そう、あなたのことよ
東北遠征、最高でした。
素晴らしい、と、ありがとう、の他に、一体どんな言葉を使えばいいんだよと思っていたら、主催の千葉ケイコちゃんも「言葉にしたら嘘っぽくなってしまうけど」というようなことを言っていて、同じ気持ちだなと思った。千葉ちゃんは本当に母みたいな人。みんなのお母さんみたいな人。オバチャンとかそういうことじゃなくて、本当に女性の母性のいい部分を集めて 本能で周りを包みこめるような温かすぎる人。
【感謝御礼】7.23 千葉ケイコ×オリハント共同企画「あぼんど」山形 エレキ酒場オリハント|せきららだいありー
【感謝御礼】7.24 「心に灯りが灯るまでvol.4」仙台Cafe B.B.|せきららだいありー
↑千葉ちゃんのブログ
とにかく人が暖かくて、私は自分の生まれた埼玉も今活動している東京も好きだけれど、何か人間の『質』というものが違うと感じた。
そりゃあ東北だっていろんな人がいるのでしょうけど、先週の郡山、そして山形、仙台とライブをして、東北の人々の『本質を感じ取る力』の純粋な鋭さをものすごく感じた。
ノリのよさ、ポップな心地よさ、切れ味の鋭いカッコよさだけではなく、「この人は何を伝えようとしているのだろう?」ということを、色眼鏡なしに、目にみえない感覚で感じ取ろうとしてくれている雰囲気。
私にとっては、”嘘がつけない”という緊張感と、そして”本当のことを歌っていいんだ”という安心感につながりました。
ヨソモノですけど私、東北が合ってるなと勝手に思っています。だからいつでもまた行きます。
安い高速バスが、意外と快適で早いどころか、ずっと景色を眺めながら音楽を聴いたり歌詞を思い浮かべたりするのに最高の環境だ、と気付いてしまったし。
すぐにまた会う約束をしたので、ちょっぴり切なくとも、悲しくはなりません。
二日間一緒だった千葉ケイコちゃん、キリンイヌ。
ちめちゃん(大立目朋子)、まっちゃん(まっと)、金子ヤスタカ氏、あっちゃん(パーカッション:アツシ)山形市オリハントのミキサンご夫妻、仙台カフェB.Bの店長ご夫妻。
まっすぐな目をしたお客さん。終演後に話してくれたお客さん。
ありがとうございました。こんな風にブログに挨拶を書くのは初めてだよ。これがミュージシャンのふつうのブログだよそうだよ。
*
もう一つ、私すごく勝手にだけど、東北が「これからの希望の地」だと思っているんです。
今日も幸せな出来事の後で浮かれてたら、悲しいニュースが流れて、最高だった!とか言っていられないなぁと、私はまたSNSで喜びを表現するのを躊躇ってしまうわけです。
で、そのニュースについての世間の言葉なんかや、最近の出来事とかも併せて考える。
私が見ているものは全体ではなくまたほんの一部分なのかも知れないけど、その『確かに存在しているその一部分』に思いを巡らせると、やるせない気持ちになることばかりの人は、私の他にもいるはずで。
それでも私たちは、
『それは自分とは関係のない誰かのせいだということで誰かのせいにして、誰かを悪者にし、自分が心地いいと思う=自分が傷つかないで済む考えの中に自分を落ち着かせて、そしてじきに忘れてしまう』のだと思います。
それは私たちが、『自分が傷つかないで済む考え』を繰り返していても、それで生きていける時間を長く過ごしてきてしまったがゆえの、『クセ』になってしまったことなのだと思います。
ラクチンなものは、ラクチン。車に慣れてしまったら徒歩が大変なように、わざわざ苦しい方法を選ぶというのは、なかなか出来る事じゃないので、当たり前かも知れません。
でも、何か大きなもの<世の中の流れ>的なものが 『ラクチン』なものにだけ流れるとしたら、それが必ずしも良いものだけにならないと、なんとなく気づきませんか。
車は便利だけどたまには歩かないと太るよね、と。
話を戻すと、東北の人達は『ラクチン』だけに身をゆだねては生きていけないことを、関東の私たちよりよっぽど感覚で分かっているのだろうと思います。
勝手に、偉そうに私が言えることではないかも知れないですが、それは、大きな悲しみを目の当りにし、それでも生きている人達だから、ではないかと思っています。
私もラクチンが大好きです、でもラクチンに溺れすぎて、周りが見えなくなってダメになりそうなときに、「ちょっと待って」と教えてくれるのは、東北の人なんじゃないかと。
これからの私たちに、希望を持ちこんでくれる存在なのではないかと、
勝手にそんなことを思っていて、すみません。
最後に、仙台で一番反響があった自分の曲、『100年後』の歌詞の一部をここに書き出しておきます。
ただ攻撃的で過激なだけ、ととられてしまうような気がしていたので都内のライブでは最近あまり歌ってなかったのですが、東北でとても好意的にとってもらえたというのも、そういうことだと思いました。
もう無関係でいられないよ、って言ったら 熱い人か左右どちらか扱い
あなたの興味いっぱいの新製品も いざというときガラクタだ
毎日気を張っていろ、なんて言わないよ
だけど関係ないようにみえる 時も土地も 地続きで続いているから
客観性をなくした私たちはそれでもまだ気付かない
それどころか、勇敢な人をみて悪口を書き殴っては自分の弱さをひた隠し
でもよくみて その弱さ、隠れてないで出てきちゃってんじゃないの
*
ほらもうわかったでしょ。
『正義』なんていうのはそれぞれにとって意味の違う言葉だから、もうそれを理由にするのはおしまい、ということが。
たった一つ正しいことがあるのだとしたら、一人も犠牲にせずに一人でも多くの「安心」を生み出すこと。
それ以外は、ただの自分の嗜好なのかもね。
たからもの
"何かを言おうとすると「じゃあお前はどうなの?」と自分に問いかけてしまって何も言えなくなる"という病にかかっているのですが、今日はリハビリのつもりで思ったことをそのまま書きます。書くのだ。とにかく。
苦しい。※私の苦しさなんてものは、次良いことがあればあっという間になくなってしまうような気楽なものですが とりあえず
今苦しい。
そういうときは、まるで”当たり前のことでしょう?”というように澄んだあの人の眼を思い出すのだけど、それでもまだ、苦しいのです。
『有名』という言葉をよく聞くようになりました。
それなりにですが、人前に立って何かやるようになったので、必然的に「有名なあの人と関わりがあった」とか「あの人は有名だ」とか…。よく聞くようになりました。
誤解しないで頂きたいのは、私も大概ミーハー野郎です。ええ!有名なあの人と!?とかよく言いますし 憧れの人に会えたら嬉しくてハートマークつけて図々しく寄っていきます。
だから全部が全部、ではないのです、ただ思うのです。
『有名』な人って、『有名なこと』がスゴイのではなくて、『有名になるほどに、何かを純粋に突き進めた』その事実こそが凄いのです。 (そうじゃなくて何がなんでもどんな手段を使っても名を馳せるぜ、という方のことは分からないので今は省きます。) 少なくとも純粋に、ミュージシャンだとか芸術家をリスペクトする、というのは、その事実について少しでも理解し、接するということではないでしょうか。
だからその『突き詰めた何か』のことを分かろうとするでもなく、ただ”輝く名前”に吸い寄せられて、自己中心的な自分の為の何かにそれを利用しようとしたり、神格化しすぎたりすることに、「その人の作品を見ていながら、なぜ」という気持ちになってしまいます。
仕方がないのかも知れませんね。それが私たち一般市民というものなのかも知れないです。私が憤ったって仕方がないけれど、今日の朝はそのことで体が重たくて仕方ないのでした。
あ、もう一つの病が発症してきた。
書き終えてしまうと、とたんにどうでも良くなって、人への公開を躊躇ってしまう病。でも今日は垂れ流すって決めたんですよ。
あの子が悩んでいる話を聞いて、私は何も答えられなかった。
いつだってそう、誰かの為になることを答えられたことなんてないんです。
でもちょっとだけ分かる気がするから、適当なことを答えたくなかったというのもあるんです。そして言いたかったんです、
「あなたのことをとやかく言う人や 決めつける人や 理解者のフリをして自分の手中に収めたいだけのやつもいるだろう。本当の善意さえも、あなたを傷つけることもあるだろう。だけど私はあなたを美しいと思う。こうだ、と決めつけるわけでなく、何か見返りを求めるわけでもなくて、ただただ事実として 美しいと思ったよ」と言いたかった。恥ずかしくてそんなこと言えないのだけど。
そのままで居て欲しい、なんて身勝手だ。本人は抜け出したくてもがいている。だけど少なくとも他人であって少しだけ近い私が思うのは、やっぱりそのままでいいんだよ、ということなのでした。
ああ。
上と下の話は、繋がっていないようで繋がっています。
人のことを気にして気にして気にして疲れたら、自分に戻りたい。没頭したいんですやっぱり。さようなら、だけどあなたの言葉はいつでも、私の宝物です。
誰も居ない
傷ついた、となんだか思った。とたんに何もかもがつまらなく思えた。
居心地の悪い空間。それでもそこは誰かにとっては素晴らしいものならば、私が関わらずにそっと立ち去ればいいだけの話。いやいや、この中でも、どんな中でも堂々と振る舞えるような強さが欲しいの、だなんて、欲張りな話かしら。
歴史あるものにも、皆が誉めたたえるものにも、私は今「何がそんなに良いのかしら」と冷たい気持ちになる。
歴史あるものは長い時間をかけても廃れなかったものなんだから確かな価値のあるものだし、皆が誉めたたえるものも、ちっぽけな自分に比べたらそれは勿論確かに良いものなんだろうなあと分かっている。でもそれでも今の私の心には何も響かない。
それは、私が変わればいいだけの話だ(向上心)、などと、それを私が受け入れるだけに器を広げられればいいのだ、と、思うことに疲れた。
私が今思うことは、まったく新しい気持ちなのです。
まったく新しい気だるさで、まったく新しい気恥ずかしさ。
歴史上の誰かともこの世に生きる誰かともまったく違うわ。
だから説明しようとなんてしないでくれ、ましてや説得だなんて。
そういうつもりで、そういうつもりで、今まで何度となく繰り返されてきたであろう試みで私は自分を守る。
二度とその場所には戻らない。
言い訳が長いだけなのです。
でも、私が私を守らなかったら、一体誰が守ってくれるのでしょう。
そしてこんなこと書いておきながら、女の強さは、「なんのことだったっけ」と数日後に思うであろう冷静な自分に、今の時点でもちょっと気が付いていることかも知れません。
過去、5月の出来事
相変わらずカッコつかないな。
今度こそ人生大逆転、超かっこいい自分になれると思っても、そんな期待はだいたい実現せずに終わる。
「地道に一歩ずつ行きなさい」ということなんだろうなあ、と思う。人の力を飛び道具にせず、一つ一つ、自分の手で掴み取りなさい、と。そういうことか?なんだか私の人生、いつも『大きすぎる期待』をすると、必ずあとにそれを打ち消すような出来事があるから、一歩ずつ地道に積み重ねたことの結果以外は認めないよ、調子に乗っちゃダメよ、と言われてる気がする。
ただそんなことを一体誰に言われているのか、と思う。
天か、神様か。人生か、運命にか。それとも自分が無意識のうちに『自分の力で一歩ずつ行きたいんです』と心の奥の奥の奥の方で思っているから、十段飛ばし位で進もうとすると転ぶようになってるのか、そういう風になっているのか。
見方を変えれば、「悔しい」と思っていることさえ、かけがえのないものなのかも知れない。悔しいと思えることさえ、悔しいと思う出来事が起こる自分の状況さえ。
それは、なんとなくわかってはいるけれど、やっぱり悔しいこともあるのでした。
そしてそのことについて「ナニクソチクショウ」と思えば思うほどに、ああ、やっぱり私は私でしかないのかと思うのでした。
めんどうくさい人
夢が叶ったら、次の瞬間に死んでもいいか?と聞かれたら、良いよ、と言いつつもやっぱり生きるんだろうな、と思う。
だからいつでも、満足なんてしてんじゃねえ、って言うあなたの顔が浮かぶ。
休日に祖母とお金の話をした。祖父母が亡くなったあとの、遺産がどうのこうの。
私は、お金は最低限あればいいと思っている。ないと困るけど、お金のためだけに暮らしたくはないと思っている。読んだ本とか音楽とか、いろんなものの影響で、自分だけで富を溜めこむことは世界の循環を止め、自分も停滞させることになる、と考えているから。
だけどそれは、私が『恵まれている』から考えられたことなのかも知れない、とも思う。
東京にいる本物のお金持ちとは比べ物にはならないけど、それでも埼玉でそれなりに何不自由なく暮らしてきた自分だから、”そんなに深刻に考えずに居られたから”そう思えることかも知れないと。
自分自身のことには。性格とか、性質とか容姿とか。
足りないことばかり目について、足りていることは見落としてしまう。
与えられた環境においても。
足りないものには気が付くけど、足りてることには気が付きにくいのかも知れない。
だから近しい人でさえ、金銭的に苦労してきた人の前では、「お金なんて重要じゃないよ」とは言えない。その人の意志を決めるのが『経験』だけではなかったとしても。たとえば『人生でお金が最も大事だよ』という人がいたとして、苦労してきたからという理由だけでなく、元々のその人の性質もあるかも知れない。でもそれは本当のところは分からない。
だからこそ『恵まれてきた』私に出来ることは、そんな人達に遠慮して自分が思うことに対して口を閉じるのではなく、自分の環境を充分に自覚したうえで、それでも思うことはきちんと言葉にすることだという気がしている。
何もお金に限ったことではなくて、たとえば自分とまったく違う考えの人に対して。 犯罪を犯した人に対して。普通の人に対して。
生きていく上で関わった人達すべてに対して。すべての人どころか、たった一人にすらなり替わることはできないのだけど、だとしたら自分も「誰もなり替わることができない」一人の自分なのだと。
良いことが言いたいわけじゃなく、ゴチャゴチャしてきた。
最近ずっと頭の中が熱い。うーん。
冒頭に戻る。
何か嬉しいことがあって、私はある意味ではもう夢を叶えてしまっている。
それでもなぜか、ここで終わってしまったら その夢も縮んでしまうような感覚がある。夢と便宜上呼んでいるけど、それは私が本当に望むものは、腐らずそこに居続ける事なのだから、何か達成しました!だからおわり!というものではないからだと、思う次第です。
※すみません文章の意味がよくわからないところがあったので一部修正しました。5/26
分かったフリ
1ヵ月前の自分が考えていたことが、ずいぶん幼くみえる。
別に「どんどん成長しています!」っていうわけでもないんだろうけど、グルグルと変化しているんだろう。
たまに『暗い』『根暗』だと言われることがあるけど(歌詞や歌の表現がダークに感じるのかも知れない/そもそもこのブログがいけないのかも知れない)、いいえ暗いとか、明るいとか、そんな風に二元的に分けられるもんでもなくて、私はいつでも真剣なのよ、深刻なわけじゃなくて、真剣なのよとただ言いたい。それを、暗いと言われるのかしら?
あ
もう、上に書いた言葉から自分が変化している。
私は思い込みと偏見で生きているのかも知れない。
街を歩いて目についたもの、インターネットの中で見つけた言葉など。
「これはこうだな」「この人は○○っぽいな」とりあえずそう決めて、また次へ行く、「これはきっとこういうことだな」・・・
だって、「これはどうしてこうなんだろう?」「この人は一見○○にみえるけど、本当のところはどうなんだろう?」なんて、いちいち考えてたら、キリないでしょ。
自分でどこかで判断して、そういうことにしないと、やっていけない。
だけどときどき思うのよ、もしかしたら「これはこうだな」って思う「こう」がまったく間違っていたらどうしようって。別に、何も害はないものだったら問題ないじゃない、美味しい林檎を青森産だって決めつけてたけど本当は長野県産だったとしても、それはそんなに重大じゃないじゃない。でも微量の毒入り林檎を身体にいいと思って、または何も考えずに食べ続けていたとしたら、どうなるの。
また、林檎だと思っていたものが、実は林檎じゃなかったら、そのときはどう?
これは別に食物どうこうっていう話ではなくてね、林檎は私の思考なのよ。
だから思い込みで生きる私も時々は考えるのよ。「これは本当にそうなのかな、大丈夫かな」って。自分の考えを更新させて、変化させていくのよ。
*
企画ライブ、そして初めてのフェス参加、JAMFESが終わって、思い返せば半月たらずで感動的な瞬間がいくつもあった。
企画ライブは「今までで一番良いライブだった」と何人かに言ってもらえ、そこまでか!♪と有頂天になりながら当日の動画をみたら、走りっぱなしでとても完璧とは言えなかった。もちろん動画では伝わらない、場の雰囲気などはあったのだろうけど。
そんな簡単に、満足にさせてなんかもらえないわけだね、フフ、と、自分への悔しさはいつまでも消えず、ただ出会った人達だけは間違いなく暖かかったと、そのぬくもりだけはしっかりと受け止める。
ジャムフェスもそう。どんなにもがいても、自分から抜け出せない。本当は自分なんて捨ててしまいたい。自分を見て欲しいなんて、究極を言うとそんなことよりも、あなたがただ幸せならばいいよと。なのになぜ、「自分は、自分は」と思ってしまうんだろう。
そんな私すら「もがいている姿を見てたよ」と肯定してくれる人がいること。
本当はあなたが苦しみなく幸せなら 私は必死になって下手くそな音楽やる必要もないと思っている、だから多分歌うのは誰かのためなんだけど、結局そのことによって自分が誰かの優しさに直に触れることができる。
そういう意味では自分と他人は、違うようでいて同じものかも知れないと思う。他人だけど自分、自分だけど他人、またグルグル回る。
この前免許を更新しに行ったときに。
最近は本当に、ほぼ自分の好きな場所、好きな人達の近くにしか行かなくなったために、良くも悪くも心が開きっぱなしになってるのですが、
その日は教官が、
「私の授業を聞かない人は今すぐ退出してください。(スティック?のような長い棒で黒板のカツンカツン叩きながら)そこの女性。今下を見ていましたね?(教科書みてた)僕の方を見ないなら出てってもらって結構です。はい、君は回答してくれてありがとう。近頃はお礼を言える若者が少ない。」
的なしゃべり方を2時間ずっとしている人で、「わあああ、そうだ、そうだよね、今の私の周りにいないだけで、こういう人も存在してるんだよね。うわああ。どうしよう、どうしよう」とものすごく戸惑った。
『生きてさえいればいい』『適当でも楽しくいこうぜ!』ってことが間違ってるなんて思わない、でもぬるま湯に浸かっていたつもりもないのだけど、それと真逆の「そんなこといいから教科書の7ページを見ろ、見ないやつは不合格」というような、なんというか圧力のようなものに対して、ずいぶん弱くなったなとしばらくボーっとしてしまった。
なんでこんなにエラそうなんだよ、本当に出ていってやろうか、という刺激されて荒ぶった気持ちをゆっくり頭の中を整理して、これは自動車教習なので、運転は人の命に関わることだから、厳しくやっているのだな。とか、この人にとってはこの仕事が生きがいなのだろうな、とか、考えて気持ちを落ち着かせたのだった。
偉そうに言えることは何もないけど、私は私を保つために何かを思い込もうとしている。だってそうしなきゃどうしようもないじゃない。現に今だって、考えてグルグルし始めちゃったら、気持ち悪くなってきたし。
だったらその「思い込み」を少しでも良い方にしたい。特に害はないのなら「あいつはいい奴」と思っていたい、あいつが悪い奴だったとしてもね。
いつも自分が知らなかっただけで、当たり前に存在していた世界にビックリする。
私は私で、こういう風に過ごすのが当たり前になっているのだけど、全然違う人たちもいっぱいいるのか、と当たり前のことに驚く。同じ日本でもね、私のSNSのタイムラインが『声をあげよう!』『格差をなくそう!』と言っていて、世界が変わってるかもと思っても、そんな声はまったくない、聴こえない世界に生きてる人だってたくさんいるんだろう。むしろその方が多いだろう。同じSNSでも可愛い女の子のことや、何か私の知らないもので埋め尽くされている人や、そもそもおばあちゃんみたいに そんな画面はまったく見ていない人もいる。
当たり前だけどね、わかってるけどね、どうも自分の世界は自分からしか見えていないかったみたい。それが仕方ないのなら、思い込みからの自分の仕草を、行動を、少しでも良い方に。少しでも。自分にとって、じゃない。自分にとって都合よくじゃない。あなたにとって、そして私にとっても。それが全然違う世界に生きてる誰かへできる唯一のことだ。
ちなみに私はペーパードライバーです、助手席が好き・・・
妙齢、春の暁にご喚弾
あれっ
「言いたいことがいっぱいある、さあ書くぞ」と思って文字を打とうとした瞬間に、頭の中から全部消えた。
進むべき道はハッキリしているのに、自信がなくて、まだ「合ってるの?」って誰かに確認したい状態のまま、かろうじて歩いてきた。
嫌な奴に出会った、とてつもなく良い人にも出会った。
私は、ただ「とてつもなく良い」方、そちらだけを見続ければ良い。人間は近くにいるもの、見ているものに勝手に影響されると思う。それならば、私もとてつもなく良いものに出会えたことだけを、見ていれば良いのだと思う。
わかっているのに、「嫌な奴」の方に、”なんでわからないんだよ”とか、”いつか見返してやる”と思ってしまう。"認められなかった"とどこかで思ってしまうこと自体、自ら「嫌なもの」を体に少し取り入れてしまっているみたいになる。
誤解される書き方をしてしまったけど、「嫌なもの」とは、自分にとって嫌だというだけで、他の誰かからしたらかけがえのないものかも知れない。
誰だって 自分が自分の物語の主人公だなんて、恐ろしいと思わないか。と東京ディスティニーランドさんが言っていたけれど、私が嫌だと思っているアイツだって、自分の物語を生きているに過ぎない。さすがの私にだって口だけだろ!と分かるお世辞を人に言って周りながら、「自分サイコー」って思っているかも。
その、自分にとっては「嫌な」物語でザコキャラクターにされたからといって、なんだというんだ。そんなの取るに足らないことだよ。
「とてつもなく良い」物語を生きてる人をみながら、「とてつもなく良い」と思う自分を生きるしかないじゃないか。
私はいつでもブレブレ。ブレてブレてブレまくる。それが悔しい。いつだって、迷わずに居れたらと思う。悩んでブレてそれがいつか何かに繋がるよって言ったって、いいかげん、迷わないようになりたいのだ。
* * *
ある飲み会でミュージシャンと話したときに、「お前はすぐに人を持ち上げる癖があるんだよ」と指摘された。なんだかヅケヅケといろいろ言われた。
でも、出会ってすぐなのに本質を見透かされた気持ちと、こっちの気も知らないでこのやろー、という気持ちが一気にブワーと押し寄せてきた。だけどその人は、確かに言い方はヅケヅケでも、嘘をつきたくないのだ、ということがわかった。
向こうは酔っぱらって「言いすぎちゃったな」という雰囲気だし私は「その通りだよバカヤロー、でも私には私が考えてきたことがあるんだから一概に否定すんなよ!」という感じで場は混沌とするし、感情をゴチャゴチャにされつつも、悔しさも怒りもなんだかとても素直に湧いてきたような心持ちになった。
でもなんだか全てこれでいいんだなと思った。もしかしたら相手は変な女を相手にしちまった、と思ってるかも知れなくても、私は、(笑) 何も嘘つくこともなく、無理することもない言葉を口に出来たことで、なんだか閉まってた心の扉的なものが開いた気がした。
『これ、嬉しいでしょう?』『哀しいでしょう?』と誰かに押し付けられて感じるのではなく、『こうしなきゃ、ああ言わなきゃ』という意志でもなく、自分の内側から勝手に湧いてきたような感情を言葉にしていた。
相手はまだ若いけど栄光と賞賛を手にしたであろう人だった。きっと、「凄いですね」なんていう言葉は言われ飽きていて、でも、自分がまだまだ(世間では成功したように見えても、より自分の中に目指すものがあるという意味で)未熟ということを自覚していて、きっとお世辞なんかじゃない、言葉だけの上っ面のことなんじゃない、『本当のこと』が聞きたい人なんだと思った。
友川カズキさんと話したときも、同じ感じがした。見え透いたお世辞なんか言おうものなら、「お前は射殺だ」と言われた。
そうなんだよ、お茶の間レベルで超有名人とかは事情がまた別かも知れないけど、それ以外、良いミュージシャンであればあるほど、正直で、誰に対してでも本当の意味で対等で、優しいんだよ。斉藤調べ。でもこれは本当だよ!中途半端なやつの方が、とっても上から目線でエラそうなんだよ。上手いかも知れないけどお前に心は揺さぶられねーわ!ってやつの方がね!
その人の前では、嘘がつけない、すぐに見破られ、薄っぺらい上辺だけの褒め言葉は正体を暴かれ、本当の自分の真ん中にある心でしか、話しができなくなる。
そして普段そこを閉じていると、案外開くのは難しくて、出てくる言葉がなくなる。
もうすっかり閉じきって、自分でも分からなくなってしまうところだった。
だって、私結構、心を開いてる方だと思ってたけど、人から見れば全然開いていなかった。嫌われたり何か思われるのが怖くて、まったく閉ざしてたことに、やっと気が付いた。本当に自分じゃわからないんだよ、驚くほどに。
『自分の気持ちに素直に!』なんて言葉は、言われすぎて、形だけになっている。でもその本当の意味を実践することは、本当はとても難しい。
でも、そうありたい、と望んだら、すでにそうである人が、ちょっと強引にでも凝り固まったものをこじ開けてくれるのかも知れない。そこに最初に必要なのは自分の意識で、そのあと必要なのが「素敵な人たち」かも。
だから私は「とてつもなく素敵な人」たちを見る、ブレる心はいろんなものに捕らわれそうになってしまうけど、そっちを見るようになるべくする!
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告知をします!宣伝だ宣伝だ!!
4/23(土) 新宿dues
優雅灯×斎藤めい企画 『妙齢、春の暁にご喚弾』
OPEN 17:50 / START18:00 予約¥2,000 当日¥2,500円 +D代
共演:優雅灯 / 高橋ルミ子 / 吉美四季(シキソクゼクウ) / 丸橋ミケ(黒猫財閥、艶街)
優雅灯というバンドとの共同企画ライブです。
優雅灯のボーカル、空詩(からし)お姉さんは、ブレない人です。だから私はからし姉さんみたいになりたかった。とすら思います。是非、来てください。
私が誘った高橋ルミ子ちゃんも、低音の効いたすごく良い声で唄うんです。
ぜひ来てください。
5/20(日) 高円寺喜楽
【日常IGNITION vol.3】
OPEN 19:00 START 19:30 当日/前売り¥1000
出演:オーノ アキコ(60'whales) / 林 明日香(water closet) /トンカツ(二宮友和ex.eastern youth) / 工藤テッキン(ex.HUSKING BEE)
DJ ポール シモノン
テッキンさんとかトンカツさんはまさに、『とてつもなく素敵な』人です。
オーノさんと林さんは本番で初めて聴くのだけれど、悦士さんいわく「ドギモ抜かれる」お姉さま方です。
ご予約はこちらまで。monbiri_4@yahoo.co.jp
*冒頭の飲み会で、私がヅケヅケ言われている横から、また別のミュージシャンが「その心の扉あけてみてえなあ~!!」と笑いながら言って、場の空気が一気に許されたのを感じた。言い過ぎな相手と、泣いてるめんどくさい私も、このままで良いんだと、それで許されてる感じがした。人には役割があり、説教する人も、説教受ける人も、なごます人も、それはそれで、『自分』というものに素直に向き合って自然に振る舞った結果ならオーライ、ということなのかも知れないと思った。
長くなりましたが、今日は以上です。