「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

崖のした

会社の契約を切られると知った時から妙にすがすがしい気持ち。

それは秋の爽やかな気候のせいかもわからないけれど、とにかく風が吹いてきたような感覚なのだ。たぶん強がりではない。

 

それは、なんだかんだ言ってビビリで安全な道だけを通ろうとする自分が「安心なレールに片足は預けていること」によって得られる安心感と、そして常に感じていた不自由さを手放すことによって、「もう私は、社会に上手く適合しようなどと考えることなく、自分の突き詰める真理のためだけに生きる準備ができた」と思うようになった。

勿論簡単なことではないだろうし、おそらく途中で「不安だよおおおお」と泣き出すと思うし(確実に)、この環境でさえも、恵まれたラッキーの上にあるのは承知している。それでも、それでもね、「これで私もロックンローラーになれる」と本気で思っている。

 

 

 

 

たくさんの、たくさんの情報があふれている(主にインターネッツの恩恵か)世の中において、いろんな声や情報や人々のざわざわする様子が、こんなにも目に見えるようになった。

それで思うのは、「誰もが、言ってることそんなに間違ってないし、全部いいんじゃない?」と思ってしまう。

 

それならば、どんな振る舞いをしてもそんなに悪いことじゃないって言うならば、自分はどこに指針を置けばいいのかしら?と考えた時に。

 

やっぱり自分は、『そういった細かい趣味嗜好を、超越した真理』に少しでも近づきたいと思った。

あなたが青が好きでも赤が好きでも、何かを間違ってると否定したくなっても攻撃的になっても、それでもいいんじゃない、あなたが見る世界からそれは、決して間違っていない。

ただ数年数日単位で変わっていく忙しい世の中に生きていたって、人間の本質が変わるのはあと何万年かかるの?

変わらないんだよ、そう簡単には。

 

だから雑音だらけで混沌としてる世界の中でも、

地球の核みたいな場所にある本当を私は知りたい。

嘘も、そんなに嫌いではないけれど。最後に本当を知りたい。

 

音楽をやっていて、素晴らしいことは「やっていなかったら出会えないような人と出会える」ということだけど、

さらに言うと、その出会った人達によってもたらされる「自分だけじゃ想像し得なかったものに出会う」ことだ。

それも、自分を磨けば磨くほどに。

 

 

 

怒涛の10月が終わり、

数週間前さえも遠い昔のようで、懐かしい。懐かしい人たちがいっぱいだ。

また会いましょう、お世辞じゃなく言ってるの、いつも文句してる現代文明、全部全部駆使してでも、また会おうよ、お世辞なんかじゃないのよ。

 

とりあえず明日、新宿ソウルキッチンでのライブが終わったら、大好きな東北に行ってきます。

 

野暮

あなたは上に行けば行くほど、野暮なことは言わなくなるのでしょうか。


私は未だに野暮なことを言い続けています。

だからあなたに近づけないのでしょうか。

 

いえ、それはきっと

時代なんです。

野暮なことでも、言い続けないといけない時代なんだと思います。

何も言わないあなたを美しいと思い、行間を感じさせるあなたの詩を美しいと思おうと

 

今このときこの時代に、あなたに伝えるのであれば

1から、野暮に思えるようなことから、隙間なく埋め尽くし、

話す必要があると思うのです。

あまりに多くのことに溢れているから。

あまりに多くのことに溢れている時代だから。

 

 

そんな私を、かっこ悪いと思いますか。

私がかっこ良かろうと、悪かろうと、

あなたが思い出してくれるのであれば、

それでいいのかも知れません。

 

野暮なことを叫び続けます。

 

岡林信康さん

9月11日、電車に2時間強揺られ、埼玉は秩父皆野町まで、

『フォークの神様』岡林信康さんのライブを見に行きました。

 

偉大な先人に対して私なんぞが語れる知識などというものはないので、そのあたりは公式のBIOGRAPHYや、40台後半~50、60台位と思われるリアルタイムでのファンの方々の考察にまかせます(検索するとたくさん出てきます。ライブの客層もやはりその位の方が中心でした)

BIOGRAPHY - 岡林信康 - UNIVERSAL MUSIC JAPAN

 

ただ私は、今の自分で感じたことを言います。

いや、ほんとは言葉になんかできない。

「あの人は、こうだと思いました」なんて言うことはできない。やろうと思えば出来るんだけど勿体ない。

ライブを観て、多分自分が頭で思っているよりも、遥かに感じているであろう多くの感覚ことを、無理やり言葉に収めてしまうことが勿体ない。

 

もう既に『多くの輝く過去』を積み重ねてきて、今それら全てを飲み込み、なお未来に繋ぐであろう音楽が目の前にあった。それを感じる人々の数は、どこにいるか、どれくらいいるか、どのくらい影響を与えたのか、数字だけではずっと測れないだろう。時間軸や空間を、『人の心』というものを介して繋ぎ続ける。

とても私に掴みきれるものなんかではない。

だから今私がかろうじてしゃべることが出来るのは、私目線だけの狭い世界での一元的な偉そうな解釈ではなく、「私の気持ちはこう動いた」という、ただの報告だけなのだと思う。

 

前置きが長くなりましたが、

とりあえず4回は泣きました。とても感動しました。人生の中でもそうそうない位。

 

私はメラメラ燃えるような激しいものばかり好きになってしまいがちで、岡林さんにもそんな印象を持っていたけれど、そんな自分が根底からひっくり返るようなのに 否定せずにすむような、優しくおだやかでありながら 凛と燃えている、という両立。

 

たとえ岡林さん自身の人生、歌や、岡林さんの生きてきた私とは違う時代の歌であっても、人々と溶けあってそれはまったく違う世代の私の中にも切なくなるほどに染み込んでくる。

これはどういうことなのだろう。

これはどういうことなのだろう。

 

さっき『輝く過去』と書いたが、本人やそれを観てきた人からしたら全部が全部輝いてはいなかったかも知れない。若者が美化してそう思っているだけと思われるかも知れないけど、それでも『輝く』と言ったのは、

私は人間が暮らすというものが根本的に 自然なものである限り尊いと思っていて

自分が人間である限りは、遥かにどんな物よりも尊いと思っていて、

だからその尊い営みを 美化するでもなく、淡々と、そのままに歌うことを、

矛盾するけど、美化しないから美しい、と思ったことでそう書きました。

 

ああああ結局講釈みたいになってるけど、違うんだよ、私は曲の合間に岡林さんが話したことで、多分生涯忘れないだろうと思うエピソードがあって、

それはある北海道のライブハウスで主催者が「私は人生に疲れて自殺しようと思っていたときに ラジオから流れてきた岡林さんの曲を聴いて、生きようと思った。だから岡林さんは私の命の恩人なんです」と話したのに対し、岡林さんが答えたという言葉。

 

「あなたの命を救ったのは、私ではなく、私の歌を聴いて 生きようと思った、あなたの感性です。」

 

私は震えたよ。

そのあと「謙虚だと思われて、余計面倒くさいことになった」と笑い話に変えていたけれど。

 

私も、「まだ弾き語り始めて2年なんですぅ~」とか言ってちょっぴり自分に言い訳しながら、なんとか人前で歌を歌ってはいる。

そして何ならば、人が元気になればいいし、死にたい人が生きたくなればいいし、良い影響を人に与えたえられたら、なんて思っていたりはする。

だけどそうなんですね。 「元気になって欲しいというのは押し付け」、と言うほどにはそれは悪い感情ではないと思うけど、でもきっと、本当に人が救われるときというのは、「これで元気出してね」と差し出されたものからよりも、

誰かが自分を研ぎ澄ませて研ぎ澄ませて 感じ取った感覚が、他の誰かの感性にそっと触れたとき、なのだと。

「私の思う元気はこれだから、あなたもそれを感じてね」と言われることで助けられるときもあるんだけど、それよりも深い実感として救われるのは、「私と同じ人間がいたんだ」と心の奥底で分かることなんだと。

自分のためにやることが誰かのためになるということは、そういうことなんじゃないか。

 

 

そうして私は岡林さんの歌を聴いて、自分のことに、自分の周りのことに思いを巡らせる。

そんな私にとっては新しい脳みその一部分が開いたような感覚に、岡林さんは当たり前のようにまた話をする。

 

「歌を聴いて感想を言う人、その感想はその人自身の体調だとか、気分の問題であり、その言われたことを自分は気にしない」(要約です)

と。

 

私は、私は、私は。

素晴らしい音楽を聴いて、それでも私は「私は」と自分の物語につなげてしまう。

そう、だけどそれでいいんだよ。

自分の拙い歌詞が頭をよぎる。

 

『また悪口を言われたよ 悲しいセリフだけど 言葉は話す彼自身の物語さ 私登場しただけね』  

 『思っているより、私たちはひとつです』

【変わり者】斉藤めい

 

わかってたじゃないか、なかなかやるじゃないか自分、とか思いながら。

 

いろんな人がいろんなことを言うだろう、それをいちいち気にする。人間だから仕方ないさって、気にすることはないって言われても気にし続けてしまうけど、その「気にし方」を、「こんなこと言われた」と自分に対してじゃなくて、「この人の今の心境なのだろう」という想像力に変換したい。

そして自分は自分を研ぎ澄ませていく。周りのものをはねのけてしまうのではなく、そのままにしながら、とにかく走っていく。

走ることがいつか、誰かに触れて救いになるように祈りながら。

 

それに気づかせてくれたフォークの神様と、あの場所であの環境を作ってくれたライブハウスとその店長さんと、「若いのに珍しいね」なんて言って話しかけてくれた隣の席のお客さんと、全然本数がなく真っ暗な夜を突き進むローカルな電車という、人間の営みが色濃く残ったあの夜と、あの夜に至った全部に感謝を告げながら。

そしてちょっとだけ、それを感じ取ることができた、自分の感性をほめながら。

 

岡林信康 ♪ 26ばんめの秋(2010.10 朝日連峰大鳥池~以東岳) - YouTube

 

*

 

本当は書くのがもったいないような夜でした、歌詞にしたら何十曲分と作れるんじゃないか、と思ったけど、

大丈夫、それでもありあまるほどあるさ と思うのと、誰かに話したかったので、書きました。 笑

 

 

最後に自分の拙い歌詞をもう一つ。

『ああ なんでもたくさんあれば幸せ だと思ってる私が 本当に心から欲しいものは

 作られて与えられたものではなく、あなたが繋いでくれたものなのよ いつだってね』

 【不労所得】斉藤めい

あえて短く 簡潔に

どんなに順調でも先行きが怖くなる。それか、自分が止まっているのではないかと恐ろしくなる。それでも、嘘をつくよりだいぶマシ。

 

器用な人などいない。どんなにしっかりとして見えるあの人だって、しっかりとしているがゆえに見落としているものがたくさんあるだろう。誰かの弱さを許すことだとか、自分の弱さを委ねる心地よさだとか。

だからもしこの場所にいるのが辛いのだとしても、ただ自分がこの場所に合うか合わないか、この場所がどんな傾向がある場所なのか、主流なのかそうじゃないか。ただそれだけのことだから、あなたは何も悪くないよ。絶対に悪くないと思う。

 

 

友達の子どもに会いに行ったらずいぶん大きくなっていた。2歳半ってこんなに話すものかと思った。

ニコニコ笑って、そして好き放題振る舞ってそれだけのようで、周りに優しくしたいと思っている。今は大人こそ、子どもを見習えばいいのかもね。

正直に申し上げますと

 

自分でこんなことを言っておいて、すぐ人の言葉に揺り動かされる。いや、気になってしまうからこそこんなことを言うのだけど。

「人の言うことも少しは気になるけど、それより自分が納得できるかどうかだから」ときっぱりと言えるあの子が羨ましい。

 

 

弱い自分が嫌になっちゃって、でもなんとか弱いままにしたくなくて足掻いてみるけど、やっぱり挫けそうになって転んでドロドロになってでも歩いている。

そんな人間を、

『メンヘラ』と、『病んでる人』と呼びたいのなら、そうすればいいよ。

あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。

あなたがなんと言おうと、私はラブ&ピースのことしか考えていないよ。

 

 

・・・

 

 

「こんなことをやっていて何になるんだ」と思ってしまう自分と、それを思ってしまう時点でそうなってしまう(何にもならない自分になってしまう)ような気がして、頭に過ぎった瞬間に

『そんなことはない。自分最高』と言うようにしている。

 

最近、「ありのままの自分でいい、存在してるだけでいい」という価値観に大いに賛成しつつも、自分の場合は、

「ありのままなんかでいたら自分勝手でどうしようもない人間になるだけなので、ありのままで居たくないともがき続ける」というのがありのままの自分だ、ということに気付いてしまった。

 

なので気になってしまうことを、あんまり気にしないという矛盾を抱えたままいこうと思うのです。

 

・・・

 

変わってるとか変だ、なんて言われるけど

私自分ほどまっとうな人間いないと思ってる、正直。

曲も変わったもの作ろうなんて微塵も思ったことない。普通のものを、真ん中でポップなものを作ろう作ろうと必死です。

それでも変わってると言われたら、それはもう誉め言葉として受けとっておくことにしましょう。ごめん私は私が滲み出てしまうだけなんです。

「自分、変わってるでしょう?」と言うことを誇らしげに言う人だっているのだから。私は、どちらかというと みんなと何も変わりはないよ、と言われたら嬉しい。

願うことが許されるならば、比べることなく、優劣をつけることなく。

 

 

あーなんだか今日はいつも以上にとりとめのない文章になっちゃったな。

すべては台風のせいにしよう、台風のせいです!

そう、あなたのことよ

東北遠征、最高でした。

素晴らしい、と、ありがとう、の他に、一体どんな言葉を使えばいいんだよと思っていたら、主催の千葉ケイコちゃんも「言葉にしたら嘘っぽくなってしまうけど」というようなことを言っていて、同じ気持ちだなと思った。千葉ちゃんは本当に母みたいな人。みんなのお母さんみたいな人。オバチャンとかそういうことじゃなくて、本当に女性の母性のいい部分を集めて 本能で周りを包みこめるような温かすぎる人。

 

【感謝御礼】7.23 千葉ケイコ×オリハント共同企画「あぼんど」山形 エレキ酒場オリハント|せきららだいありー

【感謝御礼】7.24 「心に灯りが灯るまでvol.4」仙台Cafe B.B.|せきららだいありー

↑千葉ちゃんのブログ

 

 

とにかく人が暖かくて、私は自分の生まれた埼玉も今活動している東京も好きだけれど、何か人間の『質』というものが違うと感じた。

そりゃあ東北だっていろんな人がいるのでしょうけど、先週の郡山、そして山形、仙台とライブをして、東北の人々の『本質を感じ取る力』の純粋な鋭さをものすごく感じた。

 

ノリのよさ、ポップな心地よさ、切れ味の鋭いカッコよさだけではなく、「この人は何を伝えようとしているのだろう?」ということを、色眼鏡なしに、目にみえない感覚で感じ取ろうとしてくれている雰囲気。

私にとっては、”嘘がつけない”という緊張感と、そして”本当のことを歌っていいんだ”という安心感につながりました。

ヨソモノですけど私、東北が合ってるなと勝手に思っています。だからいつでもまた行きます。

安い高速バスが、意外と快適で早いどころか、ずっと景色を眺めながら音楽を聴いたり歌詞を思い浮かべたりするのに最高の環境だ、と気付いてしまったし。

 

すぐにまた会う約束をしたので、ちょっぴり切なくとも、悲しくはなりません。

二日間一緒だった千葉ケイコちゃん、キリンイヌ。

ちめちゃん(大立目朋子)、まっちゃん(まっと)、金子ヤスタカ氏、あっちゃん(パーカッション:アツシ)山形市オリハントのミキサンご夫妻、仙台カフェB.Bの店長ご夫妻。

まっすぐな目をしたお客さん。終演後に話してくれたお客さん。

ありがとうございました。こんな風にブログに挨拶を書くのは初めてだよ。これがミュージシャンのふつうのブログだよそうだよ。

 

*

 

もう一つ、私すごく勝手にだけど、東北が「これからの希望の地」だと思っているんです。

今日も幸せな出来事の後で浮かれてたら、悲しいニュースが流れて、最高だった!とか言っていられないなぁと、私はまたSNSで喜びを表現するのを躊躇ってしまうわけです。

 

で、そのニュースについての世間の言葉なんかや、最近の出来事とかも併せて考える。

私が見ているものは全体ではなくまたほんの一部分なのかも知れないけど、その『確かに存在しているその一部分』に思いを巡らせると、やるせない気持ちになることばかりの人は、私の他にもいるはずで。

それでも私たちは、

『それは自分とは関係のない誰かのせいだということで誰かのせいにして、誰かを悪者にし、自分が心地いいと思う=自分が傷つかないで済む考えの中に自分を落ち着かせて、そしてじきに忘れてしまう』のだと思います。

それは私たちが、『自分が傷つかないで済む考え』を繰り返していても、それで生きていける時間を長く過ごしてきてしまったがゆえの、『クセ』になってしまったことなのだと思います。

ラクチンなものは、ラクチン。車に慣れてしまったら徒歩が大変なように、わざわざ苦しい方法を選ぶというのは、なかなか出来る事じゃないので、当たり前かも知れません。

でも、何か大きなもの<世の中の流れ>的なものが 『ラクチン』なものにだけ流れるとしたら、それが必ずしも良いものだけにならないと、なんとなく気づきませんか。

車は便利だけどたまには歩かないと太るよね、と。

 

話を戻すと、東北の人達は『ラクチン』だけに身をゆだねては生きていけないことを、関東の私たちよりよっぽど感覚で分かっているのだろうと思います。

勝手に、偉そうに私が言えることではないかも知れないですが、それは、大きな悲しみを目の当りにし、それでも生きている人達だから、ではないかと思っています。

 

私もラクチンが大好きです、でもラクチンに溺れすぎて、周りが見えなくなってダメになりそうなときに、「ちょっと待って」と教えてくれるのは、東北の人なんじゃないかと。

これからの私たちに、希望を持ちこんでくれる存在なのではないかと、

勝手にそんなことを思っていて、すみません。

 

 

最後に、仙台で一番反響があった自分の曲、『100年後』の歌詞の一部をここに書き出しておきます。

ただ攻撃的で過激なだけ、ととられてしまうような気がしていたので都内のライブでは最近あまり歌ってなかったのですが、東北でとても好意的にとってもらえたというのも、そういうことだと思いました。

 

 

もう無関係でいられないよ、って言ったら 熱い人か左右どちらか扱い

 

あなたの興味いっぱいの新製品も いざというときガラクタだ

 

毎日気を張っていろ、なんて言わないよ

だけど関係ないようにみえる 時も土地も 地続きで続いているから

 

客観性をなくした私たちはそれでもまだ気付かない

それどころか、勇敢な人をみて悪口を書き殴っては自分の弱さをひた隠し

でもよくみて その弱さ、隠れてないで出てきちゃってんじゃないの

 

 

*

 

ほらもうわかったでしょ。

『正義』なんていうのはそれぞれにとって意味の違う言葉だから、もうそれを理由にするのはおしまい、ということが。

 

たった一つ正しいことがあるのだとしたら、一人も犠牲にせずに一人でも多くの「安心」を生み出すこと。

それ以外は、ただの自分の嗜好なのかもね。

たからもの

"何かを言おうとすると「じゃあお前はどうなの?」と自分に問いかけてしまって何も言えなくなる"という病にかかっているのですが、今日はリハビリのつもりで思ったことをそのまま書きます。書くのだ。とにかく。

 

苦しい。※私の苦しさなんてものは、次良いことがあればあっという間になくなってしまうような気楽なものですが とりあえず

今苦しい。

そういうときは、まるで”当たり前のことでしょう?”というように澄んだあの人の眼を思い出すのだけど、それでもまだ、苦しいのです。

 

『有名』という言葉をよく聞くようになりました。

それなりにですが、人前に立って何かやるようになったので、必然的に「有名なあの人と関わりがあった」とか「あの人は有名だ」とか…。よく聞くようになりました。

誤解しないで頂きたいのは、私も大概ミーハー野郎です。ええ!有名なあの人と!?とかよく言いますし 憧れの人に会えたら嬉しくてハートマークつけて図々しく寄っていきます。

 

だから全部が全部、ではないのです、ただ思うのです。

『有名』な人って、『有名なこと』がスゴイのではなくて、『有名になるほどに、何かを純粋に突き進めた』その事実こそが凄いのです。 (そうじゃなくて何がなんでもどんな手段を使っても名を馳せるぜ、という方のことは分からないので今は省きます。) 少なくとも純粋に、ミュージシャンだとか芸術家をリスペクトする、というのは、その事実について少しでも理解し、接するということではないでしょうか。

だからその『突き詰めた何か』のことを分かろうとするでもなく、ただ”輝く名前”に吸い寄せられて、自己中心的な自分の為の何かにそれを利用しようとしたり、神格化しすぎたりすることに、「その人の作品を見ていながら、なぜ」という気持ちになってしまいます。

仕方がないのかも知れませんね。それが私たち一般市民というものなのかも知れないです。私が憤ったって仕方がないけれど、今日の朝はそのことで体が重たくて仕方ないのでした。

 

あ、もう一つの病が発症してきた。

書き終えてしまうと、とたんにどうでも良くなって、人への公開を躊躇ってしまう病。でも今日は垂れ流すって決めたんですよ。

 

 

 

あの子が悩んでいる話を聞いて、私は何も答えられなかった。

いつだってそう、誰かの為になることを答えられたことなんてないんです。

でもちょっとだけ分かる気がするから、適当なことを答えたくなかったというのもあるんです。そして言いたかったんです、

「あなたのことをとやかく言う人や 決めつける人や 理解者のフリをして自分の手中に収めたいだけのやつもいるだろう。本当の善意さえも、あなたを傷つけることもあるだろう。だけど私はあなたを美しいと思う。こうだ、と決めつけるわけでなく、何か見返りを求めるわけでもなくて、ただただ事実として 美しいと思ったよ」と言いたかった。恥ずかしくてそんなこと言えないのだけど。

そのままで居て欲しい、なんて身勝手だ。本人は抜け出したくてもがいている。だけど少なくとも他人であって少しだけ近い私が思うのは、やっぱりそのままでいいんだよ、ということなのでした。

 

ああ。

上と下の話は、繋がっていないようで繋がっています。

人のことを気にして気にして気にして疲れたら、自分に戻りたい。没頭したいんですやっぱり。さようなら、だけどあなたの言葉はいつでも、私の宝物です。