「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

投げ飛ばす

何度も文章を書いては、公開できないでいました。

「なんだか思ってることと、違うように伝わってしまう」と思ったからでした。

どこかで聞いたような、とってつけたような、言葉ではなく、自分が感じたことから出てくる本心みたいなものだけ、書きたかったのでした。誰も自分にそこまで求めていないのかも知れなくても、どうせ嘘をつくと後から辛くなるので、自分のためにそうしたかったのでした。

 

それから、『否定的な言葉』というものに対して、ずいぶん辛いと思うようになってしまったからでした。

いろんな人と話して聞いた言葉、普段ネットなんかで目にする言葉。すべてが「見方を変えてみれば、正しいよね」ということばかりでした。

「あれがダメ これもダメ」という否定的な言葉や、ものでさえ、ある角度から見れば間違っているということは一つもない(ある角度から見ると正しい)はずなのだけど、なぜか気持ちが苦しく、そういう『正しいはずだけど、心を苦しくする言葉』との折り合いをどうしたらいいのか、ぼんやり考えていました。

 

だから私が出来ることは結局一つなのかも知れません。

『すべてを肯定すること』です。

 

否定することなんか、簡単なんです。

 

うわべだけならいくらでも、情報を知ることも、それを理解できたように振る舞うことも、発信することも出来てしまう現在のところにおいて、否定をすることは簡単です。

 

あまり深く考えずはせずに、手に入れた情報に対して、「こう思う、こう思う」と判断をつけていく反射神経が、必要なときもあるでしょう。

だけど物事には必ず表面のほかに、表と裏、深さと距離、時間列、人間の心と、四次元どころかもっともっといろんなものを包括している場合がほとんどです。

反射的に、こう思う、と決めつけてしまうことや、否定するということは、そのいろんな側面をナシにしてしまうことかも知れないです。

 

本当にあることについて考えて、わかるようにするには、まず肯定をしないと、その先にいけない気がするんです。肯定した上で、「自分は好きでない」「それでも間違ってる」と思うことは良いんです。矛盾するようだけど。とにかく一度は肯定し、そのことについて考えてみたいんです。

もう否定するのもされるのも、疲れてしまったら、肯定できるのことの方が価値があると思うんです。でも別に全てを受け入れろっていうわけではなく、一旦受け取って、考えてみるということです。

 

そうは言っても、「こんなのどこがいいの」「うわあ嫌い」とすぐ反射的に、思ってはしまうんだけど、

完璧なんてなく、完璧な人はいなく、「ある目線からみれば」すべての人やものは批判できてしまう面を含んでいる(私の大好きなものさえ)ならば、

嫌いなものは嫌い、と思ってはしまいつつも、『仕方ないな ちょっと知ってみるか』という程度に受入れ、まったく好きでないままでいいから『こういうことだから、こうなったかもね』と受け入れること。

存在を受け入れ、肯定すること。言葉がぐるぐるしてきましたが、だからこそ、そうしていきたいです。

何よりもそれは、自分を肯定し、存在していいと思うことにも繋がるからです。余裕があるうちに、出来るならそうしていきたい。

 

否定よりも肯定することの方がかっこいい時代が来てるんです。と言っておく。