めんどうくさい人
夢が叶ったら、次の瞬間に死んでもいいか?と聞かれたら、良いよ、と言いつつもやっぱり生きるんだろうな、と思う。
だからいつでも、満足なんてしてんじゃねえ、って言うあなたの顔が浮かぶ。
休日に祖母とお金の話をした。祖父母が亡くなったあとの、遺産がどうのこうの。
私は、お金は最低限あればいいと思っている。ないと困るけど、お金のためだけに暮らしたくはないと思っている。読んだ本とか音楽とか、いろんなものの影響で、自分だけで富を溜めこむことは世界の循環を止め、自分も停滞させることになる、と考えているから。
だけどそれは、私が『恵まれている』から考えられたことなのかも知れない、とも思う。
東京にいる本物のお金持ちとは比べ物にはならないけど、それでも埼玉でそれなりに何不自由なく暮らしてきた自分だから、”そんなに深刻に考えずに居られたから”そう思えることかも知れないと。
自分自身のことには。性格とか、性質とか容姿とか。
足りないことばかり目について、足りていることは見落としてしまう。
与えられた環境においても。
足りないものには気が付くけど、足りてることには気が付きにくいのかも知れない。
だから近しい人でさえ、金銭的に苦労してきた人の前では、「お金なんて重要じゃないよ」とは言えない。その人の意志を決めるのが『経験』だけではなかったとしても。たとえば『人生でお金が最も大事だよ』という人がいたとして、苦労してきたからという理由だけでなく、元々のその人の性質もあるかも知れない。でもそれは本当のところは分からない。
だからこそ『恵まれてきた』私に出来ることは、そんな人達に遠慮して自分が思うことに対して口を閉じるのではなく、自分の環境を充分に自覚したうえで、それでも思うことはきちんと言葉にすることだという気がしている。
何もお金に限ったことではなくて、たとえば自分とまったく違う考えの人に対して。 犯罪を犯した人に対して。普通の人に対して。
生きていく上で関わった人達すべてに対して。すべての人どころか、たった一人にすらなり替わることはできないのだけど、だとしたら自分も「誰もなり替わることができない」一人の自分なのだと。
良いことが言いたいわけじゃなく、ゴチャゴチャしてきた。
最近ずっと頭の中が熱い。うーん。
冒頭に戻る。
何か嬉しいことがあって、私はある意味ではもう夢を叶えてしまっている。
それでもなぜか、ここで終わってしまったら その夢も縮んでしまうような感覚がある。夢と便宜上呼んでいるけど、それは私が本当に望むものは、腐らずそこに居続ける事なのだから、何か達成しました!だからおわり!というものではないからだと、思う次第です。
※すみません文章の意味がよくわからないところがあったので一部修正しました。5/26