「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

許して許して

世の中のものが全部、許せないものだらけのときは辛かった。何を見ても、どんな人を見ても「あんなのありえない!かっこ悪い!ダメだ!批判!」って決めつけてたら、自分が何をするにしても「こうやって批判されるかもだから止めとこう」ってなって、結局何もできなくなったし、単純に嫌いなものに囲まれてるようでずっと気分が悪かった。

 

だから今度は、どんな人もどんな出来事も許してばかりにしてみた。それも最初は天使みたいな気持ちになれたけど、だんだん辛くなってきた。自分を傷つけるものにさえ「仕方がないんだ」って思い過ぎると、無理してるから余計近づきたくなくなるし、「こんなことで心痛めてる場合じゃないんだ」みたいに、痛いところを無いものみたいに扱ってしまいがちになっていた。

 

今やっとちょうどよくなってきたところ。

例えば傷つけられることを言われても「アイツ私を傷つけやがって二度と一生許さないからな」でも「あの人だって悪気があったわけじゃないから…悪い人じゃないから気にしちゃダメ…」でもなく、「むかつくなー!けどまあ悪気 or 余裕ないんだろな」っていう丁度いい心持ちでいられるようになった。

 

誰かに、怒ったりする。でもその人全部に怒るというより、その人が知らずに自分(や他人)を疎かにしてきた部分に対してだけ怒る。

自分も自分で、言葉足らずなところがあったなら謝る。

それでも上手くいかない関係なら、どちらかの感情が過剰か、単に合わないだけ。

多分今は一緒にいるべきじゃないのね、とそっと離れる。それがお互いの「平和」だったりする。

 

許す、許さないって感覚は、もちろん怒りとか哀しみとか、強い感情を伴って発生したことだから熱くなっちゃうしコントロールが難しいけど、

だからこそあえて冷やして、ちゃんと区切って、思ってることは言葉にちゃんと出して、その結果でわかりあえたり わかりあえなかったとしても静かに「ウン」って飲み込む。

そこでかつての私みたいに「なんでなのよぉおおおお」とのたうち回る時間は少しでも減らして、次に行けるように。

 

不完全な私も、きっとそうやって許されてきたから、同じようにしようと思う。

 

サバイバル

昨日できた新曲。歌っていて苦しい。心的に。

これは初めての気持ちで、どういうことなのだろう。

良いことなのか、悪いことなのか、この先変わっていくのか、わからないから、しばらく様子をみていようと思う。

 

 

なんだか最近私は人に対してサバサバしている。

前はもっと、目の前にいる人を1ミリも傷つけまいとして配慮、というより、むしろ常に警戒しながらしゃべっていた。(それでも口がすべって何やら言わなくてもいいことを頻繁に言ってしまっていたけど)

今だって、決して目の前の人をおろそかにしているわけではないけど、でも「私が180%気を付けて会話しないと傷ついてしまうだろうなんて、目の前の人はそんなに弱くないだろう」と思うようになったので、そんなに神経を張りつめなくてもいいや、と思うようになった。

 

どんなに気を付けていたって、傷つくときは傷つくし、傷つけてしまうときは傷つけてしまう。

伝えたいことを伝えるには、気をつかって話すことよりも、言葉を焦らず、丁寧に選ぶことのほうが大切だから、相手の気を損ねないようにすることよりも、その伝え方に神経を注いだ方がきっといい。

 

それに私はもともと残酷なところがあって、どんなに人として大好きな人だって、何かが噛み合わなければ「今はごめん」「ジジババになった頃にまた会おう」となるし、

どんなに人として「この人悪い人じゃないんだよな、むしろいい人なんだよな」ってわかってる人にだって、話しが長くてやたら時間を多くとられたり、実物とは程遠いその人の中の思い込みの”斉藤めい像”を作られてたりすると「もう無理です!グッバイ!!」ってなることができてしまうし。

 

どんなに気をつかってみたって、どうせ最後には嘘つけないんだから。

最初から普通でいいや、と思うようになりました。

年をとるというのはいいことです。あんなに無駄な(とまではいわないが、自分が疲弊するほどの)労力を使っていたことを、無駄な部分だけ切り離して、必要な部分を選ぶことができるようになるのだから。相手に無駄な期待をさせることを避け、自分の心の平和を守れるのだから。

 

それより大事なことなんてあるか。

(もちろん自分よりも相手が大事になる場面、深く傷ついた人を前にするときなどは例外だ)

 

誰かと比べたらこれでもまだまだネチネチしているかもしれないが、

自分基準でいいから自分史上最大にサバサバとしてくわ。

 

 

私のブログはきっと流行らないだろうね?

夕焼けの空を眺めていて、あれ、もしかして今完璧じゃない?

ずっとここにいてこうしていたらいいんじゃない?

なぜ、変わろうとするのか、進もうとするのか。

今、この時点で、私と空があって、もう他に何も求めることなんかないのに。

なんで私は、ベランダ空を見上げるのをやめて、部屋の中に入って、また日常を取り戻してしまうんだろう、と思った。

ずっとここにいてこうしていたらいいのに。

 

でもすぐ未来には、日は沈んで、朝がきてすごい暑くなって熱射病になったり、お腹がすいたり蚊に刺されたりして、ここから動かなくてはいけなくなるから。

束の間、すべてが一つになった感覚を思い出して、でもすぐに変わってしまうから、動かなくてはいけなくなるから、私はいつもの時間に戻る。

いつもの時間はいつも通り流れるけれど、いつもの私の上に空がある、ということを私は気づく。

 

これは高校生のときくらいから掴み始めた感覚で、

泣きながら帰った夜もなぜか優しい暗い空がやたら優しく大丈夫、と言ってる気がして「これは私の現実逃避、錯覚なんじゃないだろうか」と思っていたけど、どうやら本当だったみたい。感情は空と繋がることができるみたい。

 

まだこの感覚を持てているのが、少し嬉しい。

 

 

同じものをずっと好きでいたいけど、変わっていく自分が恨めしくなったりはするけど、私が感じることすべては、多分正解なんだよね。

右でも左でも真ん中でも上でも下でもある私

誰を選んで、誰を好きになって、嫌いになって、応援してみたり、批判してみたりすること。

何もかもが自由ではあると思う。

だけどそういう自分の”感情”と共に、「人間って、そういうものだよねえ」という″理解”が必要だとも思う。

 

『人間って、権力とか影響力を持ったり、そして持ったまま長い時間が経ったりすると、最初は良かったとしても、力があるのが当たり前になってしまって、その立場を失うことが怖くなったり、失わないために隠し事をしたり嘘をついたり、横暴になったり、弱いものに力を振りかざしたりしてしまうものだよねえ。 ものすんごい精神力があれば、そうはならない人もいるかも知れないけど。大多数はそうでも仕方ないよねえ。』 とか、

『人間って、自分の都合の良いように、自分が見たいように世界を見ようとするものだよねえ。弱い私はもちろんそうだけど、強いあなたですら、そうだよねえ』とか、

『人間って、人には言わない欲があるんだろねえ。』とか。

 

そういう、どうしようもなく愚かな、悪くて黒くて弱いところを”理解”した上で、

最近のニュースで、時が流れてどんどん形が変わっていくもの、どうしても古い形で今に合わないから一度壊れないといけないもの などを、見ていると。

そこに携わる人達の悪いものを決してそのままにすることなく、だけど必要以上に責めることもなく、善いものは見逃さず、と、誰かの言動に一喜一憂することなく、自分の中に時代の流れの感覚を、取り入れることができる。

それが出来たら、今まで流れてきた時間を、過ぎ去った時代を、そっと大事にしまっておくことができる。

 

"理解"がないと、ただ自分が好きな者の”悪さ”を認めたくなくて、ただ受け入れられなくて、反対側にいるものを責めたり批判したりするしかなくなる。嫌いな者の”理解はできる”部分を見逃してしまう。

対象の、その場の一つの言動や行動で、判断するしかなくなるので、昨日まで批判してたのに今日は擁護してみたり、自分の態度が二転三転してしまう、一つのニュースにいちいち翻弄されてしまう。

 ましてやテレビやインターネットの膨大な情報の中。

誰が悪くて誰が良いのか、訳が分かんなくなって、訳が分かんなくなってる自分自身を守るしかなくなってきて、攻撃的になったり、決めつけてみたりする。

 

でも、もともと人間ってどんな生き物だっけ、と元をたどって原点に返ってみれば、善悪はっきり分かれることばかりではないと気づく。

自分が直接携わっていることなら白黒はっきりつけなきゃいけないこともあるだろうけど、そうでないなら、まずはなりゆきを見守る。決めつけないでいる強さを持ちたい。

「そのような流れになりましたね」と見守ることに神経を注ぎたい。

 

ただ、長年何かを拗らせた人(思考が偏り過ぎた人)が、長年熟成させたドロドロしたヘドロみたいなものの中にまた多くの人を巻き込んでいるところを見たら、やっぱり私も思う。「どうせ壊れてしまうものに、執着するな。そんな醜いものはぶっ壊しちまえ」。

 

 

ニュースに出てくる人、それを見ている私たちも、その小さな強さ一つ一つを持てたら、と思う。見守ることができる優しさと強さ。本当に悪いことは、断ち切る勇気。

やさしさ強さ・勇気なんてありきたりな言葉だけど、言葉を本気で使うのであれば、ありきたりな言葉にこそ大事なものがこもっている。

 

そしてその私たちのやさしさ強さ勇気が周りまわったら、胸が引き裂かれるような辛い出来事を、二度と産まないことへ、一番効果があると思う。

いつでも焦る気持ちは強い方で、焦ってるのが平常運転みたいなものなんだけど、

時には深呼吸して焦らないのも大事だな、焦ったら余計遠回りなんだから、いったん落ち着くことが逆に物事が早く進むよね。とか大人になったから思える。

それでもやっぱり、焦っている。

何に焦っているのかはわからない。

早く何かができるようにならなければ、という焦燥感もある。

いつか死んでしまうんだから、限りある時間をちゃんと何かをして過ごさなければ、という思いもある。

 

そして何よりも、手遅れになってしまう前に早く、という思いがある。

あの子が死んでしまう前に、あの人に届かずに終わってしまう前に、早く、何かできるような力をつけなければと思う。

それが一体、具体的にどこの誰の事なのか、どこに向いた気持ちなのかはやっぱりわからない。ただなぜなのかそう思う。

 

でも私の焦りはときに暴走して、焦りすぎて頭の中が大混乱を起こして、脳みそはグルグル回転してるのに、いやそれがゆえに実際の行動は何ひとつ起こせていないことがある。外側からみたらむしろ止まってるように、サボってるようにみえることがある。

こんな自分が嫌になったりやっぱり昔はしてたんだけど、今は「ごめん今混乱中、考えてないわけじゃないから(むしろ考えすぎてこうなってるから)」となるべく周囲にちゃんと告げることで、「こいつ止まってるけどやる気ないのか?」などと思われるであろう誤解をされないようにはしてる。でも完璧では全然ない。

どうしてこんなに、何もかも怖いんだろう。せっかちなのに結論を出すのが遅いんだろう。直感で勝負!思いついたらすぐに行動!とかさ、頑張るけどさ、多分向いてはないかも。

 

と思うとやっぱり「急がば周れ、ゆっくりやった方が結果的に近道だったりするんだよ!!」と自分に言いたくなるけれども。でもこの焦りはきっと、前の前のブログで書いた「頑固さ」と同じで、自分のエンジンにもなってるものなんだと思う。

焦ったっていいじゃんと言いながら私は私のスピードを、ほんのちょっと焦るのか、ものすごく焦るのか、調整しながらやっていくよ。

人によって速度というものがあるのなら、「ゆっく~りのんび~り」というリズムは、自分の中には元々なく、くりかえし練習して慣れないとできない。

楽器の練習とかにも似ている。

だから今は得意の焦りを極める。

こういうときは少ししか焦らない、今はこれくらい焦ろう、とかをコントロールできるようになったら、ゆっくり本当の深呼吸もできるだろう。

 

 

 

何一つ、誰にも何一つ文句など言えない。

人に文句なんて言うとしたら、きっとそれは私が悪いのだ。

本当に自分が定まっていれば、人のことなんて気にならないはずだ、自分のことに集中できていないから、人が気になるのだ。と思っている。

それでも、時には文句を言いたくなるようなことも悪くないとも思う。

文句ばかりじゃつまらないけど、いつもニコニコしてるあの子の文句なら、聴いてみたいし。

 

それで私は愚痴のようなものを言う。

何もかも、悪い訳じゃない、ダメなものは一つもない。間違ってるのは私の方かもしれない。でもそれでも、そんなことをやってる場合じゃ、そんなことを歌ってる場合じゃ、そんなことを気にしてる場合じゃないだろう、と思う。

なぜなら今は、緊急事態なんだ。

あの人が死んでしまわないように、あの人が絶望してしまう前に、あの人が狂気に呑まれ後戻りできなくなる前に。

SNSを見ながら、ニュースを見ながら、そんな風に静かに焦っている。

 

 

アルバム発売延期についてのお知らせ | 斉藤めい

 

 

 

GO

あまり長く書かないと忘れ去られてしまうよなぁと思いつつも、

消極的な理由では「これを書いたところで何になるんだろうの無限ループで何も書けなくなる期間に突入してた」、

前向きな意味では「レコーディングという音楽を記録する作業を生まれて初めてとても建設的にできていたから、文章で記録することが一時的に必要なかった」

という訳で久しぶりになってしまいまして。

 

レコーディング、誕生日、少なくなった分より濃密になったライブの時間、嬉しい時間は足跡を大きく残して過ぎてった。

 

レコーディングは頭を使う作業かと思っていたけど、全身を使うものだった。

みんながみんなそうなのかはわからないけど。

そもそもレコーディングをどうやるかっていうのを、やる前は誰も教えてくれなかった。だいたいこんな感じ、こんなやり方がある、というのは聞いていたけど。

なぜなら本当に人それぞれのやり方があるから。これが絶対に正しい!というのがないから。

だからとても不安だったし、そして今楽しいのだと思う。もちろんめちゃくちゃ他の人に助けられている。エンジニアに、ほかのミュージシャンに。その道のプロや、私より遥かに慣れてる誰かがいるから慣れない事もなんとかできてる。私ができないことをどう補ってもらうことも含めての、「私の方法」。

クラウドファンディングを支援してくれた人たちにも、金銭という面で補われている。

 

自分の方法を見つけるというのは幸せなことだ。

だけどマニュアルがないことをやるのは、条件があわさった上で、勇気も少し必要で、感覚を頼りに進むことで、たどりつけたのはただのラッキーとしか言えない。

 

このラッキーを申し訳なく思うのではなくて、ならば全身で味わおうと思う。

一つ一つの音が、少しずつ重なって一音一音、1フレーズ、ひとつのリズムを、とても好きな人たちが鳴らして出して、そして合わさって見たことない景色になっていくのを、その中にいることがとても幸せです。

 

 

さようならするのはかつて会った誰かではない。

気付いたらSNSでフォローが外れていた誰かなどではない。

そこにいた少し前の自分だ。でも寂しいことなど一つもない。

準備はずいぶん前から始まっていたけど、捨てる勇気がなかった。

私でさえそうなんだから、優しいあの人ならもっとそうだっただろう。

 

だけどもう一度言う、寂しいことなど一つもないんだ。

だから行こうぜ、と思う。

どこまでも行こうぜ、と思っている。

 

君にふにゃふにゃ

もう二度と歌えない気がしてたけど声が出た。

自分は死んでしまったのかと、死んでなくても随分長い時間深い水の底みたいなとこにいたなと思っていたけど、まだ二週間、いや一週間くらいしか経ってなかった。

やっぱりとてもせっかちみたい。

 

 

何度同じことを繰り返してもできないことができなくて、

「できない自分はダメなんじゃないか」「自分に甘いんじゃないか」と考えていたけど、

それでも出来ないなら、もう「やらない」と決める。

やらない。

逃げてるとか、甘えてるとか、精神論に置き換えてしまいたくない。ただ、効率が悪いから、やらない。

「超苦しいけど、今後の為になるかもしれないから・・・」みたいなことをやって、結局二週間くらい精神的にひきこもって何もできなくなるより、その二週間で苦がなくできることをやった方が効率いいでしょう、というシンプルな話し。

 

 

私は時々、「あなたは頑固で頭が固い」と言われることがある。

そうそう~昔からそうなのよ~と思う気持ちもあるし、でも、場面によっては誰よりもフニャフニャだしテキトーなんだけどな?という気持ちもある。

でも、もし本当に私の頭が実際に石みたいに固いとして、それがなんだっていうんだと思う。

もし、この固い頭を私以外の全人類の平均値くらいにまで柔らかくしたら、今より幸せになれることがたくさん待ってるのか、と考えたときに、特にそうでもないんじゃないかと思う。

だって頑固さは、強固に「絶対に曲げねー」と思ってる、自分の最も強い部分と繋がってる。その部分から生み出した歌もあった。強い部分があったから、死なないでいられた。許せた誰かがいた。

 

勿論、「こういうときはもっと柔軟に考えた方が楽になるかも」とか、ある一部分について変化するのはいいと思う。

でも、頑固なことはマイナスで、みんなと同じくらいまで柔らかくならないといろいろ上手くいかないんじゃないの?と、謎に強制してくる世間、いや、世間に影響された自分の声になど、「だからどうしたんですか」と返せばいい。

そこまでの強烈な自分の個性は、今まで自分や、少しの誰かを、確かに助けてきた部分のはずだ。これからより使いこなせるようになってきて、もっともっと強くてしなやかな、自分を形成する大事な部分になる予定で、誰かを守るものにもなりうるかも知れないのに、今周りに合わせて平均化する必要はないんじゃないかと思う。

そもそも、直せるものじゃない。

 

でも頑固すぎたら弱みにもなるかもしれないって?

 

いや本当に大事なのは、頑固なのか柔軟なのかとかじゃなくて、『判断力』なのだと思う。

「意志を絶対に曲げない方がいい」ときと、「柔軟に意見を取り入れた方がいい」とき。

一体どっちが正しいの?とか思うけど、どっちも正しいし、状況によって変わるし、人によっても変わる。ただそれだけのこと。本当に必要なのは『今の自分と今の状況では、どっちがより良い結果になるか』を的確に選ぶことが出来る、判断力だけなんだよな。

どちらかの言葉が正しいって訳ではない。「絶対に曲げない方がいい部分」のたった1センチ隣は、「変えた方がいい部分」かも知れない。

 

あとは、流行の風潮があるだけ。

 

例えを変えると、「とにかく自分の力以上にがむしゃらに頑張った方がいい」って言葉と、「自分のペースで自分を大事にした方がいい」って言葉があって、一体どっちが正しいの?とか思うけど、どっちも正しいし状況によって変わるし人によっても変わる以下同文!

 

それで今は、やっぱり頑張りすぎちゃって疲れてる人が多いから、「自分を大事にした方がいい」って言ってあげた方がいいという風向きが強いと思う。

「がむしゃらに頑張った方がいい」が、間違ってる訳では決してないし、ある特定の個人に向けてだったら励ましになるけど、世界に向けて「がむしゃらに頑張れ!」って叫ばれたら辛い人の方が多いのかも知れない。

『今はどっちなのか』を判断するということ。

 

そう。判断。判断をするだけなのだ。

 

だから私の『性質』まで変えてしまおうとしないで、その性質を持ったままで、その場そのときで自分が納得できる、良い判断ができたらいい。

「頑固ですね(あなたのそういうところがダメなのよね~的な)」という言葉は、正しいかも知れないけど、表面をなぞっているただの感想だ。

 

確かに頑固かも。でも誰より柔らかいところもあるよ。

そんな風に自分だけがわかっていることを、決して一つの言葉だけで決めつけてしまわないで、いろんな面から見つめて、最後には決めつけの言葉から手放して

うん

そうだね

これが私だわ

みたいに、断片的な感覚だけに戻してみるという作業をしてみてはいかがでしょうと自分に語りかけてみた。

 

 

 

 またすっごい感覚的なブログを書いてしまった。