誰かのため
「誰かの為じゃなく自分のためにだけ歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない」と宇多田氏が歌っていたのを思春期の頃に聴いてからずっと
「歌って言うのは人の為に歌わないといけないんだなぁ」とぼんやり思っていた。
音楽が持つ大きな大きな懐は自分のためだけなんかじゃ勿体なくて、また、本質とは少しズレてしまうんだろう。
私は6年前に自分の歌を歌い始めてから、ずっと自分のために歌っていた気がする。
傲慢になるつもりはなかった。ただただ、余裕がなくて、そうせざるを得なかった。
自分のことで精いっぱいだった。
自我なんて最小限に、誰かの幸福を願える歌い手を心からうらやましいと思った。私も願っていなかったわけじゃないんだけど。
だけど遠藤賢司(エンケンさん)が「そうなんだ 俺はいつだって自分の為にだけ歌ってきたんだ そうこれからも 為に 音よ言葉よ 俺の心に突き刺され」と歌ってるのを聴いて、この前涙が出たんだ。
「自分の為に歌う」ことが必ず、決して自分以外の誰かの存在を、どうでもいいと、無い物にしているわけじゃないだろう。
自分以外の人間がたくさんいる世界の中で、自分の弱さに、小ささに、押しつぶれそうになって、それでも決して潰れてやるものかと自分を奮い立たせる為の、自分への歌だったんだろう。だって他の誰かは、自分の先に居るものなんだから。
その歌が私を掬っているよ。
だから自分の為に歌った歌も、それが本当に切実なものだったなら、誰かに届きうるんだ。
私の歌も、少しは誰かのものになる瞬間もあったならいいな。
人のために歌いたい。
人のためにってどういうことなんだろう。
あの人やあの人やあの人の顔を思い浮かべる。幸せでいるといいなと思うけど、今、何を思ってるのか、どんな気持ちでいるのか、どんなことで喜んでもらえるのか、ちっとも分からない。
人のために何かをできるってどういうことだろう。
死ぬ間際まで、自分より人を気にしていたあの人みたいなことだろうか。
生まれたときからの歌声が、他人の心にスッと溶けてしまう、あの人みたいなことだろうか。
自分なんて捨て去ればいいだろうか。自我とか恥とか全部どこかに置いてきて。
でも本当に自分を捨てられる人はこの世界が大変な時期にこんなブログ多分書かない。
6年歌っても、ちっとも余裕などはない。
余裕なんてないままでもできるだろうか。
少しずつでもいいから、聴いてくれる誰かにちゃんと歌いたい。自分ではない人へ、歌いたい。
これからはそうありたいと思っています。
そしてもしも万が一、それが私には本当に難しいことだったなら、回りまわって誰かのためになるようにと願いながら、自分勝手な歌を全力で歌うよ。