要じゃない」とかも自分でわかるようになって、
いい感じにバランスよくすべてが進んでいく‥‥‥
なんて、そんなことができたらスゴイよねって話で、
自分が不器用だという話に戻すと、現時点では不器用な自分にはそんなスムーズに生きるなんてことは、まっったくできない。いや少しずつは出来るようにはなってきたけども、まだまだ全然。判断に時間がかかるし、迷いもする。
すっぱり「これはやる!」「これは嫌!」と言えるようにもなってきたけど、でもまだまだ「ああなんで私はあの判断をしたんだ……」と思うこともあるし…。
でも、なかなか判断が出来ないこと、迷うということは、自分にも他人にも何も諦めていなく、何にも決めつけていないからだとも思う。
いろんな可能性を思っているから、時間や労力を使うから、慣れるまで時間がかかるし、疲れるだけなんだよ。
不器用だろうとなんだろうと、判断がついた時点、わかった時点、気づいた時点、納得できた時点で、思ったようにすればいい。何十年かかってもいい。
でも不器用だからって決めつけてカテゴライズして、いつも悩んでなきゃいけない訳じゃなくて、ふとしたきっかけで一瞬で気づいてもしまってもいい。
知ることがひとつ増えれば出来ることがひとつ増えていくから、経験を重ねることはできるし、1回目よりも2回目が、2回目よりも3回目が、最新が最善になる。
それが不器用の良いところだと思う。
ときに器用な人に助けられながら、ときに不器用同士で話し合いながら。
ときどき、器用な人を助けながら。
そんなことを言ってると器用とか不器用とかただの言葉だな、結局はすべての人間の中に両方あるんだな、とか思えてきてしまって、器用は不器用で、不器用は器用で、あなたは私で、私もあなたで、光は闇で闇は光で……と言語化できないところに突入してきてしまうので、この先は音楽で。ということになる。
そしてこのブログを書き始めた時点で思ってたことの数百倍前向きな文章を書いているので自分でも驚いている。
不器用、不器用って一見ネガティブな言葉をたくさん使ってるのに、その不器用さに希望しか見いだせない、今は。
それは自分のこともそうだし、自分の周りの不器用な人たちもそうだし、多分あなたの中にある、不器用な部分に対してもそうです。
寝よう。
*
いろんな考えの末にコメント欄を閉鎖しました。
今までコメントしてくださった方々、嬉しかったです。本当にありがとうございました。
分かりあいたい
誤解されようと、どう思われようと、
私は私でしかないよ。
最初から最後まで、私でしかない。
何も変わってなどいないよ。
音楽をやる前も、今も。
いや生まれたときから。産まれる前から。多分これから先も。
本当に何ひとつ変わらないんだよ。
全部わかってくれとは言わないし私も分からないかも知れないけど
少し分かりあいたいからさ、
逃げ出したいほど、
内臓が出てきそうになるほど、
怖いことを、
あなたに向き合うという事を、
今この時間だけさせてくれ。
私は言いたいことをあなた達に全て言ったらさ、
涙も何かも、中にあるものが出てきてしまってとても疲れるんだけど、
それでも、一番奥の奥の大事な内緒の部分のほかは、
全部出しちゃったほうが気持ちいいからさ、
ぐちゃぐちゃになっても、なんでもいいから言うことにした。
ただ夜はちゃんと暖かい布団に入ることだけは絶対条件で、ゆっくり眠るからさ。
そしたら新しい朝が始まると思ってるよ。
お金があってもmore money?
クラウドファンディングが成功しました。
本当にありがとうございました。
感謝の気持ちがものすごいです。
いいアルバムを作ります、よろしくお願いします。
斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦!の活動報告 - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)
私はこの先を照らすことのできるアルバムを作りたい。
それが出来るのだ。これから何か悩むことがあったとしても、それは幸せな悩みだ。
お金はとても大事だ。
お金があったら、自分が良いと思ったことがためらわずに出来る。
お金だけを目的にして結果的に人の心を踏みにじるイメージを優先してしまうと「そんなもんいらない」と思ってしまうけど、それは極端なイメージだ。本当はシンプルに必要なのだ。
路上で寝ていて強姦されたことがあるというあの人が、また路上で寝ると言った日に「こんなの、はした金だから」と、
母親に暴言による虐待を受けて家に帰りたくないあの子に、「これで引っ越しなよ」と、
お金が渡せるような偽善者になりたいのだ私は。
私なんか、とずっと思っていた、今も少し思っている、そんな何もできない自信がなかった私と一緒に演奏してくれる、今は他の仕事もしてるけど、本当は音楽だけで充分生きていけるほど最高な音を出すミュージシャンや、同じく自信がなかった私を応援してくれるカメラマンとかそういう人たちに、「はい、これギャラ」って涼しい顔で渡せる自分になりたいんだよ。 それはそんなに悪いことか。
「お金持ちになるには、”自分なんかお金を受け取っちゃいけない”という心のブロックを外さなくてはいけない」
という、ネットの文章を見た。
これって「幸せ」も同じことなんじゃないかと思った。
どんなに幸せなことがやってきても、「自分がこんなに幸せになって良い訳がない」と思っていたら、その謙虚さについては愛すべきもので 少しずつでも受け取っていけたら変わっていくと思うけど、本当に本気で拒否をしてしまったとしたら、多分今までと同じ自分が続く。
良いことでも、変わることは怖い。
最高だったライブのあとにあの子が「こんなに幸せでいいのかな、この後何か悪いことが起こるんじゃないかな」と言った。
悪いことなど起こらないよ。あなたは毎日幸せだっていいんだよ、もう十分、それだけの思いを味わってきたし。と思ったから半分言った。
たとえ悪いことが起こっても、またすぐにいいことがやってくるよ。
お金も人様から受け取ることに無限の感謝は当然すれど、「受けとってはいけない気がする」と思うことはないんだ。
「お金のことだけに重きをおかないけど、差し出されたものはありがたく受け取る」というスタンスは別に矛盾しない。
こんなに私が必死なのは、「お金のことをちゃんと考えること」、これが私の苦手なジャンルだからだ。なんとなく近くにあるもの、だけどちゃんと向き合うのが苦手だった。コンプレックスですらあった。
前、自分の精神の話で、
「私は人の目を気にしすぎていて、ずーっと自分に自信がなかった。『自分はダメ人間だ』と思っていた。
だから自信が少しずつ持ててきた今は、人の目や言うことは無視してとにかく『私は最高だ!』『何も間違ってない!』と言わせてほしい。
人の助言は聞いた方がいいよ?とか言われても、いやそもそも、私は今まで散々それをやりすぎて辛かったんだから。散々聞いてきたから今は無視してるんだよ、って。
今後、″人の言うことも参考になることは取り入れて、いらないことはスルーできるような大変バランスの良い、確たる心を持った本物の自信を持った自分”になるんだとしても、急にはなれないから、今はその過程として、極端なくらいに『自分は最高だ!』と言わせてくれ。『自分はダメだ』の真逆を言い続けることで、ひとまずそこから抜け出させてくれ」
と、だいたいこんなようなことをブログに書いた(と思う)。
それと同じことがお金でも起きている。
扱うのが苦手すぎて、今までと逆で「お金お金!!!!」と今は思ってしまうけど、
本当はただ得意になりたい。お金をうまく扱うことに。自分の人生の中で、バランスよく付き合いたい。お金というものと。今はその過程だ。
クラウドファンディングでたくさんの人が「めいちゃん!応援してるよ!」って言いながらお金を支援してくれた。一人ひとりの気持ちがそこにあって、泉みたいに溢れ出してきてるみたいだった。本当に胸がいっぱいになった。
こんなに気持ちが入ったものを、私はちゃんと受け止めて、そして次の人に気持ちを込めて回したい。受け取って、回したいのだ。
だって私はやる前は、「クラウドファンディングってお金に余裕がある人がやってくれるんだろうなあ」と思っていた。もちろんそういう方も中にはいるだろうけど、大きく違った。
収入なんて関係なく、応援したいと思ってくれた人がやってくれたのだ。
支援してくれた友人が、金欠で、日雇いのバイトに行ったという話を聞いた。
「そんな中、なんで少なくない金額を支援してくれたのか」と聞くと、その子は
「友達の大事なときに、そんなみみっちいこと言ってらんない」って言った。
お金というものが、まだ何なのかよくわからない。
あのミュージシャンは「お金は紙だと答えるさ」と歌った。
紙だよね。
でもなぜか、まだ振り込まれてもいない、私が手にしたはずのお金には、溢れ出すほどの人の気持ちが込められている。
だから私はこのお金を、また別の誰かに、さらに自分の気持ちを込めて渡すことになるだろう。この事実だけはなんとなく実感している。
だから、「簡単にお金を受けとってんじゃねーよ。自分で働いて稼げよ」っていう、少し前の自分とかぶる誰かの視線がまだ少し気になったとしても、諦めたりはしないのだ。自分も周りも、もっと良くなることを。
受け取って、次に流す。
受け取る方法が、自分の身体を使うことでも、自分の精神を使うことでも、それは労働のはずだ。どんな方法が自分に合うかで、優劣ではない。詐欺とか、騙したりとか、渡した側があとになって傷つくような方法でない限りは、むしろ受け取れ、皆、もっと。
次に流すこと。それが大事だ、何に使うかが。きっと素晴らしい使い方がある。それについて考えを巡らせていたい。
*
苦手なはずだったお金のことについて、こんな風に考えられるようになるきっかけにも今回のことはなったのです。
それは数字で測れないほど、私にとって価値あることでした。
あらためて、本当にありがとうございます。
タイトルは私の好きな曲からです。
そして最近、一緒に埼玉ツアーをまわったずれずれ3ちゃんの「夜」という曲が頭から離れない。
「間違ってたってしょうがない 正しくないって何のこと? 息をする 勝手に体は生きてる」
※2/20一部加筆しました
コミュニケーション
人と話しをしているとき、その中でも特に『相手が私について話すとき』のこと。
その人が話をしている内容とか、言葉使いとかよりも、
「どんなつもりでその言葉を言っているか」、そして「(感情的に)どこを向いて言っているか」の方が気になる。
「あなたは素晴らしい」と言われたとして、本当に私のことを素晴らしいと思っていってくれているのか、『あなたを素晴らしいと誉めることができる自分が素晴らしい』もしくは『認めて欲しい』と思っているのか。
「お前なんかくたばれ」と言われたとして、本当に私にいなくなってほしいのか、『このどうにもならない気持ちをぶつけさせろ』と思っているのか。
それは私に言っているのか、言っている人が自分自身に言ってるのか。
純粋にそう思って言うのか、もしくは、言う事で何かをコントロールしたいのか。
ということの方が、
言葉やしゃべってる内容よりも気になってしまう。
もちろん人間は「黒か白か」だけではなくて、グレーの部分の方が大きいと思う。
だから、絶対どっちかに分かれるというよりも、
本当に私のことを素晴らしいと思ってくれつつ、私のことを誉められる自分のことも素晴らしいと思っているのかもしれないし、
本当に私のことが嫌いで、だからどうにもならない気持ちをぶつける対象にしたいと思っているのかもしれない。
純粋に思ってもいるし、でもあわよくばコントロールしたいと思っているかもしれない。
両方あって当たり前かもしれないし、私自身も常に、相手に対して本当にそう思う気持ちと、自分の意図をくみ取ってほしいという、両方の気持ちを持って発言していると思う。
それでもやっぱり、時間をかけて話すのであれば、変な駆け引きが必要な言葉どもよりも、
「あなたが好きです」「私はこう思います」「私は嬉しいです」「私は悲しいです」
という素直な言葉が聞きたい。人と人が一対一で話すのなら。
言葉尻をとらえて討論するのは、公の場だけでいい。
コントロールしようとしてるな、という意図が見えたり、自分自身のうっぷんをぶつけているんだな、と思うと、頭の温度が冷えていく。
でも言う方もおそらく、無意識でのことなのだとは思う。
※最初に書いた通り、『相手が私について話すとき』のことです。
このブログを書きながら、ああ私は怒っているんだなと思った。
なんか、「ラブ&ピースって言ってるし、怒りや悲しみは極力、消化して昇華してからじゃないと書いちゃダメだ。」とか思ってたけど、
自分の心の中をちゃんと「ラブ&ピース」にしておくには、怒りも悲しみもちゃんと出さなきゃダメだ。
最低限、言葉を整えて、「私は怒っています」と言わないとダメだ。
もしあなたが私の気持ちを無視して、あなたの都合が大部分を占める言葉をまるで私の責任かのように浴びせるなら、どんな整えられた言葉だとしても「私は悲しいです」。
ただ、あなたが一人の人間として1ミリでも心を寄せてくれる瞬間があるのなら、そのときは「私はとても嬉しいです」。
もちろん、わかってくれると信じている。
新年早々
2019年ですね。
皆様、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
去年はいい年でした。それは「ハッピーなことがたっくさん!」という類の良さというよりは、「いろんなことがあったけど、それが一つ一つこれからの身になっていくんじゃないかなあ」という、物語でいう大盛り上がりの前の、でも重要な伏線があちこちにあったんじゃないかと思える時間でした。
そして2019年の大盛り上がりへ。なんだかそんな予感がします。
予感というのは、根拠はないけど未来を信じるという意味でとてもいいものです。
あなたの未来も含めて、です。楽しみですね。
*
新年早々、ギャーッと泣き叫んでいたところです。
最近友人の子どもに会う機会があって、子どもが泣いたりぐずっているのを見ると「ああ、なんかわかる気がする」と思ってしまう。
私の感性、赤ちゃんと一緒になりつつある。信じてもらえないかもしれないけど、最近そんな感覚があって、気が緩んでると、何か刺激があると反射で一秒で泣いてしまう。
大人なのに…って恥ずかしくて誰にも言えなかったけど。
で、新年になんで赤ちゃんみたいになってたかっていうと、
さっき、「やれるならやった方が絶対プラスになる」という出来事があって、
「それをやらない=びびってる、逃げてる」みたいな流れになって、自分自身でも「私はびびってるだけだ」と思ってたから、「よし、これは逃げずにやろう!」と決めたつもりだったんだけど。
でも、めっちゃ泣けてきた。
「嫌だーーー!!!やりたくないーーーー!!!」って。
「ウワーーーーーー!!!!」って。
もう理屈じゃない。理屈じゃないんだよ。
やりたくないことをやらないのは逃げてるって、逃げさせてくれよ。
逃げずにそれをやったらいいことがあるかもしれないけど、
やってるとき、やり終わってからも辛いと思う心を、自分以外の誰もケアしてくれやしないよ。
それに実は私、何度かそれを試したことはあったんだ。やらず嫌いだったわけじゃないんだよ。
でも何回やっても一向に慣れることはなく、それをやってる間ずーーーっとしんどい気持ちだったんだ。
多分、向いてないんだよ。
できないこと、向いてないことから逃げて逃げて、
得意なこと好きなこと楽しいことをやろうって、そんなにいけないことかな。
私は、何度か書いてるけど、ライブを始める前、人前で歌うのが本当に怖くてやりたくないと思ってた。
でもそれは、今思えば「人前で歌うこと」が怖いというよりは、「人前で歌って、悪い評価をされること」が怖かったのだと思う。「いい評価しかされない」ってわかってたら、すぐやってたと思うし。笑
でも歌うこと自体は本当はずっとやりたかったから、「人前で歌う」のができるようになるために、「人前で歌って、悪い評価をされるんじゃないかと思うこと」を乗り越える必要があったから、あのときの怖さは、確かに乗り越えなくちゃいけないものだった。
そういう「本当にやりたいこと」を焦点に当てたときの、「これは逃げちゃダメだ!」ということは、確かにあると思う。
でも、今のこの「やりたくない!!!!」と私の心が赤んぼのように叫ぶことは、本当にやりたくないことなんじゃないかなと思った。
できるならやる、に越したことはないけれど、この私の心の中の子どもが本気で嫌がるのを、無視してまでやることではないのじゃないかと。
だって無視し続けたら、きっと絶望しなくていい未来に絶望してきちゃうもんね。
誰かがすごく待っていることなら、また気持ちも変わるのかもしれないけど、
誰にもそれは期待されてないよ、ってことで、先に勝手に、やらなきゃと思いこんで辛くなって苦しむことで、実際に誰かが待っててくれることに力が注がれず、非効率じゃないかとも思う。
ちなみに言っておくと、私以外の誰一人、私を責めてる人はいない。
「逃げてんじゃないの?」って責めてるのは自分自身だし、これはすべて、私の心の中で起こってる出来事でしかない。
自分は、ビビりだ。そして器用ではない。という自覚があるからこそ、なるべく、いろんなことから逃げないよう、頑張らなきゃ、と意識をしてきた。
でも、これから必要なのは、嫌だなと思うこともすべて引き受けること、ではないかも知れない。
泣き叫びたいほど嫌なことは、とりあえず置いといて、
いい未来になることを予感させてくれるような、ニヤニヤしちゃうような出来事を積み重ねていくこと。
これからはそっちに焦点を当てたらいいのかもしれないなと、泣いたことでなんだかとても分かったような気がした、この年最初の日。
私の感情よ、新年早々さっそく働いてくれてありがとう。
*
そんなわけで、周りとか、正しいとされてることとか、そういうものより、
あなたの感情が健やかであることが一番いいな、と思いつつ
青い空を眺めています。
もうすぐ暮れていきます。
☟これは達成できるよう頑張りたいです
斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)
私の軽やかさ
初アルバム作成にあたり、クラウドファンディングを開始しました。
あなたの過去の意味を、未来につなぐためのものにする音楽と、アルバム作りよ。
500円からすべての支援者の名前をクレジットするから、この現代のラブ&ピースにあなたも参加しちゃいなYO!
軽やかになりたいと思っていた。
だって重苦しい深刻なものよりも、軽くて楽しいものの方が、人は惹きつけられるでしょう。
だけど「軽やかになりたい・・・!」とか思ってること自体がすでに重い。(笑)
し、このクラウドファンディングを始めるまでにも、クセになってるよなどうしようもなく重苦しい気持ちが手放せなかった。
クラウドファンディングのページにも書いてある、やるまでの心の葛藤。だいぶポップに書いたけど、本当はもっともっともっとウジウジしたものがあった。
だって失敗したらカッコ悪いじゃない。
同じ仕組みで何百万と集めてる人がいる中で、達成できなかったら、「お前の価値なんてそんなものだ」って言われてるみたいじゃない。
人からお金を集めるなんて、斉藤も変わったなあ…、とか思う人がいるかもしれないじゃない。
やるなら、なるべく楽しく、気軽にできるものにしないと。それはわかってはいたけど、
じゃあ私のこの、楽しくも気軽でもない不安の置き場を、どこにすればいいんだよって思ってた。
本当のことを全部塗りつぶす嘘をつかないといけないのか?ウジウジしたものを、好きな人は少ないのはわかるけど。
でも不安を打ち消す何かが欲しい、そしたら出来るし、私。と思っていた。
(ちなみに何社かのクラウドファンディングに試しに登録したりしたが、今載ってるくらいの文章でも、「マイナスなことはあまり書かない方がいいです」とはっきり言われたところもあって、「これくらいでマイナスって思われたら、私はどうすればいいんだよ!『ウエーイ!皆よろしくお願いネッ🌟』とかしか書けないのかよ!」と思った、ということもあった。)
でもとにかく、そんなウジウジした不安な気持ちを、打ち消すのではなくそのままにした形で、
それでも「動く」という方に舵をきれた自分は、本当に偉かった。
誰になんと言われようと偉かったのだ。
路上ライブを4年越しにやっとできたときみたいに、1年かかった。
それでもできたんだ。
なんでも不安に考えすぎてしまう、大変重苦しい自分だけど、
やる方に吹っ切ったときは、「それでも私やるわ」という、
『ノリ』で『流れに乗っただけ』のもので、
不安を覆すだけの理由などは特になかった。ただ、よしゃ、と始めた。
大変軽やかな気持ちだったと思う。
それが私の軽やかさなのだ。
もじゃもじゃ。
しかもすでに十数人協力してくれてるんだ。画面の向こう側の誰かが、力をくれるなんて、こんなことが起こり得るんだ。奇跡が普通に起きてるなんて、すごい世界だ。
不安に思ったことをなぞる道ではなく、奇跡の道を選んだのだ。
私はこのプロジェクト、始めた時点ですでに成功しているんだ。
だからあとは、一人でも多くの名前を、全方位に最高のラブ&ピースになるであろうアルバムに刻むために、「やってまーす」ということを広めるだけだ。
軽やかさにもいろいろあるんだ。
魅力的に人を煽ることができて、良い意味での軽薄さで楽しそうにワイワイしている人たちは未だにうらやましい。
でも、私には、私の、軽やかさがある。
それは『一見現実を重く深刻に考えてるようで、実際は空を飛べると本当に思っちゃってる』というようなもの。
『すごい長い時間ウジウジしてたのに、ある日突然、裸足で走り去っちゃう』というようなもの。
誰かに疎まれるかもしれないことも、明確な数字で導き出されるものも、とても怖い。
それでも、あなたたちと、もっと素晴らしくて大きくて美しいものを作ることができるってことを、全然これっぽっちもまったく諦めてない。
私なかなかチャラいでしょう。軽いでしょう。
だからヘーイ、そこの人!迷ってないで、ポチッと押して、名前刻んで、早くこっち側においでYO!
斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)