「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

ねずみに齧られても

斉藤めいです。今年もよろしくお願いいたします。

 

って言いつつ随分時間が空いてしまい、あまりに時間が空いてしまうと人は忘れてしまうから、このブログだって多分忘れ去られてしまってて、それも仕方ないんだよなぁと思う。寂しいなぁとも。

思いながらでも、じゃあ毎日のように更新するとか、こんなにサボることはもう絶対に致しません!とか宣言したとしたら、できなかったときに自分で自分にダメージをくらわせることになるので、「途切れてしまったものは仕方がない。また一つ、一つ繋げていくしかないな」と思ってもいる。

 

去年、というか文章を書かなかった間、いろいろ重要なことがありました。

ファーストアルバムのレコーディング、そして発売。

そしてライブ、ライブ、ライブ。遠征含む。

レコーディングはめちゃめちゃ楽しくて、何もかも始めてのことで時間は予想外にかかってしまったけど、やっとできたこの1枚への気持ちと、でも思うように宣伝とかセールスとか赤字の件とか皆の反応とか、まだまだ頑張らなきゃいけないと思う。

ライブに対しても、いろんな場所いろんな人に出遭えたりもうめちゃめちゃに楽しいときもあったけど、悔しい場面もたくさんあった。

そんな日々を送っていたら2019年最後のライブ、12/22の次の日からまったく動けずに心身ともにひきこもりになっていた。

 

グアアアアーーーーとある期間、人前に出たら、反動というか、それを取り返すかのように内側に篭りたくなる。しかもネガティブを引き連れて。誰とも何も話したくない。

なに?これは、躁鬱?とかいろいろ考えたりするけどもね、これも「波があるのだから仕方ない。山と谷。光と影。A面とB面。今はこういう時期なだけ。」と言い聞かせる。言い聞かせている。

 

私のネガティブは、他人が羨ましくって仕方がない。

それはもう、テレビの向こうのあの人から、とっても身近なあの人まで、自分に持たないものを持つすべての人の、すべての特性がうらやましい。

どうして自分はこんなにダメで、皆はこんなに優っているのだろうと、どんなに自分で自分をよさげな言葉で励まそうと、誤魔化してみようとネットサーフィンしてみても、そんな思考は何も消えちゃくれないのだけど。

 

このまんま行くしかないということがわかった。

すんごいありがたい言葉とか、誰かの生き様とか、自分にとって良いものをたくさん集めてみようとしてたんだけど、どれも今日みたいな自分をなぜか傷つけるんだ。

誰かの中にはなく、自分の中にしかないみたい。

超・自我が強い私にとっては、憧れだとか、見習う、だとかそういうのは過激な言い方をすれば邪魔にしかならなくて、自分の力の足りなさも、結局誰かとの差異も「だからなんなんだよ」としか思えなくて、そう考えたらネガティブに思えた「他人へのうらやましさ」も、結局は自分が自分の世界のど中心にいるっていうことの証明でしかなかった。

 

誰かへのやさしさも、自分がこの世界で確かに居たいからなのかもね。

 

さあ、さあさあそこで。

それでもやっぱりこの世界は思うだけでは、動かないと何も始まらない。

手を、足を身体を動かして、そして心を伴わせる。

いろんな見本がそこら中に広がってるけど、私にはどれもマネするのは困難、すぐに立ち止まってしまう。それでもまた動き出す準備を。

止まってしまったら、今までの頑張りもなくなってしまいそうな気がしても、それでも止まってしまったのなら、また一つ一つ、動き出すだけです。

世界は待ってはくれない。

それでも、私の世界はここよ。とずうずうしい体感時間にてみんながとっくに忘れた頃に思い出して欲しい大事なものを歌って行くよ。

あらためて、今年もよろしくお願いいたします。

 

アルバム聴いてくださいね。

まずは↓の動画からどうぞ。

 

saitome.localinfo.jp

 

許して許して

世の中のものが全部、許せないものだらけのときは辛かった。何を見ても、どんな人を見ても「あんなのありえない!かっこ悪い!ダメだ!批判!」って決めつけてたら、自分が何をするにしても「こうやって批判されるかもだから止めとこう」ってなって、結局何もできなくなったし、単純に嫌いなものに囲まれてるようでずっと気分が悪かった。

 

だから今度は、どんな人もどんな出来事も許してばかりにしてみた。それも最初は天使みたいな気持ちになれたけど、だんだん辛くなってきた。自分を傷つけるものにさえ「仕方がないんだ」って思い過ぎると、無理してるから余計近づきたくなくなるし、「こんなことで心痛めてる場合じゃないんだ」みたいに、痛いところを無いものみたいに扱ってしまいがちになっていた。

 

今やっとちょうどよくなってきたところ。

例えば傷つけられることを言われても「アイツ私を傷つけやがって二度と一生許さないからな」でも「あの人だって悪気があったわけじゃないから…悪い人じゃないから気にしちゃダメ…」でもなく、「むかつくなー!けどまあ悪気 or 余裕ないんだろな」っていう丁度いい心持ちでいられるようになった。

 

誰かに、怒ったりする。でもその人全部に怒るというより、その人が知らずに自分(や他人)を疎かにしてきた部分に対してだけ怒る。

自分も自分で、言葉足らずなところがあったなら謝る。

それでも上手くいかない関係なら、どちらかの感情が過剰か、単に合わないだけ。

多分今は一緒にいるべきじゃないのね、とそっと離れる。それがお互いの「平和」だったりする。

 

許す、許さないって感覚は、もちろん怒りとか哀しみとか、強い感情を伴って発生したことだから熱くなっちゃうしコントロールが難しいけど、

だからこそあえて冷やして、ちゃんと区切って、思ってることは言葉にちゃんと出して、その結果でわかりあえたり わかりあえなかったとしても静かに「ウン」って飲み込む。

そこでかつての私みたいに「なんでなのよぉおおおお」とのたうち回る時間は少しでも減らして、次に行けるように。

 

不完全な私も、きっとそうやって許されてきたから、同じようにしようと思う。

 

サバイバル

昨日できた新曲。歌っていて苦しい。心的に。

これは初めての気持ちで、どういうことなのだろう。

良いことなのか、悪いことなのか、この先変わっていくのか、わからないから、しばらく様子をみていようと思う。

 

 

なんだか最近私は人に対してサバサバしている。

前はもっと、目の前にいる人を1ミリも傷つけまいとして配慮、というより、むしろ常に警戒しながらしゃべっていた。(それでも口がすべって何やら言わなくてもいいことを頻繁に言ってしまっていたけど)

今だって、決して目の前の人をおろそかにしているわけではないけど、でも「私が180%気を付けて会話しないと傷ついてしまうだろうなんて、目の前の人はそんなに弱くないだろう」と思うようになったので、そんなに神経を張りつめなくてもいいや、と思うようになった。

 

どんなに気を付けていたって、傷つくときは傷つくし、傷つけてしまうときは傷つけてしまう。

伝えたいことを伝えるには、気をつかって話すことよりも、言葉を焦らず、丁寧に選ぶことのほうが大切だから、相手の気を損ねないようにすることよりも、その伝え方に神経を注いだ方がきっといい。

 

それに私はもともと残酷なところがあって、どんなに人として大好きな人だって、何かが噛み合わなければ「今はごめん」「ジジババになった頃にまた会おう」となるし、

どんなに人として「この人悪い人じゃないんだよな、むしろいい人なんだよな」ってわかってる人にだって、話しが長くてやたら時間を多くとられたり、実物とは程遠いその人の中の思い込みの”斉藤めい像”を作られてたりすると「もう無理です!グッバイ!!」ってなることができてしまうし。

 

どんなに気をつかってみたって、どうせ最後には嘘つけないんだから。

最初から普通でいいや、と思うようになりました。

年をとるというのはいいことです。あんなに無駄な(とまではいわないが、自分が疲弊するほどの)労力を使っていたことを、無駄な部分だけ切り離して、必要な部分を選ぶことができるようになるのだから。相手に無駄な期待をさせることを避け、自分の心の平和を守れるのだから。

 

それより大事なことなんてあるか。

(もちろん自分よりも相手が大事になる場面、深く傷ついた人を前にするときなどは例外だ)

 

誰かと比べたらこれでもまだまだネチネチしているかもしれないが、

自分基準でいいから自分史上最大にサバサバとしてくわ。

 

 

私のブログはきっと流行らないだろうね?

夕焼けの空を眺めていて、あれ、もしかして今完璧じゃない?

ずっとここにいてこうしていたらいいんじゃない?

なぜ、変わろうとするのか、進もうとするのか。

今、この時点で、私と空があって、もう他に何も求めることなんかないのに。

なんで私は、ベランダ空を見上げるのをやめて、部屋の中に入って、また日常を取り戻してしまうんだろう、と思った。

ずっとここにいてこうしていたらいいのに。

 

でもすぐ未来には、日は沈んで、朝がきてすごい暑くなって熱射病になったり、お腹がすいたり蚊に刺されたりして、ここから動かなくてはいけなくなるから。

束の間、すべてが一つになった感覚を思い出して、でもすぐに変わってしまうから、動かなくてはいけなくなるから、私はいつもの時間に戻る。

いつもの時間はいつも通り流れるけれど、いつもの私の上に空がある、ということを私は気づく。

 

これは高校生のときくらいから掴み始めた感覚で、

泣きながら帰った夜もなぜか優しい暗い空がやたら優しく大丈夫、と言ってる気がして「これは私の現実逃避、錯覚なんじゃないだろうか」と思っていたけど、どうやら本当だったみたい。感情は空と繋がることができるみたい。

 

まだこの感覚を持てているのが、少し嬉しい。

 

 

同じものをずっと好きでいたいけど、変わっていく自分が恨めしくなったりはするけど、私が感じることすべては、多分正解なんだよね。

右でも左でも真ん中でも上でも下でもある私

誰を選んで、誰を好きになって、嫌いになって、応援してみたり、批判してみたりすること。

何もかもが自由ではあると思う。

だけどそういう自分の”感情”と共に、「人間って、そういうものだよねえ」という″理解”が必要だとも思う。

 

『人間って、権力とか影響力を持ったり、そして持ったまま長い時間が経ったりすると、最初は良かったとしても、力があるのが当たり前になってしまって、その立場を失うことが怖くなったり、失わないために隠し事をしたり嘘をついたり、横暴になったり、弱いものに力を振りかざしたりしてしまうものだよねえ。 ものすんごい精神力があれば、そうはならない人もいるかも知れないけど。大多数はそうでも仕方ないよねえ。』 とか、

『人間って、自分の都合の良いように、自分が見たいように世界を見ようとするものだよねえ。弱い私はもちろんそうだけど、強いあなたですら、そうだよねえ』とか、

『人間って、人には言わない欲があるんだろねえ。』とか。

 

そういう、どうしようもなく愚かな、悪くて黒くて弱いところを”理解”した上で、

最近のニュースで、時が流れてどんどん形が変わっていくもの、どうしても古い形で今に合わないから一度壊れないといけないもの などを、見ていると。

そこに携わる人達の悪いものを決してそのままにすることなく、だけど必要以上に責めることもなく、善いものは見逃さず、と、誰かの言動に一喜一憂することなく、自分の中に時代の流れの感覚を、取り入れることができる。

それが出来たら、今まで流れてきた時間を、過ぎ去った時代を、そっと大事にしまっておくことができる。

 

"理解"がないと、ただ自分が好きな者の”悪さ”を認めたくなくて、ただ受け入れられなくて、反対側にいるものを責めたり批判したりするしかなくなる。嫌いな者の”理解はできる”部分を見逃してしまう。

対象の、その場の一つの言動や行動で、判断するしかなくなるので、昨日まで批判してたのに今日は擁護してみたり、自分の態度が二転三転してしまう、一つのニュースにいちいち翻弄されてしまう。

 ましてやテレビやインターネットの膨大な情報の中。

誰が悪くて誰が良いのか、訳が分かんなくなって、訳が分かんなくなってる自分自身を守るしかなくなってきて、攻撃的になったり、決めつけてみたりする。

 

でも、もともと人間ってどんな生き物だっけ、と元をたどって原点に返ってみれば、善悪はっきり分かれることばかりではないと気づく。

自分が直接携わっていることなら白黒はっきりつけなきゃいけないこともあるだろうけど、そうでないなら、まずはなりゆきを見守る。決めつけないでいる強さを持ちたい。

「そのような流れになりましたね」と見守ることに神経を注ぎたい。

 

ただ、長年何かを拗らせた人(思考が偏り過ぎた人)が、長年熟成させたドロドロしたヘドロみたいなものの中にまた多くの人を巻き込んでいるところを見たら、やっぱり私も思う。「どうせ壊れてしまうものに、執着するな。そんな醜いものはぶっ壊しちまえ」。

 

 

ニュースに出てくる人、それを見ている私たちも、その小さな強さ一つ一つを持てたら、と思う。見守ることができる優しさと強さ。本当に悪いことは、断ち切る勇気。

やさしさ強さ・勇気なんてありきたりな言葉だけど、言葉を本気で使うのであれば、ありきたりな言葉にこそ大事なものがこもっている。

 

そしてその私たちのやさしさ強さ勇気が周りまわったら、胸が引き裂かれるような辛い出来事を、二度と産まないことへ、一番効果があると思う。

いつでも焦る気持ちは強い方で、焦ってるのが平常運転みたいなものなんだけど、

時には深呼吸して焦らないのも大事だな、焦ったら余計遠回りなんだから、いったん落ち着くことが逆に物事が早く進むよね。とか大人になったから思える。

それでもやっぱり、焦っている。

何に焦っているのかはわからない。

早く何かができるようにならなければ、という焦燥感もある。

いつか死んでしまうんだから、限りある時間をちゃんと何かをして過ごさなければ、という思いもある。

 

そして何よりも、手遅れになってしまう前に早く、という思いがある。

あの子が死んでしまう前に、あの人に届かずに終わってしまう前に、早く、何かできるような力をつけなければと思う。

それが一体、具体的にどこの誰の事なのか、どこに向いた気持ちなのかはやっぱりわからない。ただなぜなのかそう思う。

 

でも私の焦りはときに暴走して、焦りすぎて頭の中が大混乱を起こして、脳みそはグルグル回転してるのに、いやそれがゆえに実際の行動は何ひとつ起こせていないことがある。外側からみたらむしろ止まってるように、サボってるようにみえることがある。

こんな自分が嫌になったりやっぱり昔はしてたんだけど、今は「ごめん今混乱中、考えてないわけじゃないから(むしろ考えすぎてこうなってるから)」となるべく周囲にちゃんと告げることで、「こいつ止まってるけどやる気ないのか?」などと思われるであろう誤解をされないようにはしてる。でも完璧では全然ない。

どうしてこんなに、何もかも怖いんだろう。せっかちなのに結論を出すのが遅いんだろう。直感で勝負!思いついたらすぐに行動!とかさ、頑張るけどさ、多分向いてはないかも。

 

と思うとやっぱり「急がば周れ、ゆっくりやった方が結果的に近道だったりするんだよ!!」と自分に言いたくなるけれども。でもこの焦りはきっと、前の前のブログで書いた「頑固さ」と同じで、自分のエンジンにもなってるものなんだと思う。

焦ったっていいじゃんと言いながら私は私のスピードを、ほんのちょっと焦るのか、ものすごく焦るのか、調整しながらやっていくよ。

人によって速度というものがあるのなら、「ゆっく~りのんび~り」というリズムは、自分の中には元々なく、くりかえし練習して慣れないとできない。

楽器の練習とかにも似ている。

だから今は得意の焦りを極める。

こういうときは少ししか焦らない、今はこれくらい焦ろう、とかをコントロールできるようになったら、ゆっくり本当の深呼吸もできるだろう。

 

 

 

何一つ、誰にも何一つ文句など言えない。

人に文句なんて言うとしたら、きっとそれは私が悪いのだ。

本当に自分が定まっていれば、人のことなんて気にならないはずだ、自分のことに集中できていないから、人が気になるのだ。と思っている。

それでも、時には文句を言いたくなるようなことも悪くないとも思う。

文句ばかりじゃつまらないけど、いつもニコニコしてるあの子の文句なら、聴いてみたいし。

 

それで私は愚痴のようなものを言う。

何もかも、悪い訳じゃない、ダメなものは一つもない。間違ってるのは私の方かもしれない。でもそれでも、そんなことをやってる場合じゃ、そんなことを歌ってる場合じゃ、そんなことを気にしてる場合じゃないだろう、と思う。

なぜなら今は、緊急事態なんだ。

あの人が死んでしまわないように、あの人が絶望してしまう前に、あの人が狂気に呑まれ後戻りできなくなる前に。

SNSを見ながら、ニュースを見ながら、そんな風に静かに焦っている。

 

 

アルバム発売延期についてのお知らせ | 斉藤めい

 

 

 

GO

あまり長く書かないと忘れ去られてしまうよなぁと思いつつも、

消極的な理由では「これを書いたところで何になるんだろうの無限ループで何も書けなくなる期間に突入してた」、

前向きな意味では「レコーディングという音楽を記録する作業を生まれて初めてとても建設的にできていたから、文章で記録することが一時的に必要なかった」

という訳で久しぶりになってしまいまして。

 

レコーディング、誕生日、少なくなった分より濃密になったライブの時間、嬉しい時間は足跡を大きく残して過ぎてった。

 

レコーディングは頭を使う作業かと思っていたけど、全身を使うものだった。

みんながみんなそうなのかはわからないけど。

そもそもレコーディングをどうやるかっていうのを、やる前は誰も教えてくれなかった。だいたいこんな感じ、こんなやり方がある、というのは聞いていたけど。

なぜなら本当に人それぞれのやり方があるから。これが絶対に正しい!というのがないから。

だからとても不安だったし、そして今楽しいのだと思う。もちろんめちゃくちゃ他の人に助けられている。エンジニアに、ほかのミュージシャンに。その道のプロや、私より遥かに慣れてる誰かがいるから慣れない事もなんとかできてる。私ができないことをどう補ってもらうことも含めての、「私の方法」。

クラウドファンディングを支援してくれた人たちにも、金銭という面で補われている。

 

自分の方法を見つけるというのは幸せなことだ。

だけどマニュアルがないことをやるのは、条件があわさった上で、勇気も少し必要で、感覚を頼りに進むことで、たどりつけたのはただのラッキーとしか言えない。

 

このラッキーを申し訳なく思うのではなくて、ならば全身で味わおうと思う。

一つ一つの音が、少しずつ重なって一音一音、1フレーズ、ひとつのリズムを、とても好きな人たちが鳴らして出して、そして合わさって見たことない景色になっていくのを、その中にいることがとても幸せです。

 

 

さようならするのはかつて会った誰かではない。

気付いたらSNSでフォローが外れていた誰かなどではない。

そこにいた少し前の自分だ。でも寂しいことなど一つもない。

準備はずいぶん前から始まっていたけど、捨てる勇気がなかった。

私でさえそうなんだから、優しいあの人ならもっとそうだっただろう。

 

だけどもう一度言う、寂しいことなど一つもないんだ。

だから行こうぜ、と思う。

どこまでも行こうぜ、と思っている。