「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

何者?

ソワソワっとしながら真夜中。

誰かのことが心底羨ましく、だけど妬んでみたって何も変わらないのだから余計無力感に襲われる。何者かになりたいだなんて、思い始めてしまうからいけない。私だけが人と違っていて、私だけが褒められたいだなんて思っているんじゃないの?だから誰かの良いところを一つ一つ見つけては、自分にはないものだとキリもなく考える、そのわりにはどこかで「私は違う」とまた思ってみたりする。

ねえ何者になれなくたっていいじゃないか。たとえば、ただ『流れ』を作り出せる人でありたいと。何人か人がいる中で、自分だけが目立って褒められたらそれでいいのではなく、もしその場の人の流れや感情や、楽ちんな惰性に任せたまま停滞している人と人同士の関係を、誰が原因かなんてはっきりさせなくていい、たださらりと流せていけるような存在になりたい。つまりナンバーワンじゃなくてオンリー、なんて、 ああやっぱり何者かになりたいみたい。

 

『何者かになりたい』って、いわゆる現代社会と呼ばれる世の中ではたくさん見受けられて、SNSとかでみんながそれなりにカッコ良い、センス良いことを言っている。どれも正論で、そして、うるさいんじゃあ!と思ってしまう、偉そうな自分も含めて。

みんながみんな正論だ。だからもう上手いことなんて言わなくっていい。たくさんありすぎる言葉のなるべく全てに耳を傾けようと思っていたけど。情報としてのそれは「ふむ、こんな考えもあるね」ってくらいに受け取ることはできるけど。

もう増えすぎた上手い言い回し!とか、そうだそうだ!という声とか、これが良い!という個人の好みとか。よっぽど何かの分野を追求する人か、本当に身近な人の言葉じゃないと、もう参考にしない。そうじゃないと何を信じたらいいかわからなくなるほど飽和状態なんだよ。

私の処理能力が小さいのだ、ということも原因なのだけど、全てを処理なんてできないよ。

 

カルメン・マキさんが無許可で曲をカバーされた騒ぎについて、ネット上のニュースは様々な人(一般人や音楽関係者を含め)の言葉を引用し、紹介していたけれど、なんだか権利的には問題がないどうの、という声が意外にも多く、

ああ、理論武装理論武装!と私は叫びたくなった、

 

「思い入れ」だとか、「悲しい」だとか「悔しい」という『感情』の立場の弱さ。なぜか理論の方が正しいとされて、感情は感情論だとか悪いもののように、規律を乱すことのように扱われることが多い、ことさら『社会』という枠組みでは。泣くことすら何かを崩壊させてしまうような危うさを持った行為だと受け取られることがある、そんな『感情』の立場の弱さを、『社会』に生きるなら事実として知らなければいけなかった。

でも本当は人間にはまず感情があり、それだけではセーブしきれない、好き放題にならぬように制御するために 理論 があるんじゃないのか。なぜこんなに感情が軽視されて、理論武装が正しいとばかりに人々は盛り立てているのか。感情の立場の弱さを、『社会では通用しないよ』 的な理論武装の強さで打ち負かし勝利を得て、何かの優越感に浸ったらそれで満足なのか。あなたにも感情はあるのに。それともその感情が鈍って腐り落ちてしまった自分は平気だからって、感受性がまだまだ生きている誰かよりも優位に立った気でいたいのか。

実態のない何かの枠組みをまず重要視し、人間の生身の声に目を向けないなんて事は、もう終わりにするか、気づいた人から抜けてこうぜ本当に。

しかも音楽という芸術要素が強い分野で、本当は人間の感情を救うもののはずの分野で、その感情を狭める理論武装、なぜかそれを支援する人たちのことを見て、きっとね、実際一人一人会ってみたらそう悪い奴じゃなくて楽しくお話しなんかしちゃって好きになっちゃうかも知れないとしても、

自分は感情を軽視はしないのだ、と思う、そういう信念みたいなものを流されずに持っていること。

それが私を唯一私の中で何者かにしてくれるものなんじゃないかと考える。上手い言い回しの言葉を言えば何かになれるのではなくて。 

 

こんな文章なんかではなくて。

こんなもの書いたり読んだりしたって、「そう。」と一回飲み込んで、「で、私はこう」と思える心についてのことを話して欲しい。

みんなクールでみんなユーモアがあってみんな素敵、だからキーボードもスマートホンも投げ捨てろ!いや機械越しでもいいんだけど、とにかくそして話してくれ、感情について。と思う。