「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

上手にやれてる?

私、すべてのことはバランスだと思ってるんです。

感情も、食べ物も、人間関係も政治も話し方もオシャレも生活も、何もかも。

 

久しぶりに。

仕事中に、ふと上司に「ここ間違ってるよ」と言われた。上司は良い人で、ただ指摘した、という様子。すぐ直せば特に支障はないけれど、普通だったら間違えないところで、

私はちょっとボケていたのだなと、「あっすみません!」と訂正して、特に何もなく、終わった。

そんな小さな出来事で、一瞬で脳みそ・思考の中に『私なんでこんなことで間違えたんだろう、どうして普通の人みたく上手くやれないんだろう』という自罰的な感情が一気に巡った。苦しくて、涙すら出そうになった。

そんなとき別の上司に、「会議行ってきます、寝そうだわ」と声をかけられたことで、なんだか救われ、笑顔で「いってらっしゃい」と言うことができて、その後は平穏に過ごすことができた。

 

さすがの私もこのくらいは大丈夫、でも、もし一番悪いときの私、弱っている時、もしくは自分なんてダメだ!とマックスで思っているときの私だったら、

そのまま泣いてトイレに籠って出てこなかったかも知れないという可能性もある。

 

 

『そんなことで!』と思うか。

そう、私が体験したことは、ほんのささいなことだと思う。そして今の私は、元からの自罰的に考えてしまう癖が、わりと楽観的に考えられるようにもなってきて、「こんなささいなことで、自分、弱!笑」と笑えるようにもなっているし、人に見せないことで、誰にも迷惑かけず惑わすことなく、一人で完結することができる。我慢をすれば迷惑をかけないですむでしょう、と。実際、このくらいならいくら弱弱な私でも、我慢できる。

 

でも、もしも。

指摘した上司がめちゃめちゃ怖い人で、怒鳴ったり、すごく嫌味な言い方をされたとしたら。

自分が犯したのが些細ではなく、取り返しのつかないようなミスだったとしたら。

会社がブラックで、ミスしたときに給料が減らされる仕組みだった、とかだったりしたら。

職場の雰囲気がギスギスしていて、少しのミスも許されない、白い目で見られてしまう環境だったとしたら。

職場はともかく、私生活で、身内が死にそうとか恋人にふられたとか、孤独だとか、耐え難い悲しみがあったとしたら。

私よりももっともっと深く自分を責めてしまう、責任感のすごく強い性格だったとしたら。

もしくはそれ全部当てはまってたとしたら。

同じように『そんなことで』と思われるのだろうか、そしてどこまで当てはまってれば、「それなら仕方がないね」と許されるんだろうか。

そして当然ながら、もし同じ条件でも、人によって感じるか何も感じないかの境界も違うだろうけど、一体どの人は良くてどの人はダメ、とかあるんだろうか。

 

 

感情は、そこにある時点で、許されるとか許されない以前に、良いも悪いも、仕方ないもあるも何もないと思う。

そこにあっていいものだと思う、というか、あるんだから、見えなくても、物理的に、「ペンがあります」と同じだと思う。

 

我慢強すぎて、我慢して我慢して、その”感情”がよくわからないうちに身体を壊したり鬱になる人もいれば、 感情を一切我慢することなく、人に危害をくわえたり、傷つけないまでも迷惑をかける人もいるかも知れない。

それもバランスの問題だと思う。”感情を我慢する” 方に針が振り切れてしまっているか、”我慢しない”に振り切れているか。   

我慢する(_. )しない 我慢する( ._)しない ←メーター

 

 

そしてもし、振り切れがちだったとしても、それが許される”環境”があれば、快適に生きてゆけるかも知れないし、

どっちかに寄っていても、自分の感情と相談して「なんとかやっていけそうだなあ」と思えるところでバランスをとれれば、生きていけるのかも知れない。

バランスをとっている感覚もなしに、自然と自然でいられるのであればそれは おぉ、合ってるね君、ということだしそれは良かったねえとなるのだけど、そんな人ばかりではないことは明白でしょう。

言い始めたら話はいくらでも拡大できてしまう。「これは職場の話だけど、人間全体になるとどうだ」とか「労働環境が~」とか言っていくといくらでも飛躍してしまいそうなので、このくらいに留めておきます。

 

とにかく私は「寝そうだわ」と言った上司の、人間くさいセリフに瞬間救われた。

会議のとき寝ちゃダメ!という圧倒的に正しそうな『常識』はありつつも、人間だから仕方ないよね、と無意識に許されたような感覚に。

 

 

何が言いたいかっていうと。

私は繊細だから 泣いちゃっても人間の自然な感情だし許してね、ってことではなくて、ですね。

 

何を我慢できて何に傷つくかは、人によって全然違う。

全然違うから、いちいち汲んであげないとダメということもないだろう。

でも、もし誰かが崩れ落ちそうになってしまったとき、それは必死にバランスをとろうとしたけれど上手くいかなかった結果であったときには、受け入れることができるようでありたいと思った。

仕方がない、あるじゃなしに、「ペンがあります」と同じ、ここにあるんだよ、どうしようもないじゃん、というものを、受け入れて許すということ。

 

堅苦しい空気は依然としてつづく。

要は「みんな耐えられるラインは全然違うよね」を、一律化して「ここまでは出来て当たり前!出来なかったら失格!」みたいな。なんとなく、分かるでしょう。

私は耐えられなくて逃げた。自分にとって良い環境に、我慢しなくても、むしろ我慢しないほうが受け入れられるような環境に。でも逃げられない人もいるだろう。

それでもね、気付いてる人は確実に増え、受け入れないといけない、と思う人は静かにどこかにいると思う。

もし苦しい環境から逃げなければ、苦しさと上手くいかなさゆえに、自分をくそ野郎だと思い続けていたであろう 私は思います。

 

そんなことを考えながら作った曲です、

『衝動が走り出すんだ』。

・・・たまには曲紹介したっていいじゃないですか、ねえ

 

soundcloud.com

時も土地も 地続きでつづいている

自分が思うことを言ったら、否定されるかも知れない。

それでも、今言わなければ、声を上げなければいけない。

たとえ否定されようとも、今、自分の命(までは大げさかも知れないけれど)を使わなければ、どうするんだ

という気持ちで声を上げる人をとても尊敬する。

それは、もともとそういう性格の人だったか、出来れば言いたくはなかったのだけど どうしても必要にかられて言わざるを得なくなったのかはわからない。それでも、一ミリでも動いたことに意味があるのだ。その一ミリが集まれば、何メートルにも何キロにもなるのだ。

 

すみません。私、ありきたりな話をしていますね。

でも、ありきたりだけど自分のこととなると忘れてしまう。

小学校の頃の教科書に、一人じゃとても勝てそうにないでっかい敵に、一匹ずつ寄せ集まって大きくなって、大きな敵を追い払うグッピーの話が載っていて、読んだ。そんな話はそこら中に転がっているというのに、いざ自分のところに周ってくると「こんな自分ひとりじゃ何もできやしないし」と思ってしまう。

それでもね、『元々はそんなこと、本当は言いたくないんだけど、必要にかられて発言・行動をした』というなら、そのことをただ希望に思うし、自分もその機会を自分のやり方で 一番効果的かつタイミングのいいときにいつか出来はしないかと狙っている。本当は、行動は継続した方がいいのだけど、普段考えてなさそうな人が言うのが効果的なタイミングも、きっとある。

 

こんなこと言いながら、でも、社会的な発言というか、何かこの世の中についての意見をもし言ったら、「あいつは面倒くさい奴だ」と思われるんじゃないか、と内心不安になってしまう。あの人に嫌われるんじゃないかと思ってしまう。

その不安はギリギリまである。でもきっと、我慢できなくなったら、もうこれ以上は黙っていたらダメだと、勝手に溢れてくるときは来るかも知れない。

自分がいつも正しいとは限らないけど、こらえてもこらえても溢れてくるものが間違いということはない。

 

うっすら、ずっと、そう思ってきたけれど、5年前を境に確かにそう思っている。

それは私だけじゃない。

少しずつ『特別意識が高い人』を越えて、普通の私たちにまで浸透し始めている、意識。無駄なものもきっと多いし、わかりやすい悪人は今も昔もずっといるけど、それよりも私たちの中にそっと燃えている炎を消さないよう少しでも空気を入れ続ける。

本日だけは

そこそこ充実した日々を送ってるように思っていたら、「忘れてるぞ、お前」と何か大事なことを思い出す。

忘れているわけじゃないんだ、「待って、今は自分のことで手一杯だから、そのことはちょっと待ってて」と思う、それは間違いじゃない。でも、自分はこんなもんだったっけ、って焦って取り戻そうとする。

 

充実した日々を、着実に過ごせているような気もする。

でも、家族からの電話、友達の報せ、日々どうしようもないものと戦う人達の言葉を、

私は胸に留めないと。それを留めない事には、今やっていることさえ、まったく意味のないこと。

 

充実した、私!なんて思いたいがために、やっているわけじゃない。

重苦しいと言われたとしてもいい、生きている誰かの、切実な思いを私はみつけて形にしたいのだ。重苦しいから苦しいを取って、重くていい、重くていいから美しいものを大事にすることが、多分私の役割だ。

 

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こんなことは考えないようにしよう、と思ってはいても、どうしても慣れた方に考えが流されてしまう。

私はどこかで、「サラリーマンとかふつうに、まっとうに働いている人には、私の歌なんて響かないんだろうな」なんて思ってた。似た者同士にしか通じないでしょうね、と。

でも「心に来るものがありました」と言ってくれた人がいた、スーツ姿仕事帰りのサラリーマン。「俺も何かしなきゃ」と。

何がまっとうで何がまともじゃないかなんて、決められてない、何も区切られてることなんてない。私からしたらピシッとスーツを着て週5日時間守って朝から夜まで働いて、なんて人は、なんてまともなんだろう、私はもう、そうはなれないんだろうな、といつのまにか思ってしまっていたけど、それは環境の違いであって、見えない心の中は渦巻いているのだと、それは人それぞれだし、スーツに包まれているかどうかは関係がない、と。

 

 

考えを変えるのは力がいる、疲れる。今までのやり方で考えて、そのままやってた方がよっぽど楽だけど、私は自分の考えをまず変えたい。

「こういう人は、こうだろう」と勝手に考えてしまっていたことを、「こうかも知れないけど、でも」信じたいんです。

 

信じる、だとか、変える、だとか、闘うとかまっとうだとか、重い言葉は使いたくなくてあえてあまり使わないようにしてたけど、

なんだか今日だけは それを使ってでも、言いたい事があった気がしたので。

 

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ぼやいてるだけ↓

 

悲しい思いをしているであろう友人が居て、でもきっといつかは立ち直っていく強さがあるんだろうな、でもやっぱりそれでも、今は辛いだろうなと思って、「いつでも近くに行きます」と伝えることは出来ても、それ以上は何もできない。でも出来ないからこそ、出来ることがある。今は言葉で元気づけたところで無力、無力。傍には私よりもっと近しい人がいて今は彼女を励ましているだろう。それでもね、今は毎日一緒にいるわけでもない無力無力な私が「実は元気になるようすごく強く思ってましたよ」ってもしもあとで乗り切ったときにちょっとでも伝わったら、それはちょっと生きるのが嬉しくなるように思ってくれるんじゃないか、押し付けがましくなんて決してなりたくはないけど、別に好きでやってることだし趣味です、って感じでね、何も求めなければいいでしょ別に、勝手ですよねと思ってる。誰かの役に立ちたいなんてそんな独りよがりなことは思わない、ただそう思うしそれが別に許されるからやりますと、はい、やっぱり重いのかしら私?いいや軽いですよ綿毛並みですよ、とひたすら頭の中でグルグルグルグル思っている。多分寝不足のせい。

濁り

書いては消しーので、10件くらい下書きフォルダに入ったままの書きかけ文章があるけれど、今日のこそは公開する、と宣言。

 

「どんなことでも否定から入らず、嫌いになるなら肯定してから嫌いになる」、

そうしないと本当にそれがどんなものなのかわからない、物事にはいろんな面から見る余地があるんだから、見逃してしまわないために……とかいつも言っているんだけど、

当然、『嫌だコレ!』と反射的に思ってしまうことはある、当たり前に。

その場合、あとからその理由をよく考えるのだけど、間違ってないなと実感できたとき、反射神経に従ってOKだな、とも思う。

 

その違和感は、言葉のキツイ優しい具合はどうあれ、「自分が正しい。この言葉に従っておけ」というニュアンスが感じとれる誰かのセリフの中に感じることが多いことに気が付いた。

そんなことを言われたって、その人自身のようになりたい、その人に憧れる、という境地じゃない限りは、誠に恐れ多くも正直言うと、「その人自身も未熟な中から発している言葉」というように感じてしまう。平たく言うと「あなたに見れてない面があって、私にしか見れてないまた別の面もあって、それをまったく考慮しないで言っているでしょ」ということがあるということ。

 

誤解されたくないのが、何か厳しいことを言ってくれる人が嫌なわけじゃない。

だいたいの人は誰かの(私の)為に指摘をしてくれ、そしてそれは取り入れる取り入れないに関わらず、自分にとって必要なことだ。だから上に書いたようなことをいつも言っている。ズバッと的確に「こうすれば」と言われ、すんなり胸に刺さって、以後それを続けて、当たり前に身になってる、なんてことだってある。

こんな不束者に時間と労力を割いて頂けることに、大いなる感謝をしたいくらい。

 

でも中には、そんな風に、「なるべく全てを取り入れたい」と思っていたとしても、

「耳を塞ぎたい今」とか、「もうわかったから」と思ってしまうようなことが確かにあって、その感覚は後から考えるとわりと正しいことが多い、ということ。

それは、やっぱり「私への言葉」というよりも、その人自身の事情が見え隠れし、ちょっとした押しつけのようなものを感じてしまう時だと思う。

 

「自分みたいにやれば成功する」と言われ、『でも特にあの人みたいになりたいわけじゃないなあ』と思ってしまったこと。

人間としては、悪い人ではない嫌いではない人だけど、「僕みたいな成功がゴールだからマネしろ」と言われても、私はそれは違う、と言いたくなってしまう。その人は金銭面で、生活面で確かに成功をしていて、それは確かに尊敬すべきところで取り入れた方が良い意見もあるのだけど、私はその人の生活がゴールなんかじゃない、良い車に乗ったら満足できるわけなんかじゃなかった。

 

また違う人に、「あんな界隈で満足してちゃダメだ」と言われた。

もちろん、内輪ノリで完結することは、ただの生活の上(仲間との飲み会とか)だったらそれで充分といえど少しでも何か 自主的に活動をする活動(芸術活動 音楽とか)をするのなら、確かにそれだけじゃダメだと、そもそも私も内輪だけの賑わしが大の苦手だし、その通りだとは思う。

でもその「あんな界隈」のあなたは何を知っているのか、とも思う。もしかしたらあなたには分からない、深さや鮮やかさを帯びた環境かもしれないじゃない。いやそうじゃないとしても、「そこにいる一人一人」までもを否定はできないはず、そこにいる人間の仄暗くて美しくて切実でどうしようもない深さを私は見たことがあるよ、と言いたい。

そもそも上から目線で「あいつらダメだ」って言われたって、下から目線で「あいつら偉そうだなあ」と返されてしまうよ、界隈なんて、気付かないだけで自分も『自分は成功者だと思ってる界隈』にいるのかも知れないのだから。そこは心地よいですか?と。

 

誰のことも見下せない。

 

話は変わるようで自分の中では繋がってますが、

今まで自分はあまり積極的に「ライブに来て!」とお客さんに声かけたり、「一緒にこうしていこうよ」と仲間に伝えることができなかった。

「皆忙しいから」「自分の人生があるから」と思ってたし、変に自分に関わって、無駄な時間だと思われてしまうのが怖かったから。

でも人っていっぱいいるんだよな。時間のことはともかく人それぞれとして。

なんとかフェスとか、200人のつもりがお客さんが1万人集まっちゃいましたとか聞いたりするし、

いつもの通勤電車の中にだって、人はいっぱいいる。

もちろん、何かをする、来てもらう、ということは忙しい中時間と労力を使うことに変わりはないんだけど、

楽しいことには人は居る、楽しいのかその人にしかわかんないことでも、いるところには人はいる。

 

だから、不特定多数に呼びかける事は、怖いけど、でも、まだまだ出会えていない人が山ほどいるんだったら、ショボイ憂いは捨てて、勇気というもんをちょっくら出して、

大衆・大勢の中から、誰かいませんかー、この中に、と誰か一人に呼びかけていくのを止めてはいけないのだなと思う。

 

そう人のことばかり気にしすぎる自分も、自分というものの核を、なるべく決めていって、見ている人も自分でさえも安心できるくらいには動かないようにして、続けていくこと。

人のことばかり気にしすぎた。

自分の時間に戻らなくては。

豆をまけ

本当にみんな素晴らしいなあ、と思うのは、私が素晴らしいと思うものしか出会っていないだろうか。

何か見落としているものがあるのじゃないかと疑ってしまう。

 

だけどね、素晴らしい!と思ったからと言って、何かが出来るわけじゃない。「あなた素晴らしいですね」とそっと伝えて、その後は花束を贈るわけでも、ずっと追いかけるわけにもいかず、いつもの場所に戻って、自分のことに邁進するしかないんです。

だからといってそれが嘘な訳ではないし、言ったことはすべてお世辞ではないよ、って言うことを伝えるために自分は動いてるんじゃないかなあと思うわけです。

たくさん出会いたいけど留まりたくはない、欲が強いのかも知れないです。

 

*

 

近頃「こんな自分なんて」と言うのがむしろ失礼だ、と思えることが増えた、おこがましくも。

何かしら声をかけてくれる人がいるからだ。

全てにきちんとお礼して、感謝の気持ちを形にすることはできないけど、

今までに一番辛かったことは「自分なんて価値がない」「自分は何にも出来ない」と思っていたことだったから、今は前ほど、辛いことは少なくなった。

 

でも今、本当に大事なことは「私は価値がある人間かも知れない!」と思うよりも「ありがとう、ではやり続けます」と、ひたすら没頭をすることなので、それがいつかどこかで巡って恩返し(という表現はちょっと大げさだけど、そんなようなもの)になると信じます。

挫けるときは挫ける。そしたら豆をまくんだ!豆を!

 

そして「自分を出し切れてない」と言われ、そうかも、と思う。

ステージの上で熱唱しているのに?そう、うん、まだまだ、だと思う。

叫んで暴れて、でもそれだけじゃ出し切れないものがある。これでもまだまだ良い子でいたくて隠してるとこがきっとあるんだよな。もうちょっと曝け出したいな。もうちょっと。

投げ飛ばす

何度も文章を書いては、公開できないでいました。

「なんだか思ってることと、違うように伝わってしまう」と思ったからでした。

どこかで聞いたような、とってつけたような、言葉ではなく、自分が感じたことから出てくる本心みたいなものだけ、書きたかったのでした。誰も自分にそこまで求めていないのかも知れなくても、どうせ嘘をつくと後から辛くなるので、自分のためにそうしたかったのでした。

 

それから、『否定的な言葉』というものに対して、ずいぶん辛いと思うようになってしまったからでした。

いろんな人と話して聞いた言葉、普段ネットなんかで目にする言葉。すべてが「見方を変えてみれば、正しいよね」ということばかりでした。

「あれがダメ これもダメ」という否定的な言葉や、ものでさえ、ある角度から見れば間違っているということは一つもない(ある角度から見ると正しい)はずなのだけど、なぜか気持ちが苦しく、そういう『正しいはずだけど、心を苦しくする言葉』との折り合いをどうしたらいいのか、ぼんやり考えていました。

 

だから私が出来ることは結局一つなのかも知れません。

『すべてを肯定すること』です。

 

否定することなんか、簡単なんです。

 

うわべだけならいくらでも、情報を知ることも、それを理解できたように振る舞うことも、発信することも出来てしまう現在のところにおいて、否定をすることは簡単です。

 

あまり深く考えずはせずに、手に入れた情報に対して、「こう思う、こう思う」と判断をつけていく反射神経が、必要なときもあるでしょう。

だけど物事には必ず表面のほかに、表と裏、深さと距離、時間列、人間の心と、四次元どころかもっともっといろんなものを包括している場合がほとんどです。

反射的に、こう思う、と決めつけてしまうことや、否定するということは、そのいろんな側面をナシにしてしまうことかも知れないです。

 

本当にあることについて考えて、わかるようにするには、まず肯定をしないと、その先にいけない気がするんです。肯定した上で、「自分は好きでない」「それでも間違ってる」と思うことは良いんです。矛盾するようだけど。とにかく一度は肯定し、そのことについて考えてみたいんです。

もう否定するのもされるのも、疲れてしまったら、肯定できるのことの方が価値があると思うんです。でも別に全てを受け入れろっていうわけではなく、一旦受け取って、考えてみるということです。

 

そうは言っても、「こんなのどこがいいの」「うわあ嫌い」とすぐ反射的に、思ってはしまうんだけど、

完璧なんてなく、完璧な人はいなく、「ある目線からみれば」すべての人やものは批判できてしまう面を含んでいる(私の大好きなものさえ)ならば、

嫌いなものは嫌い、と思ってはしまいつつも、『仕方ないな ちょっと知ってみるか』という程度に受入れ、まったく好きでないままでいいから『こういうことだから、こうなったかもね』と受け入れること。

存在を受け入れ、肯定すること。言葉がぐるぐるしてきましたが、だからこそ、そうしていきたいです。

何よりもそれは、自分を肯定し、存在していいと思うことにも繋がるからです。余裕があるうちに、出来るならそうしていきたい。

 

否定よりも肯定することの方がかっこいい時代が来てるんです。と言っておく。

 

 

渋谷ソラハウス行き方

2015/12/13
クワタ、斉藤2マン~特別ゲスト笹口騒音ハーモニカ~へようこそ!
会場は東京の『渋谷ソラハウス』というところですが、ライブハウスではありません。
おそらく初めて来る方が多いのと、
駅から10~15分歩くのと、
スマホの地図だと迷う可能性があるため、念のため詳しく道順を載せておきます。

と言っても写真が暗くてわかりづらい、申し訳ないです。


渋谷ソラハウス
http://sorahouse.net/#id64

渋谷駅か原宿駅から徒歩10~15分

◎代々木体育館方面です
◎『渋谷アイアシアター』目の前の「三船ビル」というビルの8階にあるイベントスペースです


【渋谷駅から】徒歩10~15分

ハチ公口に出ます

スクランブル交差点を渡り、
公園通り(TSUTAYAと109mensの間の道)を原宿方面にずっ~とまっすぐ行きます

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右手にZARAOIOITOWER RECORDSが見えます、まだまっすぐ

カーブ(左手にカラオケシダックス)は道なりに、線路の高架下はくぐらずに!進む

◎左手にスタバ、ファミマ

渋谷消防署を左に曲がり、坂を登っていく

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◎左にPanasonicのビル、右にjournalstandard

坂を登りきると、三つに分かれた道が。
そこを右に曲がる


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ここを右に!

つきあたり右側にあるビルが『三船ビル』(小さく書いてあります!!)なので、エレベーターで8階へどうぞ!

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このビルです!

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入り口に、クリスマスツリーが飾ってある

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エレベーターへ!


原宿駅方面から】

原宿駅表参道口を出てそのまままっすぐ進むと右側に じんぐう橋 があるので、渡る

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大きな歩道橋があるので登る。
線路沿いを渋谷駅方面に
ずっーとまっすぐ進む

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線路沿いを、ひたすらまっすぐ


岸記念体育館前の信号もずっとまっすぐ

渋谷消防署が右手にみえたら手前を右折
坂を登る


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上りきったら3つに分かれた道があるので右折!

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ここを右に

突き当たり右のビルが「三船ビル」(小さくかいてあります)


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このビル!


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エレベーターで8階にどうぞ



気を付けてきてください◎
オープンは17時、
スタートは17時30分です。

クワタハルカ@harukakuwata kuwataharukaruha@gmail.com
斉藤めいtwitter@monbiri monbiri_4@yahoo.co.jp