進化している
私がもし、「誰に何を言われようと、自分はいつだって最高だ!と思うことに決めました」と言ったときに、
『本当にそれでいいの?』『人の意見は聞いた方がいいんじゃない?』『そんなんじゃ、もし悪いとこがあっても反省もできず、成長できなくなっちゃうかも知れないよ?』と、もし言われたとして、
確かにそれも一理ある、と思うかも知れない。
だけど、例えば、生まれたときからずっと「自分は最高だから、人の意見は聞きません!」と思ってやってきて、人を傷つけても、何しても構わないと思ってたり、『こうすればもっとよくなるよ』って意見も全部ムシしてきた人がいるとして。
その人が「あれ、自分は今のままじゃダメかも」と気づくときに、上のような『誰かの意見に耳を傾けること』は確かに必要かも知れないんだけど。
じゃあ本当に私にも必要なのかって考えると。
私はこれまで、
中学になった頃から急に過剰に人の目が気になり始め、
自分が、机に座って教科書を開くとか普通の動作をしただけでも後ろの席の人に『なんだアイツ』って思われるんじゃないかとか、誰かが笑っていたら自分の悪口で盛り上がってるんじゃないかと思ったりとか、
〇〇が出来ないなんて自分はなんてクズな人間なんだと思ったりとか、
人に迷惑かけたと思ったら「自分は死んだほうがいい人間なんじゃないか」と思ったり、
友達に悪いことがあったら、全然無関係のことでももしかしたら自分のせいでそうなったのかも知れないと思ったりとか、
亡くなってしまった人に、私が助けられなかったから、心の負担になったから死んでしまったのだと思ったりしていたから、
誰かに何かをちょっと否定されただけでも「ああやっぱり私は存在しない方がいいんだ」と思ってしまったり、していた。
そういう、過剰なまでの負の自意識を、もう嫌っていうほど考えてきたので、勝手にではあれ、なぜか背負いこんでしまってきていたので、人から見たらちょっとした出来事であってもとても辛かった。
だけど、それは妄想(気にしすぎ)であったんだろうと、やっと随分大人になってからようやく気付けたのでして。
世の中にはもっとつらい人もいるかも知れないけど、ごめん私の小さな世界の中では、やっぱり私にとってはそれはとても苦しいことだった。そして私はもう十分に苦しんだと思う。誰かと比べるではなく、ただ事実としてそう思う。
それでやっと取り戻しつつあるのでして。
「いや、私が思うほど、私はダメな奴でも不幸を呼ぶ人間でもなかったぞ」と。
やっと自分を取り戻しつつあるのです。
「私意外に良いところもあるぞ」と。
他人の言葉や、他人を、(必要ないところまで)考えすぎて、苦しんだ自分が、
今「いや、自分は最高なんだから、人のことは気にしない!」と思うのは、
世界と自分をまっとうに(思春期のように偏った見方ではなく)見るための、通過点なのです。
そのあとには多分、「自分は存在していていい人間だ」という、静かな手ごたえを、誰にアピールするでもなく感じることのできる時間が訪れるかもしれない。
A(自分への疑い)→B(自分への自信)→C(その人なりの結論)が、
B(自分への自信)→A(自分への疑い)→C(その人なりの結論)だろうが、
順番はどっちだって、そんなことはどーーでもいいんです。
C(その人なりの結論)に行きつけさえすれば。
だから今までずっと自分に疑いなく生きてきた人への『他人からの意見・忠告』と、
自分のことをずっーと疑ってかかってきて、些細な他人の言葉ですら自分への批判・この世界に存在してはいけない証明のように感じ取って「自分のことは自分自身が一番疑って、傷つけてきたわ!」という人への『他人からの意見・忠告』というのは、
表面上は同じに見えるけど、全然違うものだと思う。
十分傷ついたわ!と思ったら、もう”自ら心から受け入れたいと思う言葉”以外は、無視していいよ。
傲慢だと思いますか。
でも多分(自分なりの結論)に行きつくには、とても勇気が必要だよ。
変われない、変わる前の誰かは「アイツは変わっちまった」「こっちの気持ちなんて、わからなくなってしまったんだ」ってきっと言うだろう。
その気持ちもわかる気がする。私だって言ってた。笑
そのときに「私、やっぱり、自分で自分を疑って苦しんでる、今までのままの自分の方がいいのかも…苦しんでる人の気持ちがわかる方がいい」って、戻りそうにもなるから。
最後には自分で自分を救い出すしかない。
誰かはヒントは教えてくれるけど、まったく同じ道を歩んだ人なんかいないから、自分だけのオリジナルの”自分救出方法”を自分で考えるしかない。
ほんとしんどいよね。誰か助けてくれよ、誰かちゃちゃっと、全部救い出せる魔法の言葉をかけてくれよって思う。
根気強く頑張って、這い上がれる力がある人ばっかりじゃねーよ、って。
たくさんの人が、たくさんの全部違う思いを抱えているから、私にはとてもわからない。全部はとてもわからない。どんなになるべく多く分かりたくても、全部はとても把握できないかも知れない。せいぜい、自分の歩んだ道+それに近いもの、くらいしか、分かれないのかも知れない。
ただ私が今思うのは、書いてきたことと矛盾するようだけど、自分は変わらないってこと。
これからも私は無駄に見えるようなことで悩み続けるだろうし、他人の些細な言葉や仕草をやっぱり気にしてしまうだろう。それは変わらないと思う、ただ、そのとらえ方が変わっただけだ。
「私が存在しちゃいけない人間だから、あの人は冷たくしたんだ」、から、「あの人冷たかったけど気分でも悪かったのかな?」って、その解釈の仕方が変わっただけ。
だから変わらないまま変われるし、別の何者かになんなくていいから、もしちょっと「しんどいな」っていうのを1ミリで減らしたいなら、変わらないで変わる方向を1ミクロンずつでも探せばいいと思った。
ヒントは、本とか、音楽とか、ラジオとか、ブログとか、多分いろんなところに耳をすませば、多分ある。
偉そうなことはまだ、何も言えません。
けど、誰も別に 誰かの不幸を願っちゃいないよって思う、いつかの自分にも思う。
やっぱり私は、幸せな人が多い方がいいと、シンプルながら思う。
だからまずは自分で自分を救ってみせようと思っている。
準備
言葉にできない感情ばかり抱えていて、
「仮にもミュージシャンならそれを言葉にするのが役割でしょうに、できないなんてねえ」と、自分を責めてみては安心していた、ああやっぱり私はダメな奴なのね、と安心していたけれど、もうそれには飽きたから、
それよりも1ミリメートルでも苦しい時間が短くなったな、とか、幸せな時間も、またそのうち訪れるだろうと待っていられる余裕を1ミリでも太くできてるな、とか、そういう自分に目を向けるのです。
誰もが、自分に向かっているのです。
そしたら、くだらないと、意味が分からないと言われても、もう自分の中をちゃんと作れていたら、窓の外に降ってる雨のように「降っているなあ」と思うだけで済むのです。
私は、ぼんやりしていた私を、柔らかなままで、輪郭をはっきりさせ始めるのです。
どんな準備でも出来ています。
大丈夫、大丈夫、言い聞かせた言葉を外側から徐々に真ん中に持っていき、「大丈夫。」に変えたのです。
もう負けることはない
これからどんなことが起きても私は絶対に負けない。
それを覚悟するための様々な出来事よ。
何が起きようが、誰かに軽んじられようが、思いが伝わらなかろうが、仕組みに負けようが、うまくいかなかろうが、
全て、私が自分を信じられなくなることとは、関係ない。
出来事は、出来事で、私の中身とは関係がないのよ。
ようやくそのことがわかったので、もう迷うこともない。
いつもいろんな可能性を残してきたけど、今は言い切る。
にっこり笑って、はい、次の人生どうぞ、です。
ありがとう。
にぎりしめる
最近悔しい思いを連続して味わっている。
もうこれ以上の悔しさなんかない、と思った数日後にまた上回る悔しさを味わう。更にまた、味わう。
こんなに味わったからもういいじゃないかと、そろそろ報われるかもと思ってしまう。
でももしかしたら、みんなもっともっと、悔しい思いをしてきたんじゃないだろうか?
私が喜びを手にするのはまだまだ早いっていうんだろうか?と。
どんな出来事にも意味はあると、乗り越えられない試練はないと、本当かな?と思ってしまう、「おまえなんか価値はないんだよ」「おまえがやっていることは意味がないんだよ」という絶望に、押しつぶされそうになってしまう。
押しつぶされそうだ。
ライブをはじめたばかりの頃、いつも絶望におそわれていた。
「おまえが歌ったところで何になるんだ」「見てみろ、ガラガラで人のいないライブハウスだ」「誰もお前の歌のためなんかに時間は使わないよ」
そんな声が聴こえていた。
それは誰かに言われたわけではない。自分が自分自身に思っていたことが、自分の内側から聴こえたのかも知れなかった。
そんな声はもう聴こえない。
もし聴こえようものなら、自分の内側からも「そんなことはない」と自分で自分をかばう声が強く聴こえる。
そして、側にいてくれた誰かがすぐに思い浮かぶ。なんだか走馬燈のように浮かぶ、みんな、笑ってこっちを見ている。自分を否定するのはこの人たちを否定することになる、強い力でそれをさせてくれない。
今感じてしまう絶望は、最初の頃に感じていたものとはまた別のものだ。
今度は、自分自身がどうこう、というものではない。
自分が、自分を越えて信じているものが、もしかしたら間違っている、必要のない、意味のない、今の世の中に必要ないものなのではないかと思うことが怖い。
怖い怖い怖い。
でも絶対に、絶望に飲まれてなるものかと思う。
私の信じた希望が絶望に飲み込まれたとき、私は死ぬだろうと思う。
でも死ねないんだよ。
死ねないから、「おまえの思うことに価値はないよ」という絶望が襲ってきても、「そんなことはない」という希望を突き返す。突き返すんだよ。
だって私の信じた希望は私だけの希望じゃないよ。誰かにとっても希望のはずだよ。
私がそれを諦められないよ。
手放してしまおうかと思うくらいに苦しくとも、もう一度その手をにぎりしめてしまう。
もっと楽にも生きられたのかしら、と思う。
そんなに力入れなくても、気楽に暮らすこともできるでしょうか。
乗り越えたくて山に登っているのでしょうか。もしかしたら下っているのか分からない。
だけどどっかで何か、いつも何かを諦めていない。
まあ、でも、絶対負けない!!!と、力んでばかりいたら疲れちゃうから、たまには海にでも行ってのんびり黄昏てみたり、一週間くらい何もせずに休んでみたりすればいいんじゃないの?私よ。とも思ったり、する。
良い夏を過ごしてください、私もあなたも。
身体と精神
実家で18年飼っていた猫が死んでしまってから、ずっと考えている。頭で考えているというか、感じている、思っていることがある。
生きてるってことは身体があるってことなんだ。当たり前なんだけど。
そして哀しみも苦しみも怒りも、生きてるからあるのだと、「心は繋がってるから身体なんてなくてもまったく哀しみなんてないもんね♪」ってなってしまったら、それはもう死んでいるのと同じなのかも知れない、と思う。
その嫉妬も、寂しさも、弱さも、見栄も自尊心も、自分をかっこよく見せたくなっちゃうことだって、生きているからなので、
だからこのままでいいのだと。弱さや寂しさを塗りつぶしたり覆い隠したりしても消えてはくれず、余計に見つかりにくい場所に隠れて探すのが大変になっちゃう。
それを感じたままに、温めてみたり、なでてみたり、匂いをかいでみたり、静かに燃やしてみたりできたらいいんです。
って、『風の谷のナウシカ』を今っ更ながらにちゃんと読んで、(遅いけど遅いことなんてないんだ)なおさらに思った。
そしてやっぱり、ペチが教えてくれたのだと思う。
私羽根が生えて飛べそう、と思っても、地面に足をおろしてできること。
「羽根の方が早いじゃん」「地面を行くんじゃ遅いじゃん」と言われても、歩きたい地面。
*
自分で自分を狭めてみたりするな。
「私の歌は理解されないから、きっと”みんなのうた”にはならない」なんて言うな。
そんなもんじゃない、君の歌は、
思ってもみなかった場所で思ってもみなかった人に届くんだ。
向こう側にいるのは人なんだ。
受け取る”みんな”だってそんな心の狭いものじゃないんだ。
決めてつけてしまわないでくれ。
子どものロックフェス『ひこばえロックフェス』に出演したときに”子ども向けのうた”を考えてた私に千葉ちゃんが言った、「子どもは意外になんでも聴いてるよ」って言葉。
「今日のライブよかったね」「今日のライブいまいちだったね」、人からの評価に一喜一憂してた私に二宮さんが言った、「人が言うことを聞くより、自分を研ぎ澄ませていった方がいい」という言葉。
石巻でのライブで、地元の人がたくさん集まってくれたけど多くは「(店長と)友達だから呼ばれて来た」人たちで、たぶん音楽を聴きに来たというわけじゃなかったと思う、やっぱりライブ中はざわざわ話し声がしてて、「この人達が今楽しいのであれば、私の歌を聴いてくれなくたってそれで別にいいじゃないか」と思う気持ちと、やっぱり聴いて欲しかった気持ちとで、嫌では決してないけど消化しきれない感情になっていたときに、赤ちゃんを連れたギャルメイクの女性が、帰り際私に、「まじかわいい」とだけ、声をかけてくれたこと。その「かわいい」という言葉は、『私あなたと違う人間でちょっと分かんないとこもあるかもしれないけど でも歓迎してる、嫌いじゃないよ』っていうのがすべて詰まってる一言のような気がして、泣けてきたこと。
対象年齢とか、どこの層向けだとか、考えてそんな限定された決まりなんかで区切ってしまわないで。限定できないことばっかりだよ。
人や場所どころか、時間さえも超えるんだよ、あなたの歌は。
超勝手なことを言ってます、ごめん。
全部自分の勘違いかも知れないと思って、また書いた文章全部消したくなってるけど、消さない。
恥をさらしていく、もう出し惜しみしない。
あなたとまた会えるのを楽しみにしています。何度言っても嘘じゃない。
画面のなかの人
大衆がそれをみつめ 囃し立てようとも
とりつくろうこともなく
ただ命をまるごと使って表現をするということ
すごく久しぶりにブログ書いた。恋人もおらず、仕事もパッとせず、でも世間にひと泡吹かせたかった20代の頃の私が、彼女のライブを見てから戻ってきたようだ。
— 坂口ナオ (@skgc_n) 2017年6月18日
荒削りで瑞々しい野心を忘れてしまった大人達へ。斉藤めい初ワンマンライブレポートhttps://t.co/34LkPtJXgQ pic.twitter.com/cmcq1jkoAj
産声
水の流れる音が聴こえる。
私は
私は、と文章を打とうとすると、立ち止まってしまう、私、を語る事になんの意味があるのかって思う。でも私は、って今日は言ってみる。
私はいつも何かあると、すぐに泣きたくなる、し、苦しくなってしまう。
たとえば真昼間の、誰がどうみても平和そのものの風景の中や、誰が見ても何の不自然さもなく せかせかと動いて 経済や何らかの歯車をスムーズに動かしているような人々の中でも。
それは子どもがお父さんに抱きかかえられているような暖かい光景を見たときでもあるし、誰かのほんの些細な言葉や態度で いわゆる『傷つけられた』ときも。
それは相手にとってはたとえ軽く肩がぶつかったくらいの出来事だったとしても、コップのギリギリに注がれた水のように、限界ギリギリまでピーンと張ったギターの弦のように、ほんの少しの衝撃で、もう溢れてしまう、切れてしまう。
傍から見たら「ほんの少し触っただけなのに、なぜ?」と思うくらいの出来事で溢れ出してしまうのは、自分の中でだけは常にギリギリだったから、溢れ出す直前のまま、常に居たから。
そんなことが苦しかった。
いつもギリギリの状態でいて、ほんの少しの刺激であふれ出てしまうものに、
「えっ、こんなことで??」「面倒くさ!」「今まで苦労したことがないんだよ」と言われたことが、何も言われなくとも少々冷ややかな態度になって避けられたことが、苦しかったし悲しかったし、悔しかった。
今なら、冷ややかな態度をしてきた人の気持ちも少しわかる。目の前の人が急に取り乱したなら、相手だって、取り乱す、もしくは自分の平穏を保つために否定したり、見ないようにするのは人間が自分を防衛するためというなら何も間違っちゃいない。
ただ私は私で、もがき泣いているところを見せれば誰かが何か言うことを聞いてくれるなんて思ったこともなかったし、ただただ何かに反応して、溢れ出てきてしまうものに対して、自分でもどう制御したらいいのかなんて分からなかった。誰かわかるなら教えてくれ、どんな方法でも試すから、と思ってた。汗と同じだった。暑かったら汗が出てくる、そのことと何も変わらないのに、なぜ涙だけは責められるのだろうと思っていた。
今はもう、結構上手くやれている。
動揺させてはいけない人たちがたくさんいる、たとえば職場とかで、どうしても張りつめていたものが誰かの何気ない一言や態度で切れてしまったとき。
トイレにこもって5分間、思い切り泣くのだ。そしたらなんだか頭がだんだん冷静になって、「誰もそんな責めちゃいない、自分で自分を責めるのさえ止めれば、誰もそんな私のことなんか責めちゃいない(そこまでの関心をもって言ってない)だろう」ってことに気が付いてきて、深呼吸して苦しい息を整えることができたら、化粧を直して外に出られるのだ。
誰も傷つけない、ということよりも何よりも自分自身が必要以上に傷つかない。
大人になっただろう、少女の私。
感情は変わらなくても、その対処方法はわかってくるんだよ。
だから私は今の私の方が好きだ。
どんなに若いときの方が肌がピチピチであったんだろうと、皺が増えようとシミが増えようと今の私の方が断然好きなんだよ。
でもね少女の私、顔をドロドロにして泣いたことを否定することもない。
なぜか私は今歌を歌えている。
人の前で歌うことは、人の前で裸で立っているのと同じような気持ちでいつもいる。
だからなんだかすべて見られたような気持ちになるから、必死になって声を出し切れば出し切るほど、なんだか真っ裸を見られた気になって恥ずかしさとどうしようもない気持ちでいっぱいになる。服を着た人たちの中で自分だけが裸。
だからと言って、中途半端に半分だけ脱いだだけでは、きっと見ている人たちも裸にできないだろうと思う。自分がまず先に裸になって、見ている人も肌色にしてしまえたら、そのときは何にも代えられない瞬間になるのかも知れない、と思う。
だけども少しためらったりしてしまう、「私が裸をさらけ出すことで、誰かの何かを脅かしてしまわないかな…」と思うと、まだ何かの制御がかかって、最後まで絞り出せない。
でもね、そう、少女の私が少しの感情の揺れでどろどろになるまで泣いたとき、
もうすべては晒されていた、丸裸の感情は、誰かの目に触れすでに晒されていたんだ。
だからもう怖がることなかれ、
それで誰かをまた傷つけるほど、「誰か」も弱くないよ。
だからもう、今の私よ、もうとっくに許すも許さないもなくこれでいい、このほかにない。
ただ心に触れたものに、涙の代わりに歌を歌え。
歌を歌うんだよ。遠慮なんてするな。
水たまりの音が聴こえる。午前3時です