身体と精神
実家で18年飼っていた猫が死んでしまってから、ずっと考えている。頭で考えているというか、感じている、思っていることがある。
生きてるってことは身体があるってことなんだ。当たり前なんだけど。
そして哀しみも苦しみも怒りも、生きてるからあるのだと、「心は繋がってるから身体なんてなくてもまったく哀しみなんてないもんね♪」ってなってしまったら、それはもう死んでいるのと同じなのかも知れない、と思う。
その嫉妬も、寂しさも、弱さも、見栄も自尊心も、自分をかっこよく見せたくなっちゃうことだって、生きているからなので、
だからこのままでいいのだと。弱さや寂しさを塗りつぶしたり覆い隠したりしても消えてはくれず、余計に見つかりにくい場所に隠れて探すのが大変になっちゃう。
それを感じたままに、温めてみたり、なでてみたり、匂いをかいでみたり、静かに燃やしてみたりできたらいいんです。
って、『風の谷のナウシカ』を今っ更ながらにちゃんと読んで、(遅いけど遅いことなんてないんだ)なおさらに思った。
そしてやっぱり、ペチが教えてくれたのだと思う。
私羽根が生えて飛べそう、と思っても、地面に足をおろしてできること。
「羽根の方が早いじゃん」「地面を行くんじゃ遅いじゃん」と言われても、歩きたい地面。
*
自分で自分を狭めてみたりするな。
「私の歌は理解されないから、きっと”みんなのうた”にはならない」なんて言うな。
そんなもんじゃない、君の歌は、
思ってもみなかった場所で思ってもみなかった人に届くんだ。
向こう側にいるのは人なんだ。
受け取る”みんな”だってそんな心の狭いものじゃないんだ。
決めてつけてしまわないでくれ。
子どものロックフェス『ひこばえロックフェス』に出演したときに”子ども向けのうた”を考えてた私に千葉ちゃんが言った、「子どもは意外になんでも聴いてるよ」って言葉。
「今日のライブよかったね」「今日のライブいまいちだったね」、人からの評価に一喜一憂してた私に二宮さんが言った、「人が言うことを聞くより、自分を研ぎ澄ませていった方がいい」という言葉。
石巻でのライブで、地元の人がたくさん集まってくれたけど多くは「(店長と)友達だから呼ばれて来た」人たちで、たぶん音楽を聴きに来たというわけじゃなかったと思う、やっぱりライブ中はざわざわ話し声がしてて、「この人達が今楽しいのであれば、私の歌を聴いてくれなくたってそれで別にいいじゃないか」と思う気持ちと、やっぱり聴いて欲しかった気持ちとで、嫌では決してないけど消化しきれない感情になっていたときに、赤ちゃんを連れたギャルメイクの女性が、帰り際私に、「まじかわいい」とだけ、声をかけてくれたこと。その「かわいい」という言葉は、『私あなたと違う人間でちょっと分かんないとこもあるかもしれないけど でも歓迎してる、嫌いじゃないよ』っていうのがすべて詰まってる一言のような気がして、泣けてきたこと。
対象年齢とか、どこの層向けだとか、考えてそんな限定された決まりなんかで区切ってしまわないで。限定できないことばっかりだよ。
人や場所どころか、時間さえも超えるんだよ、あなたの歌は。
超勝手なことを言ってます、ごめん。
全部自分の勘違いかも知れないと思って、また書いた文章全部消したくなってるけど、消さない。
恥をさらしていく、もう出し惜しみしない。
あなたとまた会えるのを楽しみにしています。何度言っても嘘じゃない。