投げ飛ばす
何度も文章を書いては、公開できないでいました。
「なんだか思ってることと、違うように伝わってしまう」と思ったからでした。
どこかで聞いたような、とってつけたような、言葉ではなく、自分が感じたことから出てくる本心みたいなものだけ、書きたかったのでした。誰も自分にそこまで求めていないのかも知れなくても、どうせ嘘をつくと後から辛くなるので、自分のためにそうしたかったのでした。
それから、『否定的な言葉』というものに対して、ずいぶん辛いと思うようになってしまったからでした。
いろんな人と話して聞いた言葉、普段ネットなんかで目にする言葉。すべてが「見方を変えてみれば、正しいよね」ということばかりでした。
「あれがダメ これもダメ」という否定的な言葉や、ものでさえ、ある角度から見れば間違っているということは一つもない(ある角度から見ると正しい)はずなのだけど、なぜか気持ちが苦しく、そういう『正しいはずだけど、心を苦しくする言葉』との折り合いをどうしたらいいのか、ぼんやり考えていました。
だから私が出来ることは結局一つなのかも知れません。
『すべてを肯定すること』です。
否定することなんか、簡単なんです。
うわべだけならいくらでも、情報を知ることも、それを理解できたように振る舞うことも、発信することも出来てしまう現在のところにおいて、否定をすることは簡単です。
あまり深く考えずはせずに、手に入れた情報に対して、「こう思う、こう思う」と判断をつけていく反射神経が、必要なときもあるでしょう。
だけど物事には必ず表面のほかに、表と裏、深さと距離、時間列、人間の心と、四次元どころかもっともっといろんなものを包括している場合がほとんどです。
反射的に、こう思う、と決めつけてしまうことや、否定するということは、そのいろんな側面をナシにしてしまうことかも知れないです。
本当にあることについて考えて、わかるようにするには、まず肯定をしないと、その先にいけない気がするんです。肯定した上で、「自分は好きでない」「それでも間違ってる」と思うことは良いんです。矛盾するようだけど。とにかく一度は肯定し、そのことについて考えてみたいんです。
もう否定するのもされるのも、疲れてしまったら、肯定できるのことの方が価値があると思うんです。でも別に全てを受け入れろっていうわけではなく、一旦受け取って、考えてみるということです。
そうは言っても、「こんなのどこがいいの」「うわあ嫌い」とすぐ反射的に、思ってはしまうんだけど、
完璧なんてなく、完璧な人はいなく、「ある目線からみれば」すべての人やものは批判できてしまう面を含んでいる(私の大好きなものさえ)ならば、
嫌いなものは嫌い、と思ってはしまいつつも、『仕方ないな ちょっと知ってみるか』という程度に受入れ、まったく好きでないままでいいから『こういうことだから、こうなったかもね』と受け入れること。
存在を受け入れ、肯定すること。言葉がぐるぐるしてきましたが、だからこそ、そうしていきたいです。
何よりもそれは、自分を肯定し、存在していいと思うことにも繋がるからです。余裕があるうちに、出来るならそうしていきたい。
否定よりも肯定することの方がかっこいい時代が来てるんです。と言っておく。
渋谷ソラハウス行き方
2015/12/13
クワタ、斉藤2マン~特別ゲスト笹口騒音ハーモニカ~へようこそ!
会場は東京の『渋谷ソラハウス』というところですが、ライブハウスではありません。
おそらく初めて来る方が多いのと、
駅から10~15分歩くのと、
スマホの地図だと迷う可能性があるため、念のため詳しく道順を載せておきます。
と言っても写真が暗くてわかりづらい、申し訳ないです。
渋谷ソラハウス
http://sorahouse.net/#id64
渋谷駅か原宿駅から徒歩10~15分
◎代々木体育館方面です
◎『渋谷アイアシアター』目の前の「三船ビル」というビルの8階にあるイベントスペースです
【渋谷駅から】徒歩10~15分
ハチ公口に出ます
↓
スクランブル交差点を渡り、
公園通り(TSUTAYAと109mensの間の道)を原宿方面にずっ~とまっすぐ行きます
↓
右手にZARAやOIOI、TOWER RECORDSが見えます、まだまっすぐ
↓
カーブ(左手にカラオケシダックス)は道なりに、線路の高架下はくぐらずに!進む
↓
◎左手にスタバ、ファミマ
↓
渋谷消防署を左に曲がり、坂を登っていく
↓
◎左にPanasonicのビル、右にjournalstandard
↓
坂を登りきると、三つに分かれた道が。
そこを右に曲がる
ここを右に!
つきあたり右側にあるビルが『三船ビル』(小さく書いてあります!!)なので、エレベーターで8階へどうぞ!
このビルです!
入り口に、クリスマスツリーが飾ってある
エレベーターへ!
【原宿駅方面から】
原宿駅表参道口を出てそのまままっすぐ進むと右側に じんぐう橋 があるので、渡る
↓
大きな歩道橋があるので登る。
線路沿いを渋谷駅方面に
ずっーとまっすぐ進む
線路沿いを、ひたすらまっすぐ
↓
岸記念体育館前の信号もずっとまっすぐ
↓
渋谷消防署が右手にみえたら手前を右折
坂を登る
↓
上りきったら3つに分かれた道があるので右折!
ここを右に
突き当たり右のビルが「三船ビル」(小さくかいてあります)
このビル!
エレベーターで8階にどうぞ
気を付けてきてください◎
オープンは17時、
スタートは17時30分です。
クワタハルカ@harukakuwata kuwataharukaruha@gmail.com
斉藤めいtwitter@monbiri monbiri_4@yahoo.co.jp
止めにして、真ん中
もうバカバカしいから止めにしよう。
何かの流れを嗅ぎ取って、影響を受けまくって、それを自分の中で消化し 昇華をし、
よし、自分が行動するぞ、というときには、
もうそのことを忘れるのだ。たくさん吸収したら、その次は自分の真ん中だけに意識を集中するのだ。
私はすぐに何か知らないものを見たら、
「あの人に似てる」とか、「○○系ね」と何かに当てはめる。
でもそういうもんなんじゃないかと思う。それが悪いだなんて、「私はオンリーワンなのに一緒にするな!」だなんて、思うことはないと思う。
きっと本当に理解できるまで、そうやって何かに当てはめる事は過程なんだよ。
理解しようとして、してくれようとして、当てはめているのだよ。それで終わっちゃうかも知れないし、わけわかんないまま終わるかも知れないし、いつかたった一つのものとして見たり、見てもらえるときもあるかも知れない。わからない、まだわからない。
だからそのことに必要以上に気を取られるのは止めにしたい。ましてや外側でしかないそのことに、力をとられすぎちゃうなんてことは止めたい。
今すぐじゃなくて大勢でなくても、遅くても小さくても、とにかく自分の真ん中にある、ブレブレでも怠け気味でもなんでもいいから、本当に思うこと、に意識を集中させたい。
大好きなものはたくさんあっても、実際に影響は受けていても、それはそれで勝手に自分の中に吸収されて出ていけばよい。勉強もしたい。外側を、知らないことを学びたい。そして最後は真ん中に戻りたい ということを考える。
*
そして矛盾するようだけど、『自分の真ん中』に戻ると私の場合は、誰かがいる。
誰かが見守ってくれていることだとか、分かりあえようが分かりあえまいが何か時間を過ごせたことの鮮やかさとか、そういうものがきっと、私の人生の真ん中にあってほしいかすでにあるものなんだと思う。
だから時々、人に惑わされてるようなことも、本心では必要としているのじゃないかと思うことすらある。騙すためじゃなく、愛のための人達。
そして真ん中は、人にそれぞれ違うのかも知れないので、あしからず。
門
ほらちょっと偉そうなことを言えば あとでゴメンナサイって言いたくなるようなことばっかりだよ
もう二度と偉そうなことなんか口にするかと思う。
たくましくていいですね、と嫉妬して周りたくなる。いいですね、いいですね、あなたはいいですね。
そのとき起こってる嫉妬は、何もかもが表面的なもので、相手ではなく 自分の中に勝手にある、自分の中身が反応しているんだ。何も見えちゃいない。
誰もいない空間に向かって、「誰か助けて」と言うのが口癖になってる。
当然誰も助けてはくれない。
物理的には、何も困っちゃいない。
いない、いない、いない。
たくさんしゃべったらいい感じ、毒も純真も一緒に流れ出た。
受け止めてくれて、ありがとう。
だからなるべく 順序だてて話すことにするね。
業務連絡
お知らせ。ホームページを作成しました。
スペシャルサンクス、ナオタン、けんと。
それに伴い、過去のブログ記事であまりにも文章が読みづらい、分かりにくかったものは加筆修正しました。主張自体は変わっていません。
正直、誰かこの、何の公表もしていないこんな文章を読んでるのか?とも思いますが、
「どうせ誰も見ていないだろ」と考えるのは辞めたのです。
この前のライブ、半分そんな気持ちでいて、お客さんは当然ゼロかと思ってたら、3人来てくれました。
そのうち一人は、面識はなかったけど大学の後輩で、「密かにツイッター見て、ライブ行く機会を伺ってました!」と言ってくれた。
こんな人が一人でもいるんだから、どうせ…というのはもはや、独りよがりでしかないなと思うのです。
期待はしすぎず、だけど信じていくのです。
でも本当は、本当は、
今日のコーデは花柄ワンピ☆
とか、
今日のランチは表参道のイタリアン☆お友達のナオタンのバースデー☆☆いつもアリガト、感謝!☆ナオタン大好き☆☆
という雰囲気の日記を私も書きたいんですよ、結構本当に。
あ、お知らせだけの短文にしようと思ったのに、なんか湧いてきたからこのまま書きます。なぜか今日はですます口調な気分。
最近本当に、現代人らしく、ネットでのいろんな人の意見を(具体名を出すと主にツイッターで)見ます。自分では収集しきれない情報が、関心のある人つながりでどんどん入ってくることは有難く、知らずに過ごさなくてよかった、と思うことが多いです。
一方で情報プラス・誰かの意見、を見続けていると頭がパンクしそうになる。
前も言ったけど、すべての人が正しくて、そして雑音だらけだ。
何が正しいか、何が正義なのかは人それぞれで、おおよそ自由でいいんだけど、短くて膨大な情報の中の、何を選ばず何を選んだらいいのか分からなくなっていました。いや、選び取っていく中で、「この選択は正しいのか?」と思うようになったのです。
これは嫌だな、と感じてシャットアウトしてしまうものも、「自由でいい」はずならば、本当はそれも受け止めて認めないといけないのか?などと考えたり、
自分が「これがいい!」と思う意見も、偏っているだけで都合のいいものだけ取り入れているだけなのか?と考えるわけです。
でもある人と話した中で、少し見えた気がしました。自分がどういう理由で何を選び取っているのか。(感情的なくせに 自分の思考に理論的な理由をつけたがるめんどくさい斉藤)
「人は突出したものに対して、『自分はこうだ。見てくれ!自分も存在してるんだ!』と、すがりたくなるんだよ。自分は行けない場所にいる相手に、乗っかりたいんだよ」
と、何気なくその人は言ったのですが、それを聞いた瞬間、あぁ、と。すべて解かれたような気持になりました。それならすべて許せるじゃないかと。許せた上で、振り分けてしまう自分のことも分かるじゃないかと。どんな振り分けかというと。
言葉には、『自分はこうだ!』と、突き詰めれば自分の存在を主張したいだけのもの と、 言葉の奥に、大げさなことじゃなくても『人、世の中、この先のこと』の為のことが書かれているもの があるのだと。きっと私は後者を選び取っているのだと。
前者も、とても人間っぽくて否定するまでもないし親しい人ならむしろ見ていたいものではあるんだけど、他人のものもすべてを見出してしまったらキリがなくなってそれこそパンクしてしまうようなもの。
後者は積み上げていくもの。無駄なものが嫌いなわけじゃない、でもイチミリでも繋いでいけるようなものが好きなのだ。
だから私はこれでいいのだ…と自分をしっかり正当化し、
しかし結論としては、まあ難しいことは考えすぎないで、楽しみましょう だと思ったのであります。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ーるー。
ですます口調終わり。
地位も名誉もお金も手にしたあの人が、死ぬゆく自分のことを、「仕方ない」と言っていた。
私は、本当は孤独なくせに、と思った。どんなにお金があったって。そして勝手だな、と。散々良いこと言って、生きていてほしいと思わせておいて、自分の命はおろそかにし他を優先し、『何が大事かは人ぞれぞれだ』と、お前にはワカランよと言わんばかりに言う。
いや、それともやっぱり私の方が無知なのかしら?命が一番大事なんて綺麗ごとで、そういう生き方だってあるのかしら?多分その人と同じ年くらいにならないとわからない。今は考えたって分からないよ。一生分からないかも知れないよ、人それぞれだもんね。なら生きていてほしいと思うのだって勝手だよ。
いかん全然業務連絡じゃなくなってきた。
今日はマキさん、エツシさんという、いつも私を面白い場所に引っ張ってってくれる、素敵なおにーさん達に誘われて急遽、下北沢ぷあかう で歌う。素敵なことが待っている、私には。それに罪悪感を感じる必要なんてないはずだ。
どう生きるのも、勝手かって、ああー。業務連絡、秋です秋です。
猫がいる
飼っていた猫が外に出てしまって戻らない日があった。
18年間で初めてのことだったので、祖父母なんかはもう「あの子はもう戻ってこない」「猫らしい猫だったねえ」とか言って悲しみのあまり既に猫トイレなんかを処分し始めてしまっているから、
まだ帰ってくると信じてたはずの私もなんだかその気になって、私が小学生のときもらってきたことを思い出したりとか でも世話は祖父母にまかせっきりになってしまってて ダメな飼い主でごめん、でも楽しかったよと感傷しながら、大号泣していたのだけど、
夜が明けてご近所さんから「お宅の猫がうちの庭にいますよ」と連絡があった。
ほら老人はやっぱり諦めが早すぎるんだよと自分を全部棚に上げてダッシュで迎えに行って、50mしか離れていないご近所さんちの庭の室外機の間にちょこんと座っていた猫を、抱き上げて連れて帰った。
猫は死ぬとき誰にも見られない場所に行くというけど、それは体調が悪いと静かで暗い場所に行きたがり、そのまま亡くなることがある為そういわれる、と聞いたことがある。
いずれにせよ体調が良くないようなのは確かなので平日休みに病院に連れて行く。
それでもなんでも、もう一度会えて良かったなと強く思った。
あれが最後だったのか、もっと可愛がっていれば なんて、お決まりの後悔はしたくなかった。猫らしく最期はひっそり、なんてなくていいから、もう家猫、野生よりも家の猫なんだから、いつか息を引取るなら家族が見守る暖かい場所でにしてくれ。
なんて 全部エゴなのかも知れないなあ、と思いつつも、帰ってきてぐっすりといつもの籠の中で眠る猫を見たら、多分本人(猫)も悪く思ってなさそうだなと思ってしまった。これもエゴかしら。
昔の職場の、アバンギャルドな写真を撮る後輩が、「猫の写真はいいな~、炎上しないですもんね」と言っていたのを思い出した。(負けるな)某法師が「犬猫は人間より高尚な生き物だから」と言っていたのも思い出した。
猫ブーム、癒される、にゃんにゃんかわいーって、そんなん知らないけど、 抱かれるのが嫌いなのにさりげなくいつも近くにいて、ふてぶてしく写真写りが悪い その調子で、なるべく長く居てほしいもんです。
親バカ終わり。
地面
良いことばかり起こりすぎても「調子に乗るなよ」って自分で自分に言い聞かせてるので、
いつもは面倒くさいばかりの強すぎる自制心、自意識過剰も、こんなときには役に立つもの。
地に足をつけたい。別に真面目になろうとか常識的になろうとかそんなもんじゃなくて、夢みたいなことにばかり捕らわれないで、自分の実力に沿ってるところに居たいんだよ、だってたまたまのラッキーが続いたとしても、自分が追い付いていなければ、そんなのだんだん消えてく幻でしかないだろ。
「誰とも『また仲良くしようね』なんて思わない。出会ったら、『こんにちは、さよなら』だ」
そう言った人がいました、でもその言葉に冷たさは感じない。鮮やかに通り過ぎる人たちの、そのすべてが愛おしい!と思ったとしても、絶対に留まらない。
「どうか私のことは思い出さずに、あなたの道をどうぞ」という感覚はおそらく、とても根源的なもので、寂しさや弱さ、 または現代的な何か道具の中に隠しているとしても、その感覚は過ぎ去ってしまうことはないと思う。
1か月前に書いて保存していた下書きがそのままだったので掘り起こして書いている文章。
時間が経って「なんでこんなこと思ってたんだろな」と思うこともあれば、
「わかってたんじゃんか…自分 じゃあ早くやれよ」と思うこともあって、
まさに今、後者なので、少し手を加えてあえてそのまま続きを更新してみてる。
すごく考え方が素晴らしいなと思う人がいて、その人が書いてる内容のマネを少しだけしてみるんだけど、
ちっとも素晴らしくならなくて、むしろ肩が凝ったりしちゃって、中途半端に自分を削るのは良くないことなんだと本当に思い知ったりする。
こういうのは、自分のやりかたで動き出してしばらくして忘れた頃に、 自然に「あ、影響受けてるな」と気付くくらいでちょうど良いんだ、言葉やなんかで受けた影響なんて、しょせん縁取りだけをなぞってみてるのと同じ事なんだよ。
実際に自分で試してみないとわかんない。
自分で試してみないとわからない。
自分は特にそういう人間で、そして 私はこういう人間だからどうや!って威張る気なんてまったくないどころか、「なんでこんなんなんだろうか」と思うことの方がずっと多く、人の言う事や周りの状況から 先回りして何かに気付いて颯爽と行動をしたりすることがどうも出来ないし、遠回りしてやっと気が付く、散々転びまくったあとで、という繰り返しだった。
「そっちはダメだよ」と散々優しい注意を受けても、自分で「あ、ほんとだ、ダメだった崖だったわ」と、見てみるまでは止まれない。
いや違う、これはちょっと恰好つけすぎた例えで、実際はもっと臆病かつ自意識過剰に
「そんなの誰も気にしないよ!」と散々言われても、「いや!みんな私の一挙一投足に注目してるはずなんだから!」と思い込んでいる、というレベルの恥ずかしい勘違いをしてたんだと思う、それを解くのに時間を消費してきた。
対 人に関しても、「そいつは悪い奴だよ」と言われても「でも良いところもあるはず(私を必要としてくれているし)」と、客観的に見たら『なんであんなのにひっかかるかな?』と、DVとかネットワークビジネスだとかによくある心理状態を全然笑えない状況に、自分も居たのかも知れない。
そうして、そうやってきたのに、まだ、「色々学んで、だいたいを理解をしました。大人になりました」なんて言えない。自分なんてそんなに信用できないんだよ未だに。
遠回りこそ近道で、いろんなものを見てきた分いろんなことを吸収できただろうって、きっとそう言ってくれる優しい人はいるだろうし、それもそうだなと自分を振い立たせることはできる。でも未だに、自分の判断には自信がないことが多く、的確な判断をその都度できるなら羨ましい、その能力を私にくれと思ってしまう。
何を基準に、何を信頼したらいいか、何を軸に置いたらいいか、本音を言うとブレてブレてブレまくりだ。いや、「この人は絶対信じられる」「このことだけは絶対だ」というものは、あるんだよ、私だって、確かにあるんだよ。
でも難しいのはその中間のもの。黒か白、それ以外をバッサリ切り捨てることも、取捨選択することも、本当に突きつけられると苦しくなる位だ。正直信頼できる誰かに選んでほしいと思うくらいに。
誰もが「自分を持ってる」だなんて、思わないでよ。誰かの判断に頼ってばかり、一人で生きてくならせめて、普通にやるだけで精一杯よ。なるべく最良の選択を、その場その場で選び取っていくだけ。
”絶対的なものがここにあります”も、”自分はこうです”なんていうものはなく、
それを作っている途中の自分、何者でもなく、少しは苦い思いをしたとしても、最後には何にも従わない自分が今ここに居て
流されるでなく流れ続けているということだけに意識を向けるのです。それが宙に浮いていて地面らしくないけど私の地面です。
頭が宇宙になってきたので、このあたりで言語化おわり。