「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

心の内側

私に何がわかるというんだろうか。

あの人の心の内側の。

いつも元気そうに見えるあの人の、

強気にみえるあの人の、

いつも笑顔のあの人の。

強がってばかりいるあの人の。

心の内側に本当は何があるんだろう。

それを、私はどれだけ分かることができるんだろう。

一生、全然わかんないかもしれない。

 

あなたはいま何を思うのか。

私はあなたの目には、お気楽そうに映るかな。

私はあなたのことを「いつも強くってうらやましいなあ」と思う。

だけどもしかしたらあなたも私のこと、「いつも強くっていいなあ」と思ってるかもしれない。

お互いのことなんか全然わかんない。

それでもいつか、

『そんなことないんだよ、いろいろあるんだよ』

と話し合えたらいい。

 

誰でもいつでも誤解だらけだよ。

誤解だらけだよ。

勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に悲しんで、勝手に拗ねて、勝手にいなくなったり、勝手に戻ってきたりすればいい。

誤解だらけの自分と誰かと世界を見渡した後に、自分の中にある確かな気持ちを、とりあえずきちんとすべて伝えたら、あとはどんな結果になろうと、それが最善だと信じるしかない。信じるのは怖い、今この場をなんとかしようと、説得したり、引き留めたり、あえて突き放したりしてしまう、信じて待つことは怖いのだ。

 

静かに待つ強さをくれ。

誤解を力づくで説くのではない、伝えることだけを伝えて、あとはゆっくり待つのだ。

どんなに心の中が荒々しく、哀しみにくれていようと。そして、それは一人で耐えなくてもいい。

 

信じて待つ、信じて待つ。

 

あなたが思っているよりもうらやましい自分ではないけれど、

私が思っているよりもうらやましいあなたではないのだ。

同じなのだ、きっと。

 

心の内側が見られたらいいね。

そしたら歌わなくてもきっとあなたの側にいつでもずっと寄り添えるだろう。

でもまだ見えないから、手探りで歌を歌っているのだ

ライブ

音楽ライブをやっている人間ですが。

8月後半に、核となるライブが立て続けにあった。

 

17日に、北と西から4人の友人ミュージシャンを呼んだお盆自主企画ライブ。

25日、この夏4度歌いに行った江ノ島の海の家を借りて、自分で声をかける事ともに、SNSでも出演者を呼び掛けて、ある程度自由度をもたせて開催してみたライブ。

そして昨日26日、バンドセットにて、私の音楽の原点・藤井めぐみさん、バンドメンバーRURIさんのソロ名義、の3マンライブ。

 

それぞれの日で語れることがたくさんあるのだけど、大きく話すと。

どの日も、不安や緊張感がありながらも、「こうなればいいなぁ」という期待があった。

でもどの日も、私の想像からは離れたところに、現実があった。

「こうなればいいなあ」を遥かに超えてきた瞬間、期待通りにはいかなかったもののまた別の重要な意味を持って生まれた瞬間、『私という、小さな個人ではコントロールできぬ、その場にいた一人一人の人たちによって、生まれた瞬間』というのが無数にあった。

 

でもそれでいいのだと思った。

私は、私の『自分の出来ること』をやる。

いいライブをし、いい歌をうたう。お客さんに、愛をおしみなく出す。一緒にいるミュージシャンに最大の敬意をもって接する。場を作ってくれた人に感謝を告げる。宣伝をがんばる それはもうちょっと出来たかな なんて思っても。

これ以上のことまで、今まではコントロールしようとし、想像してたものとそぐわないと、自分にガッカリしてしまったりしてたんだけど、もうしようとしない。

あの人の反応が思ってたものと違ったとか、ここのときはこうしたかったんだけど思う通りにいかなかったとか、そういうのはもうコントロールしようとしない。

充分に準備したうえで起きたことなら、それを受け入れる。すべて受け入れる。でもすべてを背負わない、起きた流れにまかせる。

 

誰かの心を思い通りに動かそうとするなんて、人間の心を舐めるなよって。

それぞれがそれぞれ、傍目にはとてもわからない過去の経験や、感性、感情を持ってるんだ。

私という小さい個人が思う通りになんて、いくはずないだろ。

ただ、信じている。

「何か」はわからないけど、その場にいた人に「何か」が起きること、わかりやすく良いことなのか、わからないけど。

私や、私の仲間が出した世界と、誰かの世界がほんの一瞬でも交わる。それが出来たなら、私はもはや、誰かが一瞬通り過ぎただけの他人だったとしても、近親者のような、本当に近くの人のように思う。遠い親戚のあの人、親、兄弟、近所の人、そんなような感覚。血がつながった家族だって、何を考えてるのかはわからないし、一つでも交わったなら十分近い人だろう。

どうか、その近い人たちの日々が、それぞれの波乱はありつつも、平穏なものでありますように。

そんなファミリー的な中になんて、入りづらい!と思う人がいるかも知れない。そしたらもうちょっと入りやすい扉にしたいけど、普通の「家庭」とは違うので、誰でも出たり入ったり来たり居なくなったりは自由だし、ドアはいつでも開けっ放しではある。

 

そういう日々を続けていこうと思いました。

取り組めることだけは取り組んで、愛すべき人たちを呼んだり会ったりして、あとは流れにゆだねた想像できない日々を迎える為。

 

良いことでさえも、受け止める準備がないとやってこないのかも知れないと思った。「どうせ失敗するだろう」「わかってもらえないだろう」「人が来なくて当たり前だ」。

いや、違う、「ここまでやったんだ、大成功しちゃってもいいんだ」「思った通りには伝わらなくても、思いもしなかったところで何かが伝わるかも」「どんどん人が来ちゃっても大丈夫、それくらいのものをやるから」と受け入れる、引き受けていくよ。絶対そうなる!という決めつけではなくて、『こういうのが起きても、オッケー』という、幸せに対するスタンス。

傲慢ではなく、信用です。今周りにいてくれる人に対しての。 

そしてそれを未だ見ぬあなたに繋ぐため、この身体をそのことに使うための、自信。 

 

そういうものがあったライブの日々でした。

ありがとうございました。もう既に宝物です。

この先誰にどう貶められたとしても自分から墜落していったとしても、誰にも奪えまい。

 

 

「この空が晴れたら」

私は誰かに履かされていた靴をぬいで 走るよ

聴こえる?届いてる?子どもの私よ

血の繋がらない家族ができるから

もう泣かないで

 

時代おくれな言葉たちを今日も抱きしめ行く

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから今は何もやらなくていいや」という怠慢に、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから何もやらなくていいや」という怠慢な自分を、責めて責めまくって絶望の中へ入り込んでしまうことに、

負けるもんか、自分なんてダメじゃないかという思いに便乗した、「だから何もやらなくていいや」という怠慢な自分を、責めて責めまくって絶望の中へ入り込んでしまい、二度と立ち上がれなくなるような気がして自分なんかダメなんじゃないかと思ってしまうことに、

負けるものか。

 

この思考はきっとどこまでいっても、どんな理由を探しても、グルグル回っているから、解決なんてしないんだ。どこかで止めなければ。頭で考えることを止めて、身体を動かしてやらなければ。

だけど悩んだ跡は残る。それが、身体だけではどうにもいかなくなったときに、役に立つはずなんだ。だから無駄じゃなかった。これでよかった。

 

 

無駄な時間をたくさん過ごしてしまった、なんて思うことはない。

ぜんぶこれでよかった。

だから次へいこう、私よ。

 

本当に言いたいこと

自然災害が、たくさん起きてますね。
「で、何すんの?」って人類問われてる感、めちゃめちゃある。


破滅か再生か、二択だとしたら、
『無視』が破滅で、
『1mmでも1円でも自分の持つものを誰かに差し出す』ことができるのが、再生と思う。破滅再生の間をとって「継続」というのも、破滅しないことだから、結局は「再生」だと思う。

 


この際、一度破滅してしまえば?!と一瞬は思ってしまう出来事があったとしても、最終的に選びたいのは再生だ。
だから今日も少しずつ祈る。ほんのちょっぴり募金したあとで、「どうか少しでも良い状況になりますように」と、自分という神様に祈る。ぜったいに無駄ではない。

サマータイム

夏は大好きな季節です。

でも「暑いのは苦手、冬の方がいい」って思う人が周りにチラホラいたから、「夏、やっほーーーーー!!!」となるのになんだか悪い気がしてしまって、なれずにいた。

でもその遠慮って何かいいことを生むの?生まないんだったら、思う存分、今を喜べば?と思う自分もいて、「それもそうだな。暑いの苦手な人はきっと、冬よっしゃこーーい!!!!ってなってるのかもしれないし。夏やっほーーーーーーー!!!!!」と思ってる近頃です。

その遠慮、本当はいらないのかもね。っていうものが他にもあるのかな。

 

 

 

近頃あらためて思うのは、そして誤解をまったく恐れずに言うのならば、私は周りにいる人たちが好きすぎます。

「ピースフルな私、すごいでしょ?」ってことが言いたいわけじゃなくて、悩みがありまして、それがゆえに、適切な距離感というものをずっとつかめずにいます。

「好きなわりには返信返さないんかい!」とか、「そんなの感じとれないけど!」とかってまあおっしゃりたいことは重々承知してるつもりなんですけれども、

今わかりやすく周りにいる人、バンドメンバーとか、お客さんとか、同居人とか、ミュージシャンの友人とか、ミュージシャン関係ない友人とか、会社の人とか、出かけた先で出会った人々とか、なんか知らんけどこのあまり更新しないブログをチェックしてくれてる顔のみえない人たちだとか、画面の向こうの人、ニュースの向こうの人だとか。(それも″自分の周り”に含めるんかい、と思われるかもですが、自分の目に入ったものは自分の身の回りのことだと思うんです)

 

でも皆、それぞれの時間と生活があるでしょう。

「絶対この日、この時間、一緒にいて!」なんて言えないし、どこまでその人の時間に侵入していいのか、どのくらい差し出していいのか、どのくらい受け取っていいのか、

何もわからないんです。

もちろん私も自身の小さな生活と、身体を守りながらではあるのですが。

 

私は「東北が肌に合う」と前から申してますけどそれは、「愛してるよ!」「おう、こちらも愛してるよ!」っていうような、まあ実際はこんな直接的ではないにしろ、そんなような わかりやすいやりとりができる人が多い気がするからです。

それでいて、「あ、時間だ!じゃ、また!」みたいな潔さがあって、別れ際も非常にわかりやすく、優柔不断な自分でも「ああそっか。自分の生活に帰ってくのね、うん、またねー」みたいに切り替えられるのです。とてもシンプルで居られるのです。

 

東京の人たちもやはり愛しているのです。

でもそれはやっぱり人数の多さなのでしょうか、夜の長さなのでしょうか、

「こう言ってくれてるけど、気を遣ってくれてるのかもしれないし、どのくらい甘えていいのかわからない」

「居ようと思えばずっとここにいられるけど、それは自分にとっても相手にとっても良いことなのかわかんない」ことが多いんです。

だから「この人のこと大好きだしここに居て欲しいけど、これ以上引き留めたらこのあと大変だろうしな」とか、「この人は今ここにいてこれをしてるけど、それはこういう流れがあったなのからで、また来てね、っていうのはこの人の流れを止めてしまうかも知れないな」とかって、なんだか様々な事情が複雑に絡み合っていて、それを考えてしまって、とても難しいんです。

どこまで我儘を言っていいのか。いくらでも言ってしまって、あとは相手にゆだねればいいのか。でも相手が優しい人だったら、無理をさせてしまうんじゃないか、と思ってしまいます。

私にとってとても難しいです。

この人とは、このくらいの距離感でいいよ、ってちょうどいいバランスを保つことが。

 

人の多い東京でも、東京ほどは人の多くない地方でも、そこにいる人間一人っていうのはそんなに変わらないと思います。

それでも、関わり方はやっぱり変わってくる。

顔色を、「空気」とか呼ばれるものを読み合いながら、少なからずやらないといけないから。

心のなかはずっと、「愛してる!」「じゃ、また!次会うまで元気で。」の繰り返しです。

 

そんな自分に「そんな感性豊かな自分きどりかよ、だったら夢物語を言ってないで、自分に出来ることを何か一つでもやんなさいよ」って常に言い聞かせてもいて、結構心のなかでハードな修行をしてるな、とたまに自覚もします。

 

 

ここ最近で2マンライブもしていて、バンドメンバーや、ミュージシャンもそうだし、

もうあのね、小さなライブハウスに来てくれるお客さんとか本当に有難さが有り余って好きすぎて仕方ない。優しいんだと思うみんなほんとに優しいんだと思う。だから斉藤の歌とか聴きにきちゃうんだよ。変わってるよ。でもほんとはみんな変わってるんだよ。

お客さんが男性だったら「愛してます!」とか言ったらなんか本意じゃないことが伝わってしまいそうだし、そんなん「ありがとですー。またぜひー!」位しか言えないですよ、言えないだけですよ。そこんとこわかってますか。

 

 

バンドメンバーとか、10個以上上のオニーサンと隠れドSなオネーサンですけど、なんで私と、こんな5年前にバンド組もうとしてまっっっったく何もかも上手くいかなくてストレスで救急車に乗りまでした私と、バンドやってくれてるんスか?!!?!?!?!みたいな気持ちでいっぱいだし、上記のように「甘えていいよと言われても、素直に甘えられませんよ」な私が、唯一「まあいいか我儘いおう」と思える人たちで、でも仲間も仲間で好きすぎたら内輪ノリになってしまって来づらい人がいるだろうから、「私そんな依存してませんよ」スタンスを保とうとするので精一杯ですし。

 

画面の向こうの人たちよ、なんでそんなに一生懸命生きてるの?!

何かを良くしようと勇敢な人もいるし、愚痴を書き連ねてる人もいる、淡々としながらやることやってる人もいる。ニュースに流れてくる人、何かに巻き込まれた人も。それぞれの生活、それぞれの思い、とてもとても理解し尽くせない。

あなたが当たり前にやっていることが、私にはとてもできない、どうして出来るの?凄すぎるよ。といつも思っています。

 

 

あーーーーーーー!!!めんどくさい自分よふっとばせー!!!!!!!!!

結局は愛しい人たちに、何ができるかって言ったら、自分を生かすことをしながら、「ああ、最高だ」って思える瞬間を、それが楽しさでも、達成感でも、なんでもいい、切なさでもいいから、そう思える瞬間を少しずつ増やして、

「あなたのおかげで私は私で居られます」とお礼を言うことしかないという、シンプルな答えがいつもあります。

 

どうかそれを後押ししてくれ、私の大好きな、夏という季節よ。

深刻にならないで、いつかの別れの切なさはいつもあれども、力は地面から湧いてくる。

暑くなり過ぎたら、砂浜から飛び込ませて、水平線を眺めさせてくれ。

そういうことを暑苦しいくらいに思っています。

 

 

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決めつけないで

決めつけないでくれよって思う。

あのときの出来事を、「それはきっとこういうことだよ」なんて。

いやたとえ決めつけでも、自分の中で、ストンと納得できるようなものであれば、全然いいんだよ。その言葉がスッと入ってきたなら、多分それで合ってると思うんだ。

でも、そんなんじゃ全然心に入ってこないよ、と思うようなことを言って決めつけないで。言葉は正しくても、自分の身体がムズムズして「そうじゃない違う」と言っているような気がするとき。

 

出来事は、時間が経つに連れて変わるんだ。一つの出来事でも、時間が経つに連れて、意味が変わる、それを受け止める私の方も変わっていくから。

でも頭のいい誰かは1秒ごとに結論を出していき、それを私に突きつける。

けど私はそんなに早く物事を判断はできない。

時間が経ってから分かることもあるし、誰かと会って話しをし、その人の生きてきた道や、感じてきたことに触れて、それから分かることもある。

未来の自分が決めるのだ、まだ今わからない事については。

それまで答えを保留にさせて、ときにはその出来事の悪い結末を考えたり、弱気な考えに押しつぶされそうになる。それでも、いやきっと、よりよい出来事のために出来事はあったのだと、自分の中の一番小さくてそれでいて一番強い心持ちを、繰り返し繰り返し思い出してまた握りしめていくんだから。そんなわかったような言葉で決めつけるな。奪うな。

 

もしあなたが、

そんな誰かの言葉に 自分の一番大事なものを否定されたような気になってしまったときは。いや、他の誰かに否定なんて出来るわけはないんだと、ただその「そうじゃないよ」とムズムズする身体の方を信じて、そのままでいておくれ。

勇気は5年越しに使う

今日路上ライブをした。

「あー、よくいるよね、道端で歌ってる人」

とお思いだろうか。そうだ、別になんでもないことだ。ある人からしたらなんでもないこと。

 

でも私からしたら4年越しだ、4年越しの思いで、勇気だ。

 

勇気を出すのに4、5年はかかるんだ、私は。

そもそもライブハウスで歌いだすまでに、5年の潜伏期間があった。

それまではずっとカラオケで一人歌っていた。いつか人前で自分の曲を歌うんだ、と思いながら、それでもずっと出来なかった。

怖かったからだ。

人前で歌うのが。人に評価されるのが。誰かに「あいつの歌は大したことないな」と言われたりするんじゃないかと思ったり、無視されるのが怖くてできなかった。

「えっ歌なんてやってるの?」「才能ないんじゃない(笑)」と思われるのが、「へーなんかやってるけど、どうでもいい」って通りすぎられることすら怖かった。

自分が無価値なことをやってるのではないかと思ってしまうような、誰かの目線がすべて怖かった。

 

それでもこのまま死ぬのは嫌だ、と5年目にやっと動き出して、

ライブハウスで歌い始めてもうすぐ4年、緊張はするけれども大分普通になってきた。

でもライブハウスと路上、どちらが緊張するかってそれは人によるだろうけど、私としては路上というたくさんの人々が通り過ぎてく場所で歌うのは、またまったく別の勇気が必要だった。

だからライブハウスで歌うのには慣れても、路上はまだすごく怖かった。

ライブハウスとは違って、用意された場所でないというか、歌を聴きに来てる人たちの耳に届けるわけじゃないから、道行く人に「うるせーな、お前の歌なんて聞きたくねーよ」と思われるんじゃないかとか、警察に「迷惑だやめろ」と言われるんじゃないかとか思ったし、やらない理由はいくらでもあった。

 

でも、どんなに誰かにやめなよって言われても、やってもやらなくても別に変らないんじゃないって言われても、でもやらずにいたらなんだか自分がずっともやもやし続けてしまう何かについて。別に失敗だってなんだっていいんだよ、やってみて「やっぱ意味ないかー」「向いてないかー」と思ったとしてもそれで別にいいんだよ、やらずに自分が自分へのわだかまりを抱えているよりは、という出来事を、やってみたんだよ私は。誰かにとっては取るに足らなくて自分にとってはとても勇気が必要なそのことを。

 

何回かね、友人に混ぜてもらったり、ライブ帰りに仲間と一緒のときに一瞬だけ路上で歌ったことはあって、

先週は伊藤悦士さんが見ててくれた中で初めてフルライブin路上をしたり、ちょっとずつちょっとずつ、それこそ4年間のちゃんと場所が用意されたライブハウスのライブや野外ライブで、貯めてきた、自信と勇気とわだかまりを持って。

そして今日は初めて路上で1人で歌った。初めて、なんの後ろ盾もなかった。

 

そしたらなんだかすごく不思議な夜になった。

文章にしたらきっとなんでもないことだけど、なんかいろいろ入り混じって、出会いも事件も起きた。挫けそうになり泣きそうになり、それでも孤独ではなかった。

人がたくさん集まったわけでも、投げ銭がたくさん集まったわけでも、なかったけど、

「人が行きかってすれ違って、それぞれの人生を歩いてるし、全部が全部きれいなものばっかじゃないだろう。でもその、目の前を通り過ぎるあなたの人生がどんなものか分からなくとも、幸福を願うし、美しいと思うよ。私を叱る人も、気にも留めない人も、それぞれの仕事をしているのだ。でももしも友好的に声をかけてくれたり無言で足を止めてくれたりして、ひと時を一緒に過ごせるのであれば、私にとってもこれ以上ない幸福だけど」というような気持ちになるような出来事が。

 

あ~~またなんだかよくわからないこと言ってるな自分!

でもそうとしか言い表せないよ!何も嘘じゃねー。

 

こんなちょっとのことにこんな4年越しの勇気を必要とする私は進むのがなんて遅いのかと思う。でもそれでもいいんじゃないかと思う、私には。

そもそも人前で歌うのなんて一生かかっても無理、というあの人にだって、私には一生かかってもできない何かがあるだろう。だから何年かかろうと、誰かと比べて随分遅かろうと、私にとってのもやもやを切り抜けてみせたぞ、ということに意味があるのだ。

勇気勇気、とかさんざん言ってみたけど、別に勇気なんて出さずに自然にできることがあるのならそれでもいい。

あなたに出来ない事で私に出来ることが必ずあるし、私にできないことであなたに出来ることが必ずあると思うとどんな人も称えたい。勇気が必要なことでも全然必要ないことでもどっちでもいい。

 

急に、目の前の現実が何か変わったわけではない。

路上ライブができたからって、目にみえるもの、人気や知名度が一気にアップしたわけではない。

それでも、自分で自分が決めてたことを出来たというだけで、私の明日は少し変わりそう。

4~5年の長い助走、ジャンプしたのは他の誰からみてもなんでもない高さの塀だけど、

私だけがとても感動している。でもそれでいいんだきっと。読んでくれてありがと。

 

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