時も土地も 地続きでつづいている
自分が思うことを言ったら、否定されるかも知れない。
それでも、今言わなければ、声を上げなければいけない。
たとえ否定されようとも、今、自分の命(までは大げさかも知れないけれど)を使わなければ、どうするんだ
という気持ちで声を上げる人をとても尊敬する。
それは、もともとそういう性格の人だったか、出来れば言いたくはなかったのだけど どうしても必要にかられて言わざるを得なくなったのかはわからない。それでも、一ミリでも動いたことに意味があるのだ。その一ミリが集まれば、何メートルにも何キロにもなるのだ。
すみません。私、ありきたりな話をしていますね。
でも、ありきたりだけど自分のこととなると忘れてしまう。
小学校の頃の教科書に、一人じゃとても勝てそうにないでっかい敵に、一匹ずつ寄せ集まって大きくなって、大きな敵を追い払うグッピーの話が載っていて、読んだ。そんな話はそこら中に転がっているというのに、いざ自分のところに周ってくると「こんな自分ひとりじゃ何もできやしないし」と思ってしまう。
それでもね、『元々はそんなこと、本当は言いたくないんだけど、必要にかられて発言・行動をした』というなら、そのことをただ希望に思うし、自分もその機会を自分のやり方で 一番効果的かつタイミングのいいときにいつか出来はしないかと狙っている。本当は、行動は継続した方がいいのだけど、普段考えてなさそうな人が言うのが効果的なタイミングも、きっとある。
こんなこと言いながら、でも、社会的な発言というか、何かこの世の中についての意見をもし言ったら、「あいつは面倒くさい奴だ」と思われるんじゃないか、と内心不安になってしまう。あの人に嫌われるんじゃないかと思ってしまう。
その不安はギリギリまである。でもきっと、我慢できなくなったら、もうこれ以上は黙っていたらダメだと、勝手に溢れてくるときは来るかも知れない。
自分がいつも正しいとは限らないけど、こらえてもこらえても溢れてくるものが間違いということはない。
うっすら、ずっと、そう思ってきたけれど、5年前を境に確かにそう思っている。
それは私だけじゃない。
少しずつ『特別意識が高い人』を越えて、普通の私たちにまで浸透し始めている、意識。無駄なものもきっと多いし、わかりやすい悪人は今も昔もずっといるけど、それよりも私たちの中にそっと燃えている炎を消さないよう少しでも空気を入れ続ける。