「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

溢れ出してくるのを待っている

溢れ出してくるのを待っている。

 

私は今、ライブをする以外には普通の生活をしていて、普通に過ごしていて、

曲ができないと、自分が停滞しているように感じたり、

前の仕事をクビになったときに大口叩いたわりには、結局は仕事をしないと暮らしていけないことに気が付いて、今ふつうに世間から”なるべく浮かないように”仕事をしていたりする。

などなど、特別でありたいのであろう自分と、実際の凡人の自分を比べては「私このままじゃダメなのかな」、「もっと何か行動をしないといけないのかな」と思い、焦り、どうしたら今を抜け出せるのかと途方にくれる。

 

でも私は本当に心から求めることを我慢していた(というか、自分は実現する方法を持たないと思っていた)ときは、「このまま死ぬのだけは絶対に嫌だ」と思っていた。

今は、そうは思わない、どんな瞬間でも訪れるなら訪れろと思う。

一番最初に私は自分を壊そうとした。だから「壊せ、壊せ」と歌ってた。

今はそんなに壊さなくていいんじゃないかと思う。自分を守ったっていいんじゃないかと思う。

 

今だって、くだらないものならばいつでもぶっ壊してしまえばいい、という狂気も持ち合わせていても、大事に積み重ねたものならば壊さなくてもいいんじゃないかと思う。

そしてもし壊すのならば自分のものだ。人を、人との関係を、人の大事なものをきっと壊してはだめだ。

 

毎日毎日生まれ変われ。

明日も大して今日と変わらない日々がたとえ続いても、私たちの心の中の精神だけは更新していくことができる、”脳は100歳まで成長する”。

同じようなところでぐるぐる回ってるように思えたって、それがトルネードだったらだんだん上がっているんでしょう。そう思わせてくれ、本当に良いことは、宝くじのようには訪れない。

それは毎日出会う味気ないように見える景色の中に、誰かの心の中に、自分の中に、何かひとつでも美しいものが見えさえすればいい、

美しいものが見えるかどうかは自分の中にある感性、感性だけが頼りです。

 

それを研ぎ澄ませたあとは、勝手に溢れ出てくるのを待つ、涙のひとかけらのような些細なものでも、研ぎ澄まされたときの自分にとっては宝物のようなものだから。

”思うままに”というのは、そういうことじゃないかと思う。

また会おう

自分を傷つけ痛みつけることからは卒業したい。

何かとてつもなく切ない気持ちになることがある。

 

誰かに必要とされている人をみたとき、自立をした誰かを見たとき、自分は持たないすべてのものを見たときに、頭では、祝福し、尊重し、誇らしくも思う。それはともかくとして自分は自分なので、自分の進むべき道を進み、軌道修正が必要ならば感情的になりすぎずに修正し、ただ歩いたり走ったり休んだりすればいい。ただそれを淡々をしていけばいいだけのことだとわかっている。頭では分かっている。

なのになぜ、心は切ないのか。

そんなときに、『本当は祝福すべきなのに、切ない気持ちになんかなってる私は弱いんだ』とか『未熟なんだ』とか『面倒くさい人間なんだ』とか、いろいろ思っては、「自分はこんなにもダメなんだから傷ついてしまえばいい」と、自分を痛めつけて解決しようとしてしまう。どこにも向けずに自分に向けることが一番簡単だから。

誰かを羨んだり、妬んだりするくらいなら、自分を傷つけた方がマシで、それは別に自己犠牲なんて尊い精神ではなくて、それに慣れてしまったから。それが一番身近な方法だから。

 

だけどもうそろそろそれも止めにしたい。

私は確かにすぐに哀しくなるけれど、だからどうしたと。誰も惑わせない涙なら、流してなんの罪になる。溢れ出した感情に良いも悪いもない。あるとしたら、それをどういう形で、自分と、自分以外の誰かに表現するのかということだけだ。私が止められなく思ってしまう感情に、良いも悪いも存在しない。

 

私は自分が「誰もが、大丈夫よ」と歌っている歌が、今の自分では説得力を持たないのかも知れない、もしかしたら今の自分が誰かを励ますなんて、足らないのかも知れないと思う。へたくそだし。特にギターが。

でもそれでも歌うと決めた。不完全でも、言葉通りに今自分が全然なれていないのだとしても、それは私が私自身に言い聞かせ、まだ行きついていないとしても、その自分で自分を励ます言葉を信じているからなのだと思う。

 

いいかげん、楽にもなりたい。だけど何も感じずに楽になるくらいなら、辛くてもいいから感じていたいのかも知れない、とも思う。なぜでしょうね。

その先にきっと、まったく違う道からやってきて、似たように感じてきたあなたと、ほんの一瞬でも出会えることがあるからでしょうね。また会いましょうね。

 

 

 

追記:あ。せっかくだから新MVみてくださいね

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どうぞ今年も

書くことも歌うことも なんだかなくなってしまったような気がしていて、でも本当は「なくなってなんかいるはずないだろう、ただ単に、頭、というか体が硬くなってるんだろうお前」と思って、

それでも自分を守るためなんだかなんだか、体はずっと硬いまま、どうしても起き上がらないといけないとき以外はベッドの上で過ごしていた。

 

そんなときは、誰かと話すこと。お風呂で身体をあたためること。そしてダメ元でいいよ、瞑想ができる動画とか流しといて、自分と向き合ってみる、というか自分の部屋の中でだけでも無防備に自由になること。そんな基本的なことなのかもしれない。ダメなときは、ダメだけど。

 

狂気さえもどっかいっちゃったの?と思っても、「誰にどう思われるかとか、恐れずにいけ」と許した時には『まだまだあるじゃん』な狂気が出てくる。

脳みそは100歳まで成長するとあの人が言っていた。

きっと私たちは、自分の頭と五感と直感と身体を使い続ける限りは、腐らずにいられるのでしょうね

 

自分に自信がないのは、過去のせいか、とは言っても誰もに話して同情してもらえるようなドラマチックな苦労をした辛い過去なんてものなどない。

ただ私は私の感受性を上手く扱えなかっただけだ、一番身近な存在である家族も、そんなことは分からないし、あの人はあの人自身のことで手一杯だっただろう。

 

まったくもってなんの問題もない。泣きながらでも、すべてはこれからです。

今年もよろしくね

「対自分のこと以外のすべては完璧だった日」というのは、どうしたらいいんでしょう。

 

自分の出来、のようなものについては悔しい思いばかりなんだけど、

出会った人や居た空間や、食べた料理に至るまで残りのすべては幸せだった場合の、自分の心の処理の仕方がわからない。

 

反省してしょんぼりしすぎるのも、浮かれすぎるのもちょっと違う。

どうせ悔しい思いの方は消えないんだから、そっとしといて、出会ったものにだけ思いを向けてとりあえず寝ようか。ときどき、寝てしまうことが唯一の解決になりうる。

 

私なんかまだまだまだまだまだすぎて、なのにそれを振り払うこともできないなんて、

どうかしてる、足りないものはわかっているのに、なぜか取りに行くことができないよ。

とか、いくらでもグチグチ言うことはできるけど、今日はそのことを、似た思いをしている人に話すことができたから、ちょっとスッキリもしている。

 

楽しかった。

私つまんないやつになっていないかしら。

(夜のせいなので)

面白い人っていいなあ。

なんだかおもしろい人を見ていると、私はマジメすぎるんじゃないかとか思う。

 

私だってあんな風に、時流と個性をちょうどいい感じにミックスさせて、

使える道具をすべて使って それでいて簡潔な、

すごいセンスのいい一言をつぶやいてみたい。

 

こんなこと言っている時点でなんだかできそうになくて絶望するわ。

もうあきらめていつも通り 垂れ流しておけばいいか。

垂れ流してでも人目に触れることをちょっと意識して組み立て直しつつ、

深刻でもなんでも なんだか最後はほんのり前を向いてるようであればいいよ。あーいいよいいよ大丈夫だよ。大丈夫って言ってほしいんだよ最後は。

 

私は自分で自分に「大丈夫?」っていつでも思ってて、なんていうか自分を疑うことのプロだから、もう自分で自分のことを何万回も「大丈夫?(大丈夫じゃないだろお前)」って言い続けてきたんだから、そろそろ「大丈夫!」って言ってほしいし自分でも自分に言いたいんですよ。いつでも自分に「大丈夫でしょ」って言えてきた人だったら「大丈夫?」って疑うことで何か発見できたりしてね 時々は大事だとは思うんだけどさ、私の場合はさ、物心ついてから自分に「大丈夫?」としか思ったことなかったから、もう一生分くらい使い切ったから、そろそろ「大丈夫!」しか聞かなくていいと思うんだよね。なんせ自分を疑うことのプロだったからさ、普通に自分に「大丈夫!」と言えてきた人とはちょっと事情が違うと思うんだ、「大丈夫!」しかもう聞きたくないんだ。そこんとこどうぞよろしくね。

 

ああどうでもいい、ほんとどうでもいいよそんなことなんて。

それよりも、こんなブログなのに月間百PVいきましたとかって毎月出てくるけど一体誰が読んでるんですか、なんでこんなブログ読んでるんですかね そこの変わり者のあなた 大好きですよ!!!

夜のせい夜のせい。

いつも遅い私は駆け引きなど知らない

私はいつも遅い。

 

誰かに何かを言われたら

二晩くらい

その言葉を反芻し、飲み込んで解釈し、

やっと理解できるのだ。

 

だからすぐに言い返さなくてはいけないディベートとか討論とかそういうのに、

とっても向かないだろう。

 

気が付くのも遅い。

みんなが当たり前のようにやっていることを

「あ、そうやればよかったのね?」と10年後に気づいたりする。

 

嫌になっちゃうよ。

言われっぱなし、

気が付いたら年をとっていました。

なんてことは、しょっちゅうよ。

嫌になっちゃうよ。

 

それでも、その瞬間に答えたことで

「ああ あんなこと言っちゃったな」と思うことはあっても、

二日かけて考えたことはあんまりそうはならない。

 

気づくのが遅くて気が付いたら年をとっていました、

だけどもう、今からは揺るがない。

 

そのことを誰が責められるっていうのよ。

だからこそあなたに出会えたし。

 

方向さえ間違っていないのなら

遅い私だって許したい、許すのよ

ほんの少し願うなら

祖母が言った。

「歌っていうのは、優しいものなんだから。

 (人を傷つけ、追い詰めるのなら)歌う資格はないのよ」

 

核心をついたような言葉に私は驚いてしまった。

それは、いつも「いつまで歌ってるの?結婚は?」とか言ってくる祖母に、どうせ私の音楽などわからないだろうし、音楽なんてわからないだろうと無意識にどこかで思っていたのだと思う。

でもちゃんと考えを巡らせたら。戦争を、貧しい時代を経験し、身近な人の死や、長く生きてきた分だけの人間同士の軋轢など、様々な経験をしてきた祖母の世代の心を癒してきたのは、歌謡曲だったのだろう。あの、本当の『歌手』がたくさんいたような時代の音楽を、生活の中で骨と肉に染みるほど、聴いてきたのだろう。

聞き手としてであろうが、私なんかよりよっぽど、歌に心が込められているかどうかを敏感に感じ取っているのだ、この世代の人達は。と分かった。私そこまで、想像できていなかった。

 

私は今まで、自分と違うものを「どうせわからないだろう」「わかっていないだろう」と思ってはなかっただろうか。

自分の表現するものが高尚だと信じるプライド、高潔な精神。そういうものは、歌であろうがなんだろうが持っていてしかるべきものだけど、願わくば、それに付けて『他者への優しさ』が、想像力があって欲しいと願ってしまう。

 

それさえ押し付けだ、傲慢だと言われても、私はここで密かに祈っているだけです。

 

また考えすぎたら、友人がふと言った

「頭で考えて作ったものより、心で作ったものの方が、なんだかストンと来るよね」

という言葉を思い出します。