「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

コミュニケーション

人と話しをしているとき、その中でも特に『相手が私について話すとき』のこと。

その人が話をしている内容とか、言葉使いとかよりも、

「どんなつもりでその言葉を言っているか」、そして「(感情的に)どこを向いて言っているか」の方が気になる。

 

「あなたは素晴らしい」と言われたとして、本当に私のことを素晴らしいと思っていってくれているのか、『あなたを素晴らしいと誉めることができる自分が素晴らしい』もしくは『認めて欲しい』と思っているのか。

「お前なんかくたばれ」と言われたとして、本当に私にいなくなってほしいのか、『このどうにもならない気持ちをぶつけさせろ』と思っているのか。

 

それは私に言っているのか、言っている人が自分自身に言ってるのか。

純粋にそう思って言うのか、もしくは、言う事で何かをコントロールしたいのか。

ということの方が、

言葉やしゃべってる内容よりも気になってしまう。

 

もちろん人間は「黒か白か」だけではなくて、グレーの部分の方が大きいと思う。

 

だから、絶対どっちかに分かれるというよりも、

本当に私のことを素晴らしいと思ってくれつつ、私のことを誉められる自分のことも素晴らしいと思っているのかもしれないし、

本当に私のことが嫌いで、だからどうにもならない気持ちをぶつける対象にしたいと思っているのかもしれない。

純粋に思ってもいるし、でもあわよくばコントロールしたいと思っているかもしれない。

 

 

両方あって当たり前かもしれないし、私自身も常に、相手に対して本当にそう思う気持ちと、自分の意図をくみ取ってほしいという、両方の気持ちを持って発言していると思う。

 

それでもやっぱり、時間をかけて話すのであれば、変な駆け引きが必要な言葉どもよりも、

「あなたが好きです」「私はこう思います」「私は嬉しいです」「私は悲しいです」

という素直な言葉が聞きたい。人と人が一対一で話すのなら。

言葉尻をとらえて討論するのは、公の場だけでいい。

 

コントロールしようとしてるな、という意図が見えたり、自分自身のうっぷんをぶつけているんだな、と思うと、頭の温度が冷えていく。

でも言う方もおそらく、無意識でのことなのだとは思う。

 ※最初に書いた通り、『相手が私について話すとき』のことです。

 

このブログを書きながら、ああ私は怒っているんだなと思った。

なんか、「ラブ&ピースって言ってるし、怒りや悲しみは極力、消化して昇華してからじゃないと書いちゃダメだ。」とか思ってたけど、

自分の心の中をちゃんと「ラブ&ピース」にしておくには、怒りも悲しみもちゃんと出さなきゃダメだ。

最低限、言葉を整えて、「私は怒っています」と言わないとダメだ。

 

もしあなたが私の気持ちを無視して、あなたの都合が大部分を占める言葉をまるで私の責任かのように浴びせるなら、どんな整えられた言葉だとしても「私は悲しいです」。

 

ただ、あなたが一人の人間として1ミリでも心を寄せてくれる瞬間があるのなら、そのときは「私はとても嬉しいです」。

 

もちろん、わかってくれると信じている。

新年早々

2019年ですね。

皆様、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

 

去年はいい年でした。それは「ハッピーなことがたっくさん!」という類の良さというよりは、「いろんなことがあったけど、それが一つ一つこれからの身になっていくんじゃないかなあ」という、物語でいう大盛り上がりの前の、でも重要な伏線があちこちにあったんじゃないかと思える時間でした。

そして2019年の大盛り上がりへ。なんだかそんな予感がします。

予感というのは、根拠はないけど未来を信じるという意味でとてもいいものです。

あなたの未来も含めて、です。楽しみですね。

 

 

新年早々、ギャーッと泣き叫んでいたところです。

最近友人の子どもに会う機会があって、子どもが泣いたりぐずっているのを見ると「ああ、なんかわかる気がする」と思ってしまう。

私の感性、赤ちゃんと一緒になりつつある。信じてもらえないかもしれないけど、最近そんな感覚があって、気が緩んでると、何か刺激があると反射で一秒で泣いてしまう。

大人なのに…って恥ずかしくて誰にも言えなかったけど。

 

で、新年になんで赤ちゃんみたいになってたかっていうと、

さっき、「やれるならやった方が絶対プラスになる」という出来事があって、

「それをやらない=びびってる、逃げてる」みたいな流れになって、自分自身でも「私はびびってるだけだ」と思ってたから、「よし、これは逃げずにやろう!」と決めたつもりだったんだけど。

でも、めっちゃ泣けてきた。

「嫌だーーー!!!やりたくないーーーー!!!」って。

「ウワーーーーーー!!!!」って。

 

もう理屈じゃない。理屈じゃないんだよ。

やりたくないことをやらないのは逃げてるって、逃げさせてくれよ。

逃げずにそれをやったらいいことがあるかもしれないけど、

やってるとき、やり終わってからも辛いと思う心を、自分以外の誰もケアしてくれやしないよ。

 

それに実は私、何度かそれを試したことはあったんだ。やらず嫌いだったわけじゃないんだよ。

でも何回やっても一向に慣れることはなく、それをやってる間ずーーーっとしんどい気持ちだったんだ。

多分、向いてないんだよ。

 

できないこと、向いてないことから逃げて逃げて、

得意なこと好きなこと楽しいことをやろうって、そんなにいけないことかな。

 

 

 

私は、何度か書いてるけど、ライブを始める前、人前で歌うのが本当に怖くてやりたくないと思ってた。

でもそれは、今思えば「人前で歌うこと」が怖いというよりは、「人前で歌って、悪い評価をされること」が怖かったのだと思う。「いい評価しかされない」ってわかってたら、すぐやってたと思うし。笑

でも歌うこと自体は本当はずっとやりたかったから、「人前で歌う」のができるようになるために、「人前で歌って、悪い評価をされるんじゃないかと思うこと」を乗り越える必要があったから、あのときの怖さは、確かに乗り越えなくちゃいけないものだった。

そういう「本当にやりたいこと」を焦点に当てたときの、「これは逃げちゃダメだ!」ということは、確かにあると思う。

 

でも、今のこの「やりたくない!!!!」と私の心が赤んぼのように叫ぶことは、本当にやりたくないことなんじゃないかなと思った。

できるならやる、に越したことはないけれど、この私の心の中の子どもが本気で嫌がるのを、無視してまでやることではないのじゃないかと。

だって無視し続けたら、きっと絶望しなくていい未来に絶望してきちゃうもんね。

 

誰かがすごく待っていることなら、また気持ちも変わるのかもしれないけど、

誰にもそれは期待されてないよ、ってことで、先に勝手に、やらなきゃと思いこんで辛くなって苦しむことで、実際に誰かが待っててくれることに力が注がれず、非効率じゃないかとも思う。

 

 

ちなみに言っておくと、私以外の誰一人、私を責めてる人はいない。

「逃げてんじゃないの?」って責めてるのは自分自身だし、これはすべて、私の心の中で起こってる出来事でしかない。

自分は、ビビりだ。そして器用ではない。という自覚があるからこそ、なるべく、いろんなことから逃げないよう、頑張らなきゃ、と意識をしてきた。

でも、これから必要なのは、嫌だなと思うこともすべて引き受けること、ではないかも知れない。

 

泣き叫びたいほど嫌なことは、とりあえず置いといて、

いい未来になることを予感させてくれるような、ニヤニヤしちゃうような出来事を積み重ねていくこと。

これからはそっちに焦点を当てたらいいのかもしれないなと、泣いたことでなんだかとても分かったような気がした、この年最初の日。

 

私の感情よ、新年早々さっそく働いてくれてありがとう。

 

 

そんなわけで、周りとか、正しいとされてることとか、そういうものより、

あなたの感情が健やかであることが一番いいな、と思いつつ

青い空を眺めています。

もうすぐ暮れていきます。

 

 

 

☟これは達成できるよう頑張りたいです

斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

私の軽やかさ


camp-fire.jp

初アルバム作成にあたり、クラウドファンディングを開始しました。

あなたの過去の意味を、未来につなぐためのものにする音楽と、アルバム作りよ。

500円からすべての支援者の名前をクレジットするから、この現代のラブ&ピースにあなたも参加しちゃいなYO!

 

 

軽やかになりたいと思っていた。

だって重苦しい深刻なものよりも、軽くて楽しいものの方が、人は惹きつけられるでしょう。

だけど「軽やかになりたい・・・!」とか思ってること自体がすでに重い。(笑)

し、このクラウドファンディングを始めるまでにも、クセになってるよなどうしようもなく重苦しい気持ちが手放せなかった。

 

クラウドファンディングのページにも書いてある、やるまでの心の葛藤。だいぶポップに書いたけど、本当はもっともっともっとウジウジしたものがあった。

 

 

だって失敗したらカッコ悪いじゃない。

同じ仕組みで何百万と集めてる人がいる中で、達成できなかったら、「お前の価値なんてそんなものだ」って言われてるみたいじゃない。

人からお金を集めるなんて、斉藤も変わったなあ…、とか思う人がいるかもしれないじゃない。

 

やるなら、なるべく楽しく、気軽にできるものにしないと。それはわかってはいたけど、

じゃあ私のこの、楽しくも気軽でもない不安の置き場を、どこにすればいいんだよって思ってた。

本当のことを全部塗りつぶす嘘をつかないといけないのか?ウジウジしたものを、好きな人は少ないのはわかるけど。

でも不安を打ち消す何かが欲しい、そしたら出来るし、私。と思っていた。

 

(ちなみに何社かのクラウドファンディングに試しに登録したりしたが、今載ってるくらいの文章でも、「マイナスなことはあまり書かない方がいいです」とはっきり言われたところもあって、「これくらいでマイナスって思われたら、私はどうすればいいんだよ!『ウエーイ!皆よろしくお願いネッ🌟』とかしか書けないのかよ!」と思った、ということもあった。)

 

 

でもとにかく、そんなウジウジした不安な気持ちを、打ち消すのではなくそのままにした形で、

それでも「動く」という方に舵をきれた自分は、本当に偉かった。

誰になんと言われようと偉かったのだ。

路上ライブを4年越しにやっとできたときみたいに、1年かかった。

それでもできたんだ。

 

なんでも不安に考えすぎてしまう、大変重苦しい自分だけど、

やる方に吹っ切ったときは、「それでも私やるわ」という、

『ノリ』で『流れに乗っただけ』のもので、

不安を覆すだけの理由などは特になかった。ただ、よしゃ、と始めた。

大変軽やかな気持ちだったと思う。

 

それが私の軽やかさなのだ。

もじゃもじゃ。

 

 

しかもすでに十数人協力してくれてるんだ。画面の向こう側の誰かが、力をくれるなんて、こんなことが起こり得るんだ。奇跡が普通に起きてるなんて、すごい世界だ。

不安に思ったことをなぞる道ではなく、奇跡の道を選んだのだ。

私はこのプロジェクト、始めた時点ですでに成功しているんだ。

だからあとは、一人でも多くの名前を、全方位に最高のラブ&ピースになるであろうアルバムに刻むために、「やってまーす」ということを広めるだけだ。

 

 

軽やかさにもいろいろあるんだ。

魅力的に人を煽ることができて、良い意味での軽薄さで楽しそうにワイワイしている人たちは未だにうらやましい。

でも、私には、私の、軽やかさがある。

それは『一見現実を重く深刻に考えてるようで、実際は空を飛べると本当に思っちゃってる』というようなもの。

『すごい長い時間ウジウジしてたのに、ある日突然、裸足で走り去っちゃう』というようなもの。

 

誰かに疎まれるかもしれないことも、明確な数字で導き出されるものも、とても怖い。

それでも、あなたたちと、もっと素晴らしくて大きくて美しいものを作ることができるってことを、全然これっぽっちもまったく諦めてない。

 

私なかなかチャラいでしょう。軽いでしょう。

だからヘーイ、そこの人!迷ってないで、ポチッと押して、名前刻んで、早くこっち側においでYO!

 

斉藤めい初のフルアルバムを「みんなに協力してもらって作りました」と言わせて作戦! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

新月


saitome.localinfo.jp

ありがとうございました。

「面倒くさいこといろいろ書きつつも、終わったら『最高でした!』って結局言うんじゃん。」

と自分で思いますが、

そうです。めんどうくさいあの不安でどうしようもない気持ちを経験した後の、成功だったからこそ、そう思えるんです。

成功と言うのは、来てくれたあなたの顔を見ながら、今音楽の中にいるなと確かに思えたことを言います。だから結局は私の気分の問題なのかも知れないけれど、聴いてくれた人たちも、楽しかったならいいな。と思います。

 

なんかね正直、やっぱり「こうだったらいいな」という理想みたいなものは、あったんですよ。

「こういう人(年齢層、性別)にたくさん来てもらいたいな」「この場面ではこういう風になったらいいな」「このくらいの人数きたらいいな」とか。正直言うとです。

 

でもそういうのを、目安にするくらいならいいんだけど、『目的』にする必要はないと確信したというか。「結果は後からついてくる!」というまでは強い主張ではないし、一旦目安として考えること自体は悪いことではないと思っているのだけど。

でも、そういう細かい設定みたいなのを、自分でコントロールしようとして成功したこと、私は一度もない。し、今回「失敗など何もないけど、次への反省」で自分に挙げられることを突き詰めると↑のようなものをコントロールしようとしていた、ということにほとんど全て行き付く。

『いいライブをする』結果、『来た人に喜んでもらう』

このシンプルなのが全てだ。特に私のような人間には。

不器用なくせに、小賢しい調整をしようとするなよ。

あの日あの夜に来てくれた人、一緒に演奏してくれた仲間、見守っててくれたライブハウスの人。

それで全てだよ。そして作られた空間や時間は、私が「想定」なんかしていたものを、はるかに超えていくんだ。

どうなるかわからないことを、支配下に置きたいのは不安だから。なんだけど、その不安を持ち続けつつも暴れさせないようにする。

そして来てくれた人を信じる。ここまでやってきた自分を信用する。

それ以上はもう、ああなれとかこうなれとか、コントロールしようとすることはないな、と、それがわかったのが、あの3rdワンマンライブでした。

 

もちろんこれからも、まだ見ぬ誰かに届くよう、その場にいない人にも届くように歌います。

それでもやっぱりライブは、その日その場所のもの。

と、大好きなミュージシャンのライブにも数年行けていない自分でも思うのです。

 

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期待をしてしまうよね。

でも期待って多分重いよね。

期待じゃなくて応援できたらいい。

「私の思い通りにはならないけど、でもあなたの人生が幸せならいいね」って。

昔からどうしても人に期待してしまう癖があり、それが憎い。

たとえばだけど、「あなたのライブを観に行くかも」と言ってくれた人がいるとして、

勿論単純な嬉しさも大いにあるんだけど一方で『ああこの人が来てくれたら"自分はこう安心だから"、絶対に来てほしい!』と心のどこかで思ってしまい、その人が何らかの事情で来れなくなれば、ああ…もう私なんかダメなんだ…どうせと落胆してしまうことが、ちょっと前まではだけど、よくあった。

でもこれって多分向こうの立場に立てば、そんな重圧をかけられたらとツライと思う。

 

だって人は様々な事情で生きているし、時間・お金・体力・気力、すべてそろわない事には『約束』をするのだってなかなか大変なこと。あの人は自分の生活でいっぱいいっぱいかもしれない。あの人は家族がいるかもしれない。あの人は仕事が忙しいかもしれない。あの人は無理できる身体じゃないかもしれない。

今居てくれる人に感謝こそすれど、居れない人を責められることなど何一つない。

「あの人が(私にとって都合がいい)あの行動をしてくれるだろう」なんて、ただの私の頭の中の出来事でしかなく、あの人には本当は関係がない。

そもそも私だって約束したものに、時間・お金・体力・気力いずれかが伴わずに断念したことだってたくさんあるし。

 

期待するのはもうやめた。それは「期待なんかしたってどうせ裏切られるんでしょ…」という後ろ向きなものではなく、「期待なんかしなくたって、いつでも誰でも、期待以上のその人の人生を生きてるよ。だから期待なんかせずにあの人自身を応援するよ」と思う。

 

もし私が期待なんかしちゃうことがあったとしたら、それはあなたではなく私の問題なので、もう放っておいてください。

それでもどうしても期待をしてしまうときがあれば、1人とか2人とかではなく、1000人2000人くらいに期待をして、一人ずつにかけるものを軽くするので、安心してください。 

 

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グルグル何周も周ってやっぱり同じようなところに来る。

それでも前に周ったときとは少し違う景色。

上昇気流に乗っている。

今を大事に生きる。

ちょっぴりだらけた季節の変わり目の自分にすらハートマークをつけながら、

耐え忍ぶのではない、頭をクリアにさせる、

あの寒さを迎える準備をしている。

 

 

面倒くさい私の大事な前夜

頭の中がまたゴチャゴチャしてくる。

「ミュージシャンは人に夢を与える役割だから」、「人前で弱音なんて吐いてはいけない」?

そうだね、いつだって笑顔で、誰かを元気にすることができたら、どんなにいいだろう。

 

それでも私は取り繕うことができない。

ダメなときはモロにダメな顔になってしまう。

そのことを、「ああ、皆さんの前でこんな顔をして、自分はダメだなあ」と思うとますます落ち込む。

どうしたらいいのか。そもそも人前に立つことが向かないのか。

そして「夢を与える人」が「人前で弱音なんて吐いてはいけない」のは本当だろうか。

 

吐き方によるんじゃないか。

ただただ垂れ流すだけじゃなくて、あわよくば、「この人も凹むことがあるんだな…」とかって、同じような気持ちになる人に、むしろいつでも常時元気な人よりも感情的に側にいられるような凹み方はできないだろうか。

 

私の辛さは、凹みは、傷は、ただ私を傷つけるためにあるのではない。

同じような誰かに、「そんなときもあるよね」と言えるようになるための痛みだと、思っていたいのだ。

 

ワンマンライブが近づいている。過去2回もそうだったけど、やっぱり今回もプレッシャーに押しつぶされそうになっている。

初めてのワンマンライブのあとに、思い描いた1年半後の自分に、私は

なれているのだろうか?到底届いてないんじゃないか?こんなはずじゃなかったんじゃないか?足らないことだらけじゃないだろうか?どうして、何が間違っていたのか、何が私に足りないんだ。

過去と比べてしまうし、足りてないものばかりを数えてしまう。ああやっぱり私が暗いのかなあとか、明るいところに人は集まるよね、とか、私の音楽も人格も何もかもわかりづらいのから人は集まらないのかなとか、人を楽しませるように煽るのも結局下手くそだしなあとか。

足らないものだらけだ、喉が渇いたように苦しい、苦しい、苦しい、とても苦しい。

 

でもそんな足らないものばかり数えている自分は壊れてしまえばいいと思う。

そしてシンプルに生まれ変わればいいと思う。

たった今から、勇気も何も必要としない、ただ自分が淡々とできることをやり続ければいい。

「なぜうまくいかないの?!私がダメだから?!」とかって感情的にならずに、ただ続ける。

帰ってきたらよく眠ろう。

そしてステージの上にいるときだけは、目の前にいる人たちにいつも通り歌えばいい。

 

いいや、こんな考え自体、まるごとどこかにやっちまって、

ただ思うように振舞えよ斉藤。

 

ギターを始めて5年が経ちます。弾き語りを始めて4年が経ちました。

最初の頃の初期衝動のある斉藤の方がよかったです、

なんて、誰にも言われたことないのに、

「もしかして最初の方が良かったの?ねえ?そうなの?」と自分でも思ってないのに考えている。

 

そんな、少しギターを弾いて少し技術が身についただけで、なくなってしまう衝動のことなんてどうだっていいよ。

いつだって私の中には同じものがあるよ。誰にも気づかれずに通り過ぎられたとしても、いつか報われたとしても、ずっとずっと変わらないよ。それを本当に大切しているから、私が私じゃなくなるときは、身体がなくなるときではなく、この大切がなくなるときだよ。外側のものだけが、形を少し整えてたりして変わっていくよ。

 

これは孤独な獣道です。本当に間違ってない?この道は間違ってない?

そんなことはわからない。わかってしまったらそれは獣道ではない。

 

 不安だ不安だ不安だ不安だ。

ああ、初めてのワンマンライブのときに、「これからは自分なんて…じゃなくて、自分を最高と思っていきます」って、言ったじゃないか。また自分なんて…って思ってるのか?もう本当にめんどくさいな自分。

思ってようが、思ってなかろうが、どっちだっていい。どっちだっていいんだよ。

思ってたからなんだっていうんだよ。思ってるからダメだ、じゃまた永遠に同じとこをグルグルしてんだよ。ダメと思ってるから悪いとかじゃないんだよ。

思ってようが思ってなかろうがこのまま行くんだよ。思っててもいいんだよ、だって進むことに変わりはないからさ。

 そのことをちゃんとわかったら、もう面倒くさいこの自分のままでいいから、

重い重い自分の足を進めてあなたの待つ場所へとつながる扉を開けるのです。

 

だから私は、どんなにめんどくさいことを言ってようと結局は大丈夫です。

ワンマンライブがあります。↓ぜひ来てください。

【斉藤めい 3rdワンマンライブ】

11/16(金)真昼の月 夜の太陽(東新宿)

 open18:50 / start19:30 ¥2,300+当日ドリンク代 

 ✾演目&ゲストミュージシャン✾

 ・ギタ―弾き語り:斉藤めい

 ・ピアノ:村松亜紀

 ・ピアノ:黒田玲兎、オーボエ:Takashi

 ・バンドセットwith 2RPM(Gt.つる、Vn.RURI、Dr.プニ夫、Ba.まあ)

 

予約はコメント欄かmonbiri_4@yahoo.co.jpにメールをください。

16日0:00までの予約で当日「あなたは大吉」おみくじ(全部大吉以上で斉藤の手書きおみくじ)が引けます。

音楽と動物

最近ちょっと気づいたかもしれない。

私って、自分に自信がないと思ってたけれど、本当は誰より自分が可愛くて大好きなんじゃないかと。

自分のことが嫌いと思っていたけれど、本当は、他人の言葉ですぐに揺らいでしまう自分をなんとかしたかっただけなんじゃないかと。

 

自分が可愛くて大好きっていうのは、鏡をみながら「私ってなんて素晴らしいんだろう」とか、そういう類のものじゃなくって、生物レベルのっていうか、たとえば肉食動物に食べられそうになったときに全力を出して逃げられるとか、そういう、自分の命を守るために全力を尽くすことができる、とかそういう種類のものだと思う。

 

本心では自分が大事ってわかってるんだけど、自信ないとか嫌いとか思うのって、その大事な自分が、苦しいとか傷ついたりとかしたくないからなのではと。

「自分が大事な存在」なことは、もうわかっている。もし忘れてたなら、まず思い出さないといけないけど。

忘れてない限り、本当はもう十分、自分が大事なことなんてわかっている。

 

だから私が知りたいのは、「自分が大事な存在かどうか」についてじゃなくて、「その大事な自分が、他人の言葉や、周りの環境に振り回されないように、自分の感受性の扱い方」についてを知りたいんだと気づいた。

 

どう振舞えば、考え方も違う、感じ方も違う、でもなるべくわかりあいたい人たちの中で、大事な自分自身も感情も押し殺すことなく、いられますかと。

ただそれだけなのかも知れないと思った。

 

疲れてたら愚痴っぽくもなる。

それでも一晩でも二晩でもぐっすり寝ることができたら、やがて大事なことを思い出して、自分が生き延びる為の方法を探し始める。誰かに教えてもらったり、自分が探すことができたら誰かに教えたい。

 

ちなみに「大事な存在」という言葉は、「私って尊い存在でしょ!!」って誰か外側の人に向けたアピールでもなんでもなくて、自分の心の中で小さく、でも確かに感じることができる感覚としての実感だ。

 

そう、このブログに出てくることは「出てくるものだけ」のタイトルその通り、自分の中から「出てくるものだけ」を書く。

そしてそれは、たとえば「誰かにこんなことを言われて傷ついた」と書いたとして、『誰か』を責めるためのではなく、『こんなことを言われて傷ついた自分』が一体どう振舞ったら少しマシになったかの体験談です。

同じように感じた誰かの為になればいいと思うだけなんです。

 

 

2年前の自分が歌う。

「神様は自分の中 誰の中にも居ない」

1年前の自分が歌う。

「誰の声も聴くな 自分だけを聴いて」

 

私の感情よ生き延びろ。

そしてその感情に、何よりも強く共鳴するのが音楽なんです。

 

心の内側

私に何がわかるというんだろうか。

あの人の心の内側の。

いつも元気そうに見えるあの人の、

強気にみえるあの人の、

いつも笑顔のあの人の。

強がってばかりいるあの人の。

心の内側に本当は何があるんだろう。

それを、私はどれだけ分かることができるんだろう。

一生、全然わかんないかもしれない。

 

あなたはいま何を思うのか。

私はあなたの目には、お気楽そうに映るかな。

私はあなたのことを「いつも強くってうらやましいなあ」と思う。

だけどもしかしたらあなたも私のこと、「いつも強くっていいなあ」と思ってるかもしれない。

お互いのことなんか全然わかんない。

それでもいつか、

『そんなことないんだよ、いろいろあるんだよ』

と話し合えたらいい。

 

誰でもいつでも誤解だらけだよ。

誤解だらけだよ。

勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に悲しんで、勝手に拗ねて、勝手にいなくなったり、勝手に戻ってきたりすればいい。

誤解だらけの自分と誰かと世界を見渡した後に、自分の中にある確かな気持ちを、とりあえずきちんとすべて伝えたら、あとはどんな結果になろうと、それが最善だと信じるしかない。信じるのは怖い、今この場をなんとかしようと、説得したり、引き留めたり、あえて突き放したりしてしまう、信じて待つことは怖いのだ。

 

静かに待つ強さをくれ。

誤解を力づくで説くのではない、伝えることだけを伝えて、あとはゆっくり待つのだ。

どんなに心の中が荒々しく、哀しみにくれていようと。そして、それは一人で耐えなくてもいい。

 

信じて待つ、信じて待つ。

 

あなたが思っているよりもうらやましい自分ではないけれど、

私が思っているよりもうらやましいあなたではないのだ。

同じなのだ、きっと。

 

心の内側が見られたらいいね。

そしたら歌わなくてもきっとあなたの側にいつでもずっと寄り添えるだろう。

でもまだ見えないから、手探りで歌を歌っているのだ