「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

△△

〇〇と××なら、どっち!?

とかって質問されると、2択を迫らないでよといつも思う。

だって、こういう状況なら〇〇かもしれないけど、そうでなければ××かもしれない。でもこういう要素があれば△△で、そのとき自分が◎◎なら▼▼になるかもしれない。でも・・・って無限に続くよ。

自分の中にあるものも、外側にあるかもしれない可能性も、いろんな要素を取り除けないよ。

 

だから、今のこのような状況も、さああなたは〇〇ですか?××ですか?とか言われたってさ、そんな単純に決められないよ。

この状況下を、あなたは有意義に過ごせましたか?過ごせませんでしたか?ってさ、そんな二択で表わせられるわけがないでしょう。

複雑な思いが絡み合って、自分史上前代未聞の世界がやってきて、いろんなことを考えて、進んだと思うことも、後退したと思うことも、この先それがどう影響していくかなんて、誰にも分からない。

たとえどうしたらいいかわからなくて毎日、一日中グダグダと寝てたとしたって、それでなんか健康になったりなんかして、幸運に繋がるかも知れない。繋がらないかもしれない。

誰にも分からないんだからさ。

今どんな思いで、どんな状況でいようとそれが最善だったよ。

激流の中、誰もが手探りで、きっとそうとしか思えない。

何も思わぬはずはなく

ああ言ってはみたけど、それは正しかったのか。

あのときの行動は、最善だったのだろうか。

毎日毎日思う。

何かを言う度に、何か行動をするたびに、罪悪感が残る。

だって違う角度から見たら、これって間違いかも知れないじゃない。

それでも発言すると決めたのであれば、それさえも引き受けて切り取らなくてはいけない。

不安になって、感情的になって当たり前じゃんね。

ずっとずっと罪悪感があるよ。

それでも押しつぶされてしまうことこそが、この騒動の「負け」であるなら、その都度、最善だったのだと思うしかできない。

 

ラブアンドピースなんて言ってる奴ですら、いつでも正しくいることができない。

だからどうか、誰かが間違ったときに、過剰なまでに責めるのは止めて欲しい。

今、人間と人間が争って解決することなど何一つない。

この国というシステムのダメな部分をじっと見つめて指摘することはむしろ必要。

でも傷ついてる者同士の喧嘩は止めて。

 そう思ってるけど、どこまでも無力でどうしよう。その無力さがあなたと同じなら光栄だけど、力が欲しいと思ってしまった。

もし、私が力を持ったときに、それをあなたを救うこと以外に使い始めたら、早々と墜落させて欲しい。1番のお願い。

 

淘汰だなんて言うな。残るものは残るって、私だって思ってるけど、それでも消えていくものが、ここで消えてよかったものだなんて守ろうともしないで言えるのか。

ちゃんと怒れ。冷静に。

でも「ちゃんと」なんて、「冷静に」なんてできなくたって仕方ない。それくらい許してよ。

 

祈っています、なんて、何の意味もないかもしれないけど

決して悪用しない祈りなら、心に持っておこうと思う。

 

※4/18追記

なんだか当たり障りないようにやんわり詩的に書くのはもう止めよう。

「争わないように」っていうのは、私みたいに権力も何も持たない、ささやかな幸せを生きがいにして普通に生活する者同士、っていうことだ。

国の出来事に影響する権力を持ちながらも、人の命よりもなんか別のもの(お金だが、自分の地位だかなんだか知らないが)を優先させる権力者、政治家へは、むしろ今こそ意見を言ったり怒ったり憤ったりした方がいい。

と思っています。いう立場をここに明確にしておきます。

ねずみに齧られても

斉藤めいです。今年もよろしくお願いいたします。

 

って言いつつ随分時間が空いてしまい、あまりに時間が空いてしまうと人は忘れてしまうから、このブログだって多分忘れ去られてしまってて、それも仕方ないんだよなぁと思う。寂しいなぁとも。

思いながらでも、じゃあ毎日のように更新するとか、こんなにサボることはもう絶対に致しません!とか宣言したとしたら、できなかったときに自分で自分にダメージをくらわせることになるので、「途切れてしまったものは仕方がない。また一つ、一つ繋げていくしかないな」と思ってもいる。

 

去年、というか文章を書かなかった間、いろいろ重要なことがありました。

ファーストアルバムのレコーディング、そして発売。

そしてライブ、ライブ、ライブ。遠征含む。

レコーディングはめちゃめちゃ楽しくて、何もかも始めてのことで時間は予想外にかかってしまったけど、やっとできたこの1枚への気持ちと、でも思うように宣伝とかセールスとか赤字の件とか皆の反応とか、まだまだ頑張らなきゃいけないと思う。

ライブに対しても、いろんな場所いろんな人に出遭えたりもうめちゃめちゃに楽しいときもあったけど、悔しい場面もたくさんあった。

そんな日々を送っていたら2019年最後のライブ、12/22の次の日からまったく動けずに心身ともにひきこもりになっていた。

 

グアアアアーーーーとある期間、人前に出たら、反動というか、それを取り返すかのように内側に篭りたくなる。しかもネガティブを引き連れて。誰とも何も話したくない。

なに?これは、躁鬱?とかいろいろ考えたりするけどもね、これも「波があるのだから仕方ない。山と谷。光と影。A面とB面。今はこういう時期なだけ。」と言い聞かせる。言い聞かせている。

 

私のネガティブは、他人が羨ましくって仕方がない。

それはもう、テレビの向こうのあの人から、とっても身近なあの人まで、自分に持たないものを持つすべての人の、すべての特性がうらやましい。

どうして自分はこんなにダメで、皆はこんなに優っているのだろうと、どんなに自分で自分をよさげな言葉で励まそうと、誤魔化してみようとネットサーフィンしてみても、そんな思考は何も消えちゃくれないのだけど。

 

このまんま行くしかないということがわかった。

すんごいありがたい言葉とか、誰かの生き様とか、自分にとって良いものをたくさん集めてみようとしてたんだけど、どれも今日みたいな自分をなぜか傷つけるんだ。

誰かの中にはなく、自分の中にしかないみたい。

超・自我が強い私にとっては、憧れだとか、見習う、だとかそういうのは過激な言い方をすれば邪魔にしかならなくて、自分の力の足りなさも、結局誰かとの差異も「だからなんなんだよ」としか思えなくて、そう考えたらネガティブに思えた「他人へのうらやましさ」も、結局は自分が自分の世界のど中心にいるっていうことの証明でしかなかった。

 

誰かへのやさしさも、自分がこの世界で確かに居たいからなのかもね。

 

さあ、さあさあそこで。

それでもやっぱりこの世界は思うだけでは、動かないと何も始まらない。

手を、足を身体を動かして、そして心を伴わせる。

いろんな見本がそこら中に広がってるけど、私にはどれもマネするのは困難、すぐに立ち止まってしまう。それでもまた動き出す準備を。

止まってしまったら、今までの頑張りもなくなってしまいそうな気がしても、それでも止まってしまったのなら、また一つ一つ、動き出すだけです。

世界は待ってはくれない。

それでも、私の世界はここよ。とずうずうしい体感時間にてみんながとっくに忘れた頃に思い出して欲しい大事なものを歌って行くよ。

あらためて、今年もよろしくお願いいたします。

 

アルバム聴いてくださいね。

まずは↓の動画からどうぞ。

 

saitome.localinfo.jp

 

許して許して

世の中のものが全部、許せないものだらけのときは辛かった。何を見ても、どんな人を見ても「あんなのありえない!かっこ悪い!ダメだ!批判!」って決めつけてたら、自分が何をするにしても「こうやって批判されるかもだから止めとこう」ってなって、結局何もできなくなったし、単純に嫌いなものに囲まれてるようでずっと気分が悪かった。

 

だから今度は、どんな人もどんな出来事も許してばかりにしてみた。それも最初は天使みたいな気持ちになれたけど、だんだん辛くなってきた。自分を傷つけるものにさえ「仕方がないんだ」って思い過ぎると、無理してるから余計近づきたくなくなるし、「こんなことで心痛めてる場合じゃないんだ」みたいに、痛いところを無いものみたいに扱ってしまいがちになっていた。

 

今やっとちょうどよくなってきたところ。

例えば傷つけられることを言われても「アイツ私を傷つけやがって二度と一生許さないからな」でも「あの人だって悪気があったわけじゃないから…悪い人じゃないから気にしちゃダメ…」でもなく、「むかつくなー!けどまあ悪気 or 余裕ないんだろな」っていう丁度いい心持ちでいられるようになった。

 

誰かに、怒ったりする。でもその人全部に怒るというより、その人が知らずに自分(や他人)を疎かにしてきた部分に対してだけ怒る。

自分も自分で、言葉足らずなところがあったなら謝る。

それでも上手くいかない関係なら、どちらかの感情が過剰か、単に合わないだけ。

多分今は一緒にいるべきじゃないのね、とそっと離れる。それがお互いの「平和」だったりする。

 

許す、許さないって感覚は、もちろん怒りとか哀しみとか、強い感情を伴って発生したことだから熱くなっちゃうしコントロールが難しいけど、

だからこそあえて冷やして、ちゃんと区切って、思ってることは言葉にちゃんと出して、その結果でわかりあえたり わかりあえなかったとしても静かに「ウン」って飲み込む。

そこでかつての私みたいに「なんでなのよぉおおおお」とのたうち回る時間は少しでも減らして、次に行けるように。

 

不完全な私も、きっとそうやって許されてきたから、同じようにしようと思う。

 

サバイバル

昨日できた新曲。歌っていて苦しい。心的に。

これは初めての気持ちで、どういうことなのだろう。

良いことなのか、悪いことなのか、この先変わっていくのか、わからないから、しばらく様子をみていようと思う。

 

 

なんだか最近私は人に対してサバサバしている。

前はもっと、目の前にいる人を1ミリも傷つけまいとして配慮、というより、むしろ常に警戒しながらしゃべっていた。(それでも口がすべって何やら言わなくてもいいことを頻繁に言ってしまっていたけど)

今だって、決して目の前の人をおろそかにしているわけではないけど、でも「私が180%気を付けて会話しないと傷ついてしまうだろうなんて、目の前の人はそんなに弱くないだろう」と思うようになったので、そんなに神経を張りつめなくてもいいや、と思うようになった。

 

どんなに気を付けていたって、傷つくときは傷つくし、傷つけてしまうときは傷つけてしまう。

伝えたいことを伝えるには、気をつかって話すことよりも、言葉を焦らず、丁寧に選ぶことのほうが大切だから、相手の気を損ねないようにすることよりも、その伝え方に神経を注いだ方がきっといい。

 

それに私はもともと残酷なところがあって、どんなに人として大好きな人だって、何かが噛み合わなければ「今はごめん」「ジジババになった頃にまた会おう」となるし、

どんなに人として「この人悪い人じゃないんだよな、むしろいい人なんだよな」ってわかってる人にだって、話しが長くてやたら時間を多くとられたり、実物とは程遠いその人の中の思い込みの”斉藤めい像”を作られてたりすると「もう無理です!グッバイ!!」ってなることができてしまうし。

 

どんなに気をつかってみたって、どうせ最後には嘘つけないんだから。

最初から普通でいいや、と思うようになりました。

年をとるというのはいいことです。あんなに無駄な(とまではいわないが、自分が疲弊するほどの)労力を使っていたことを、無駄な部分だけ切り離して、必要な部分を選ぶことができるようになるのだから。相手に無駄な期待をさせることを避け、自分の心の平和を守れるのだから。

 

それより大事なことなんてあるか。

(もちろん自分よりも相手が大事になる場面、深く傷ついた人を前にするときなどは例外だ)

 

誰かと比べたらこれでもまだまだネチネチしているかもしれないが、

自分基準でいいから自分史上最大にサバサバとしてくわ。

 

 

私のブログはきっと流行らないだろうね?

夕焼けの空を眺めていて、あれ、もしかして今完璧じゃない?

ずっとここにいてこうしていたらいいんじゃない?

なぜ、変わろうとするのか、進もうとするのか。

今、この時点で、私と空があって、もう他に何も求めることなんかないのに。

なんで私は、ベランダ空を見上げるのをやめて、部屋の中に入って、また日常を取り戻してしまうんだろう、と思った。

ずっとここにいてこうしていたらいいのに。

 

でもすぐ未来には、日は沈んで、朝がきてすごい暑くなって熱射病になったり、お腹がすいたり蚊に刺されたりして、ここから動かなくてはいけなくなるから。

束の間、すべてが一つになった感覚を思い出して、でもすぐに変わってしまうから、動かなくてはいけなくなるから、私はいつもの時間に戻る。

いつもの時間はいつも通り流れるけれど、いつもの私の上に空がある、ということを私は気づく。

 

これは高校生のときくらいから掴み始めた感覚で、

泣きながら帰った夜もなぜか優しい暗い空がやたら優しく大丈夫、と言ってる気がして「これは私の現実逃避、錯覚なんじゃないだろうか」と思っていたけど、どうやら本当だったみたい。感情は空と繋がることができるみたい。

 

まだこの感覚を持てているのが、少し嬉しい。

 

 

同じものをずっと好きでいたいけど、変わっていく自分が恨めしくなったりはするけど、私が感じることすべては、多分正解なんだよね。

右でも左でも真ん中でも上でも下でもある私

誰を選んで、誰を好きになって、嫌いになって、応援してみたり、批判してみたりすること。

何もかもが自由ではあると思う。

だけどそういう自分の”感情”と共に、「人間って、そういうものだよねえ」という″理解”が必要だとも思う。

 

『人間って、権力とか影響力を持ったり、そして持ったまま長い時間が経ったりすると、最初は良かったとしても、力があるのが当たり前になってしまって、その立場を失うことが怖くなったり、失わないために隠し事をしたり嘘をついたり、横暴になったり、弱いものに力を振りかざしたりしてしまうものだよねえ。 ものすんごい精神力があれば、そうはならない人もいるかも知れないけど。大多数はそうでも仕方ないよねえ。』 とか、

『人間って、自分の都合の良いように、自分が見たいように世界を見ようとするものだよねえ。弱い私はもちろんそうだけど、強いあなたですら、そうだよねえ』とか、

『人間って、人には言わない欲があるんだろねえ。』とか。

 

そういう、どうしようもなく愚かな、悪くて黒くて弱いところを”理解”した上で、

最近のニュースで、時が流れてどんどん形が変わっていくもの、どうしても古い形で今に合わないから一度壊れないといけないもの などを、見ていると。

そこに携わる人達の悪いものを決してそのままにすることなく、だけど必要以上に責めることもなく、善いものは見逃さず、と、誰かの言動に一喜一憂することなく、自分の中に時代の流れの感覚を、取り入れることができる。

それが出来たら、今まで流れてきた時間を、過ぎ去った時代を、そっと大事にしまっておくことができる。

 

"理解"がないと、ただ自分が好きな者の”悪さ”を認めたくなくて、ただ受け入れられなくて、反対側にいるものを責めたり批判したりするしかなくなる。嫌いな者の”理解はできる”部分を見逃してしまう。

対象の、その場の一つの言動や行動で、判断するしかなくなるので、昨日まで批判してたのに今日は擁護してみたり、自分の態度が二転三転してしまう、一つのニュースにいちいち翻弄されてしまう。

 ましてやテレビやインターネットの膨大な情報の中。

誰が悪くて誰が良いのか、訳が分かんなくなって、訳が分かんなくなってる自分自身を守るしかなくなってきて、攻撃的になったり、決めつけてみたりする。

 

でも、もともと人間ってどんな生き物だっけ、と元をたどって原点に返ってみれば、善悪はっきり分かれることばかりではないと気づく。

自分が直接携わっていることなら白黒はっきりつけなきゃいけないこともあるだろうけど、そうでないなら、まずはなりゆきを見守る。決めつけないでいる強さを持ちたい。

「そのような流れになりましたね」と見守ることに神経を注ぎたい。

 

ただ、長年何かを拗らせた人(思考が偏り過ぎた人)が、長年熟成させたドロドロしたヘドロみたいなものの中にまた多くの人を巻き込んでいるところを見たら、やっぱり私も思う。「どうせ壊れてしまうものに、執着するな。そんな醜いものはぶっ壊しちまえ」。

 

 

ニュースに出てくる人、それを見ている私たちも、その小さな強さ一つ一つを持てたら、と思う。見守ることができる優しさと強さ。本当に悪いことは、断ち切る勇気。

やさしさ強さ・勇気なんてありきたりな言葉だけど、言葉を本気で使うのであれば、ありきたりな言葉にこそ大事なものがこもっている。

 

そしてその私たちのやさしさ強さ勇気が周りまわったら、胸が引き裂かれるような辛い出来事を、二度と産まないことへ、一番効果があると思う。