「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

訃報

何度も共演したミュージシャンの訃報が届き、書き記しておきたい種類の感情がたくさん湧いてきたので、久しぶりに文章を綴らせてください。

久しぶりなのに悲しいニュースで申し訳ございません。

ただ私たち全員どうしても死とは切り離せない存在なので、変な遠慮をしたら「生きること」もごまかして遠ざかってしまうように思うので書きます。

だって誰よりも生命を燃やして歌を歌う人でした。

 

彼女と初めて同じステージに立ったのは2015年4月26日。

まだ初めてライブをしてから1年も経ってなかった私は、初心者がゆえの怖いもの知らずで『高円寺の無力無善寺』というヤバいライブハウスの『三上寛さん』というヤバいミュージシャンと『¥5,000払って参加すれば、共演できる日』というヤバい日に参加申し込みをしていました。

(ちなみに3回出てきた"ヤバい"は全部意味合いが違っていて、順番に、危ない/もの凄い/常識がどこかに行っている、の意)

検索したら当時の彼女のブログが出てきました。

昨晩は - ハ ル ミ / Umbaba(ウンババ) / ウンババ奇譚 (goo.ne.jp)

とにかく、まだ何も分かってなかったに等しい当時の自分には凄まじすぎる夜だったんだと思います。

 

出演していた人全員が、凄かったのですが、彼女のことは特に「初めてこんな歌を歌う人をみた」と思ったので忘れるはずはありませんでした。

そしてそれは私の経験が浅かったからではなく、10年経った今も、同じように歌う人は観たことがありません。

 

その後、そこまで時間を置かずに私は彼女に「このライブに一緒に出てくれませんか」という連絡をしました。そのときは仕事の関係で難しいとのことだったんですが。

当時の自分は余裕がなく、超マイナス思考&被害妄想&自信なしがデフォルトだったのでそのときも発揮されてしまい、
「この人みたいな凄い歌を歌う人に、自分はまだ及んでないから一緒には演れないんだ、あの日は特別な日だったけど、私じゃまだだめなんだ」などと思い、言われてもいないことで勝手に遠い存在のように感じている、という時期がしばらく続きました。

 

それでも狭い、このいわゆる『野生の・弾き語り・東京の中央線ライブ界隈』で彼女ともまた共演することができ、2018年には最も共演した回数の多いミュージシャンの1位タイが彼女でした。(1年間で5回。)

 

私は、じわっと、とても嬉しかったです。

彼女と『共演者』という形で並べることが。

自分が音楽初心者だという思いからは今も抜けることはありませんが、一夜のライブでは全員、上とか下ではなく同一円周上だとはかろうじて思えているので

『もの凄い歌を歌う人と、同じ夜に同じ場所で歌っているぞ。』『それも何度も。』と、そのことがとても誇らしかったです。

 

彼女の歌を、思い出したいです。

いや覚えてはいるのですが。

私は記憶力が悪いとかそんな次元どころじゃなく感じてきたことをたくさん取りこぼしながら常に生きてるので、

あんなに凄かった彼女の歌も、あのとき目の前で聴いていたときのように感情ありありと、いうようには思い出せない。

だからもう一度聴きたい。

CDはある、もちろん。
改めて聴く。
なんてありのままで、凄まじくて、優しいんだろう。今更驚く。あんなに近くで聴いていたはずの歌。

だから、歌が、ライブが聴きたいです、ハルミさん。もう一度。

感受性がニブくてごめんなさい、あなたの歌を目の前で聴いたときの震えは、あなたの歌を目の前で聴かないと同じようにはなれないんです。なんて贅沢な時間だったんだろう。

 

今年の1月は久しぶりにあなたと共演できる予定でしたが、体調不良でキャンセル、理由は伝わってきておらず、コロナやらなんやら出演キャンセルが相次いでいた時期だったので、また元気になったら一緒に演れるだろう、と深刻には考えませんでした。何があるか分からない世の中で随分呑気というか、少し麻痺していたかもしれなく、後悔はあります。

 

あなたが確か2020年だったか活動休止すると言ったとき、人のライブはあまり観に行かない不義理な自分が「行かないと」と思い立ち、あなたのライブに突然行きました。

驚いていて、そしてきっと喜んでくれてた、と思います。

皆で終演後しゃべっていたときに、「この前すごく年下の良いミュージシャンと共演して刺激を受けた」ということを話していて、それが、あんなにすごい表現の歌を歌う人なのに、自分の凄さをまったく驕っていないということが痛いほど伝わるような話し方で、そのとき自分は妙に空気を読んだ薄っぺらスカスカな言葉を発してしまっていたので尚更あなたの純粋さが際立って、心がヒリヒリしたくらいです。

 

その後あなたは復帰し、よかった、と、私は当たり前のようにまた次があると思ってました。

 

いつでも私たちは、私は、すぐに目の前のことを「当たり前」にしてしまって、『ここにこうしていられることは奇跡です!』『感謝です!』って頑張って思おうとしてるけど、またいつのまにか「当たり前」になってしまいます。

別れでその大事さをやっと思い出すなんてポンコツすぎる。何度確認したって、また、『当たり前のことは何もない!』と言いながら当たり前にしてしまうんだと思います。

でもそれは幸せなことなんだろうな。

地面の奥の奥から生まれたマグマのようなものが激しい渦になり轟音が起き、やがて生命を燃やして地球まるごと、天を突き抜けるようにすべてを込めたような彼女の歌を、当たり前のように目の前で聴いていた自分はものすごく貴重な体験をしていた。幸せだった。

 

彼女と最も親しい人たちが彼女と最期の時間を過ごしたようでした。

プライベートで会える関係性でなかった私は、あなたが過ごした燃えるような人生の中のほんのひとかけらの要素でしかなかったことは致し方ない。

こうして書いてみて、私があなたに対してこう思った、って言葉ばかりで、私はライブ以外のあなたのことを全然知らないんだなと思いました。どうしようもなくやさしいことだけは、歌や文章であちこちバレバレなので分かりますが。

それでもあなたが歌い、燃やした命の形を、私はしっかり思い浮かべることができます。

声は聴こえないけど、残してくれた熱が、今もここにあるしずっとあるんだと思います。

私が歌い続ける限り、ずっと一部です。

それが「共演者」として、何度も同じ場所で歌い、同じ夜を過ごすことが出来た私のハルミさんへの思いです。

 

 

そそら みんなで震えよう 黄金の海さ

無茶苦茶に震え 絞りだそう 黄金の海さ

 

身体がなくなったあなたは、あなたの歌のように今本当に自由なんでしょう。

私たち、まだ歌えるうち、生きれるうちは、無茶苦茶に震えながら絞り出していきますね。

ハルミさん、ありがとう。

 

 

ハルミ「歌」PV - YouTube

 

 

哲学者

今までのやり方で出来なくなったとき、才能が尽きてしまったと考えるのがそれはそれで"じゃあどうしよう"と思えるのでベストだと思っていたが、その楽しい自虐の一歩手前で、「いや、ただ身体を横にすれば通り抜けられただけのことだった」ということに気づいてみるのもいいんじゃないかと思い至りました。

今でも論理的に誰かに伝えたいことがたくさんあります。

それでも今は、あやふやなよくわかんないことを一旦追いかけよう。

さようなら私の頭でっかち、こんにちは感覚の世界。

でもまたいつでも会いましょうね頭でっかちさん。

 

明るい

社会的には別に真面目というわけじゃないけれど、頭の中がいつも『正しいこととは』に支配されている。

人は、正しいことに惹かれる訳じゃない。きっと、間違っていても笑っていたいのだ。

誰かにもっと楽しめ!遊べ!と言われても、私は深刻になることを選んでいるのだろうか。

それとも、その深刻さで遊んでいるのか。絶望を楽しんでいるのだろうか。

それもまたいい。だろうけど、多分別に、太陽が当たる場所が嫌いな訳じゃない。むしろもっともっと私は日向を求めていて、そして楽しい奴のはず。

例えば、死にたい、と思うなら死ねばいいのかもね。精神的に。今までの私は死んでもらって、喜びだけを追いかけてしまいたいね。しまおう。

定期的にお伝えしないといけないこと

先人は次々にこちらの世界から居なくなっていく。
残された作品を噛みしめながらも、ただ喪失を見送っていくのか。
大過ぎる存在とこの小さすぎる自分とでは
音楽を演奏することの価値もずいぶん違うように思ってしまうが、
本当に偉大な芸術家ほど、その小ささにこそ魂を込めていたはずだ。
だから偉大ではない私でも、それを繋いでいくことを使命とするよ。
たとえ大袈裟でもきっとそのために生まれてきたのだ

どうでもいい自分の話

人の気持ちが人一倍分からなくて困っています。

ややこしいことに、人の話を聞くことは好きだったり、人と上手くやっていきたいという気持ちだけはあってその態度のせいで、なんとなく人の気持ちが分かる柔軟な人間に見えてしまうらしい。(驕りかもしれませんが)

本当は誰よりも自分の我を通したいし、他人の気持ちは全然理解できていない、だからその時その時で、誰かの期待に応えるような行動はできない。

期待に沿えなくてごめんなさいと思う出来事は、昔からわりとありました。

もちろん誰しも、自分以外の人間の感情をカンペキに分かるなんてできないと思うんですけど。

ただ、自分は印象と実際のギャップが大きいんだろうなと

自己を振り返ったりすると思い至ります。

 

それでもって自らも、思い込みの激しさと、誰かに分かってほしい欲も強かったりして、私には期待しないで、と思ってるくせに、他の誰かにはすごく期待をしてしまう。

あの人ならわかってくれるはず。こうしてくれるはず。私が喜ぶ、こんなことをしてくれるはず。

みんなやさしい。

でもみんな誰一人、私の思う通りになんてならない。

それでいいと思っている。

私の思う通りでなんて居ないで、私の知らないあなたでいてと思う。

でもそう思えたのは、本当に本当に最近のことです。

 

分かってくれているはずと誰かに思いを寄せるとき、恍惚としてその人と一体になったような、安寧にたどり着いたような心地よさでいられる。

でも、そんな分かってくれてるはずと思っていた誰かが、全然同じ気持ちじゃなかったとき、絶望して、こんな関係は、こんな世界は滅んでしまえと思ったとして。

それでもその先に「私とあなたは全然一体じゃないけど、それでも分かろうとするよ」という気持ちになれたとしたら、それが本当の信頼関係なんだろうなと思う。

 

私も、たとえあなたと切り離されようと、一人で立っていられるようでいたい。

その頃あなたも、別の場所で世界の立ち方を知ったとしたら、それが同じだっていうことだろう。

そしたらまた、あなたとも会えると思っていたい。

 

 

 

140

長い文章が読めなくなってる現代人のあの140文字に慣れてるとかそういう、もれなく自分にも流れてくるうねり。信じられないよく書いてたねこんな長いの、自分過去の日記を読んでそう思う。作家ではなくてもまた長いものが必要になることもあるだろうか。音に乗せるから必要ない、と思ってみるのは言い