臆病者と強さ
正直に言うと私はすごく臆病者だ。
「臆病者が、人前で歌えないでしょ」と言われるけど、ライブの前後は本当に死んでしまいたいような気持ちに見舞われてるし、何か自分の殻を破らなくてはいけないような、例えば『SNSでライブ告知をみんなにしよう!』とか、少しでも人に何か自分を晒さなくてはいけないような新しい壁にぶつかるごとにすぐ、『ああ逃げてしまおう』と無意識に思ってしまうから、音楽をやるまでにこんなに遠回りしてしまったので。
じゃあどうしてやるのって、何もやらずにいたらそれはそれで、死にたくなってしまうからどうしようもない。
「あのときやってれば私、それなりにはなれたかも~」なんて思いながら、なんとなく言い訳をして年をとって行く自分を想像するのはまっぴら御免なのだ。
こうしていると、夢を追っていていいね、と言われることもあるけれど、
私にとっては夢どころか、隠してたつもりの自分のドロドロの弱さに向き合わなくちゃ生けない現実でしかない。なんでこんなことをあえてやっているのかな、と思うことさえ正直ある、いつもいつもある。
そんな弱い私は、“こんな弱気なこと言っていては本当はダメで、ステージの上では弱い心は一切見せずに、自分を隠して、人々に夢を見させるのだろ!アーティストとはそういうものだろ!”という言葉は信じてなかった。
いいじゃないかよ、人間くさい、泥臭いままで、弱いままをそのまま見せたって。それはそれでいいじゃない、だってそうでしかいられないんだよ、と思っていた。
あえてそういう自分を隠さずに出したままライブをしているときもあった。
でも弱さをさらけ出すにも方法があると気付いてきた。
弱さは弱さのままだとしても、それを垂れ流しにするだけなことは確かに違うのかも知れない、と少し思うようになった。なぜなら見ている人がいるから。本当に垂れ流すだけならば『共感』してもらって「存在してていいよ」的な感情を呼べることもあるかも知れない。でも、それだけで終わったら傷舐めただけで終わる対処療法だ。
もっと根本的なことに向かって刺したいのだ。
出来ることならもっと『奮い立つ』ことだったり、ああなんか良い言い方がないな、ちょっと大げさだな、もう、ありきたりな言葉しか思いつかないけれども、こう、『微かに残ってる力』みたいなものを感じられるようなものにしたいじゃないか、と思う。
私の師匠(と勝手に認定している)イースタンユース吉野寿さんも、サンボマスター山口隆さんも、
圧倒的な弱さもきっとあるのだろうけどそれでも、「負けねえ」「死ぬな」と唄っているので、そのことの意味を、もっと私は考えるべきなのだと思った。
弱さは弱さのままで、どうにもできないことの方が多い、どんな言葉も届かないときもあるのだけど、1ミリでも動ける瞬間があるならその瞬間に入れるように自分もちゃんと立っていたい。
つまり、私は臆病で、それはなかなか治るものじゃなくて、実際に昨日のライブの後から今までもまた「私に価値なんてあるのかな」と思ってしまっているのだけど、本当は価値なんてどーーでもいいことでなくてもいいもんで、
臆病なくせに唄っているなら、どうせならそれはそれでもっと昇華させるべきだし、グズグズの自己満足ではなく誰かのことを考えて唄を、声を送り込む工夫をすることが出来るんじゃないかな、と1/10くらいかろうじて残った前向きな心で思っている。
頭のいい人に「お前は皮は薄いけど、骨は太いんだな」と言われたことがある。それは本当にその通りで、ほんっの小さな紙できったような切り傷でも痛い痛いと騒ぐけど、なんだかんだ折れたりはしないのかも知れないな、と。でもやっぱりすぐ痛い痛いと叫んでしまうけど。
そんな私は、このブログも「ブログはじめました~!」って大々的に発表が出来ないんだけれども、いつか誰か見てくれる人がいたら、
そう、私はあなたへ唄いたいんだよ!と言いたい。
この際暑苦しいとか、おしつけがましいとか言われるのを怖がらない。
サンボマスターや、松岡周造を、熱すぎる!という人もいるけれど、彼らにしか力をもらえない人だっているでしょうが。それでいいんだ、それで。
私も強くなりたい、と月並みなことだけど切実に思う。