濁り
書いては消しーので、10件くらい下書きフォルダに入ったままの書きかけ文章があるけれど、今日のこそは公開する、と宣言。
「どんなことでも否定から入らず、嫌いになるなら肯定してから嫌いになる」、
そうしないと本当にそれがどんなものなのかわからない、物事にはいろんな面から見る余地があるんだから、見逃してしまわないために……とかいつも言っているんだけど、
当然、『嫌だコレ!』と反射的に思ってしまうことはある、当たり前に。
その場合、あとからその理由をよく考えるのだけど、間違ってないなと実感できたとき、反射神経に従ってOKだな、とも思う。
その違和感は、言葉のキツイ優しい具合はどうあれ、「自分が正しい。この言葉に従っておけ」というニュアンスが感じとれる誰かのセリフの中に感じることが多いことに気が付いた。
そんなことを言われたって、その人自身のようになりたい、その人に憧れる、という境地じゃない限りは、誠に恐れ多くも正直言うと、「その人自身も未熟な中から発している言葉」というように感じてしまう。平たく言うと「あなたに見れてない面があって、私にしか見れてないまた別の面もあって、それをまったく考慮しないで言っているでしょ」ということがあるということ。
誤解されたくないのが、何か厳しいことを言ってくれる人が嫌なわけじゃない。
だいたいの人は誰かの(私の)為に指摘をしてくれ、そしてそれは取り入れる取り入れないに関わらず、自分にとって必要なことだ。だから上に書いたようなことをいつも言っている。ズバッと的確に「こうすれば」と言われ、すんなり胸に刺さって、以後それを続けて、当たり前に身になってる、なんてことだってある。
こんな不束者に時間と労力を割いて頂けることに、大いなる感謝をしたいくらい。
でも中には、そんな風に、「なるべく全てを取り入れたい」と思っていたとしても、
「耳を塞ぎたい今」とか、「もうわかったから」と思ってしまうようなことが確かにあって、その感覚は後から考えるとわりと正しいことが多い、ということ。
それは、やっぱり「私への言葉」というよりも、その人自身の事情が見え隠れし、ちょっとした押しつけのようなものを感じてしまう時だと思う。
「自分みたいにやれば成功する」と言われ、『でも特にあの人みたいになりたいわけじゃないなあ』と思ってしまったこと。
人間としては、悪い人ではない嫌いではない人だけど、「僕みたいな成功がゴールだからマネしろ」と言われても、私はそれは違う、と言いたくなってしまう。その人は金銭面で、生活面で確かに成功をしていて、それは確かに尊敬すべきところで取り入れた方が良い意見もあるのだけど、私はその人の生活がゴールなんかじゃない、良い車に乗ったら満足できるわけなんかじゃなかった。
また違う人に、「あんな界隈で満足してちゃダメだ」と言われた。
もちろん、内輪ノリで完結することは、ただの生活の上(仲間との飲み会とか)だったらそれで充分といえど少しでも何か 自主的に活動をする活動(芸術活動 音楽とか)をするのなら、確かにそれだけじゃダメだと、そもそも私も内輪だけの賑わしが大の苦手だし、その通りだとは思う。
でもその「あんな界隈」のあなたは何を知っているのか、とも思う。もしかしたらあなたには分からない、深さや鮮やかさを帯びた環境かもしれないじゃない。いやそうじゃないとしても、「そこにいる一人一人」までもを否定はできないはず、そこにいる人間の仄暗くて美しくて切実でどうしようもない深さを私は見たことがあるよ、と言いたい。
そもそも上から目線で「あいつらダメだ」って言われたって、下から目線で「あいつら偉そうだなあ」と返されてしまうよ、界隈なんて、気付かないだけで自分も『自分は成功者だと思ってる界隈』にいるのかも知れないのだから。そこは心地よいですか?と。
誰のことも見下せない。
話は変わるようで自分の中では繋がってますが、
今まで自分はあまり積極的に「ライブに来て!」とお客さんに声かけたり、「一緒にこうしていこうよ」と仲間に伝えることができなかった。
「皆忙しいから」「自分の人生があるから」と思ってたし、変に自分に関わって、無駄な時間だと思われてしまうのが怖かったから。
でも人っていっぱいいるんだよな。時間のことはともかく人それぞれとして。
なんとかフェスとか、200人のつもりがお客さんが1万人集まっちゃいましたとか聞いたりするし、
いつもの通勤電車の中にだって、人はいっぱいいる。
もちろん、何かをする、来てもらう、ということは忙しい中時間と労力を使うことに変わりはないんだけど、
楽しいことには人は居る、楽しいのかその人にしかわかんないことでも、いるところには人はいる。
だから、不特定多数に呼びかける事は、怖いけど、でも、まだまだ出会えていない人が山ほどいるんだったら、ショボイ憂いは捨てて、勇気というもんをちょっくら出して、
大衆・大勢の中から、誰かいませんかー、この中に、と誰か一人に呼びかけていくのを止めてはいけないのだなと思う。
そう人のことばかり気にしすぎる自分も、自分というものの核を、なるべく決めていって、見ている人も自分でさえも安心できるくらいには動かないようにして、続けていくこと。
人のことばかり気にしすぎた。
自分の時間に戻らなくては。
豆をまけ
本当にみんな素晴らしいなあ、と思うのは、私が素晴らしいと思うものしか出会っていないだろうか。
何か見落としているものがあるのじゃないかと疑ってしまう。
だけどね、素晴らしい!と思ったからと言って、何かが出来るわけじゃない。「あなた素晴らしいですね」とそっと伝えて、その後は花束を贈るわけでも、ずっと追いかけるわけにもいかず、いつもの場所に戻って、自分のことに邁進するしかないんです。
だからといってそれが嘘な訳ではないし、言ったことはすべてお世辞ではないよ、って言うことを伝えるために自分は動いてるんじゃないかなあと思うわけです。
たくさん出会いたいけど留まりたくはない、欲が強いのかも知れないです。
*
近頃「こんな自分なんて」と言うのがむしろ失礼だ、と思えることが増えた、おこがましくも。
何かしら声をかけてくれる人がいるからだ。
全てにきちんとお礼して、感謝の気持ちを形にすることはできないけど、
今までに一番辛かったことは「自分なんて価値がない」「自分は何にも出来ない」と思っていたことだったから、今は前ほど、辛いことは少なくなった。
でも今、本当に大事なことは「私は価値がある人間かも知れない!」と思うよりも「ありがとう、ではやり続けます」と、ひたすら没頭をすることなので、それがいつかどこかで巡って恩返し(という表現はちょっと大げさだけど、そんなようなもの)になると信じます。
挫けるときは挫ける。そしたら豆をまくんだ!豆を!
そして「自分を出し切れてない」と言われ、そうかも、と思う。
ステージの上で熱唱しているのに?そう、うん、まだまだ、だと思う。
叫んで暴れて、でもそれだけじゃ出し切れないものがある。これでもまだまだ良い子でいたくて隠してるとこがきっとあるんだよな。もうちょっと曝け出したいな。もうちょっと。
投げ飛ばす
何度も文章を書いては、公開できないでいました。
「なんだか思ってることと、違うように伝わってしまう」と思ったからでした。
どこかで聞いたような、とってつけたような、言葉ではなく、自分が感じたことから出てくる本心みたいなものだけ、書きたかったのでした。誰も自分にそこまで求めていないのかも知れなくても、どうせ嘘をつくと後から辛くなるので、自分のためにそうしたかったのでした。
それから、『否定的な言葉』というものに対して、ずいぶん辛いと思うようになってしまったからでした。
いろんな人と話して聞いた言葉、普段ネットなんかで目にする言葉。すべてが「見方を変えてみれば、正しいよね」ということばかりでした。
「あれがダメ これもダメ」という否定的な言葉や、ものでさえ、ある角度から見れば間違っているということは一つもない(ある角度から見ると正しい)はずなのだけど、なぜか気持ちが苦しく、そういう『正しいはずだけど、心を苦しくする言葉』との折り合いをどうしたらいいのか、ぼんやり考えていました。
だから私が出来ることは結局一つなのかも知れません。
『すべてを肯定すること』です。
否定することなんか、簡単なんです。
うわべだけならいくらでも、情報を知ることも、それを理解できたように振る舞うことも、発信することも出来てしまう現在のところにおいて、否定をすることは簡単です。
あまり深く考えずはせずに、手に入れた情報に対して、「こう思う、こう思う」と判断をつけていく反射神経が、必要なときもあるでしょう。
だけど物事には必ず表面のほかに、表と裏、深さと距離、時間列、人間の心と、四次元どころかもっともっといろんなものを包括している場合がほとんどです。
反射的に、こう思う、と決めつけてしまうことや、否定するということは、そのいろんな側面をナシにしてしまうことかも知れないです。
本当にあることについて考えて、わかるようにするには、まず肯定をしないと、その先にいけない気がするんです。肯定した上で、「自分は好きでない」「それでも間違ってる」と思うことは良いんです。矛盾するようだけど。とにかく一度は肯定し、そのことについて考えてみたいんです。
もう否定するのもされるのも、疲れてしまったら、肯定できるのことの方が価値があると思うんです。でも別に全てを受け入れろっていうわけではなく、一旦受け取って、考えてみるということです。
そうは言っても、「こんなのどこがいいの」「うわあ嫌い」とすぐ反射的に、思ってはしまうんだけど、
完璧なんてなく、完璧な人はいなく、「ある目線からみれば」すべての人やものは批判できてしまう面を含んでいる(私の大好きなものさえ)ならば、
嫌いなものは嫌い、と思ってはしまいつつも、『仕方ないな ちょっと知ってみるか』という程度に受入れ、まったく好きでないままでいいから『こういうことだから、こうなったかもね』と受け入れること。
存在を受け入れ、肯定すること。言葉がぐるぐるしてきましたが、だからこそ、そうしていきたいです。
何よりもそれは、自分を肯定し、存在していいと思うことにも繋がるからです。余裕があるうちに、出来るならそうしていきたい。
否定よりも肯定することの方がかっこいい時代が来てるんです。と言っておく。
渋谷ソラハウス行き方
2015/12/13
クワタ、斉藤2マン~特別ゲスト笹口騒音ハーモニカ~へようこそ!
会場は東京の『渋谷ソラハウス』というところですが、ライブハウスではありません。
おそらく初めて来る方が多いのと、
駅から10~15分歩くのと、
スマホの地図だと迷う可能性があるため、念のため詳しく道順を載せておきます。
と言っても写真が暗くてわかりづらい、申し訳ないです。
渋谷ソラハウス
http://sorahouse.net/#id64
渋谷駅か原宿駅から徒歩10~15分
◎代々木体育館方面です
◎『渋谷アイアシアター』目の前の「三船ビル」というビルの8階にあるイベントスペースです
【渋谷駅から】徒歩10~15分
ハチ公口に出ます
↓
スクランブル交差点を渡り、
公園通り(TSUTAYAと109mensの間の道)を原宿方面にずっ~とまっすぐ行きます
↓
右手にZARAやOIOI、TOWER RECORDSが見えます、まだまっすぐ
↓
カーブ(左手にカラオケシダックス)は道なりに、線路の高架下はくぐらずに!進む
↓
◎左手にスタバ、ファミマ
↓
渋谷消防署を左に曲がり、坂を登っていく
↓
◎左にPanasonicのビル、右にjournalstandard
↓
坂を登りきると、三つに分かれた道が。
そこを右に曲がる
ここを右に!
つきあたり右側にあるビルが『三船ビル』(小さく書いてあります!!)なので、エレベーターで8階へどうぞ!
このビルです!
入り口に、クリスマスツリーが飾ってある
エレベーターへ!
【原宿駅方面から】
原宿駅表参道口を出てそのまままっすぐ進むと右側に じんぐう橋 があるので、渡る
↓
大きな歩道橋があるので登る。
線路沿いを渋谷駅方面に
ずっーとまっすぐ進む
線路沿いを、ひたすらまっすぐ
↓
岸記念体育館前の信号もずっとまっすぐ
↓
渋谷消防署が右手にみえたら手前を右折
坂を登る
↓
上りきったら3つに分かれた道があるので右折!
ここを右に
突き当たり右のビルが「三船ビル」(小さくかいてあります)
このビル!
エレベーターで8階にどうぞ
気を付けてきてください◎
オープンは17時、
スタートは17時30分です。
クワタハルカ@harukakuwata kuwataharukaruha@gmail.com
斉藤めいtwitter@monbiri monbiri_4@yahoo.co.jp
止めにして、真ん中
もうバカバカしいから止めにしよう。
何かの流れを嗅ぎ取って、影響を受けまくって、それを自分の中で消化し 昇華をし、
よし、自分が行動するぞ、というときには、
もうそのことを忘れるのだ。たくさん吸収したら、その次は自分の真ん中だけに意識を集中するのだ。
私はすぐに何か知らないものを見たら、
「あの人に似てる」とか、「○○系ね」と何かに当てはめる。
でもそういうもんなんじゃないかと思う。それが悪いだなんて、「私はオンリーワンなのに一緒にするな!」だなんて、思うことはないと思う。
きっと本当に理解できるまで、そうやって何かに当てはめる事は過程なんだよ。
理解しようとして、してくれようとして、当てはめているのだよ。それで終わっちゃうかも知れないし、わけわかんないまま終わるかも知れないし、いつかたった一つのものとして見たり、見てもらえるときもあるかも知れない。わからない、まだわからない。
だからそのことに必要以上に気を取られるのは止めにしたい。ましてや外側でしかないそのことに、力をとられすぎちゃうなんてことは止めたい。
今すぐじゃなくて大勢でなくても、遅くても小さくても、とにかく自分の真ん中にある、ブレブレでも怠け気味でもなんでもいいから、本当に思うこと、に意識を集中させたい。
大好きなものはたくさんあっても、実際に影響は受けていても、それはそれで勝手に自分の中に吸収されて出ていけばよい。勉強もしたい。外側を、知らないことを学びたい。そして最後は真ん中に戻りたい ということを考える。
*
そして矛盾するようだけど、『自分の真ん中』に戻ると私の場合は、誰かがいる。
誰かが見守ってくれていることだとか、分かりあえようが分かりあえまいが何か時間を過ごせたことの鮮やかさとか、そういうものがきっと、私の人生の真ん中にあってほしいかすでにあるものなんだと思う。
だから時々、人に惑わされてるようなことも、本心では必要としているのじゃないかと思うことすらある。騙すためじゃなく、愛のための人達。
そして真ん中は、人にそれぞれ違うのかも知れないので、あしからず。
門
ほらちょっと偉そうなことを言えば あとでゴメンナサイって言いたくなるようなことばっかりだよ
もう二度と偉そうなことなんか口にするかと思う。
たくましくていいですね、と嫉妬して周りたくなる。いいですね、いいですね、あなたはいいですね。
そのとき起こってる嫉妬は、何もかもが表面的なもので、相手ではなく 自分の中に勝手にある、自分の中身が反応しているんだ。何も見えちゃいない。
誰もいない空間に向かって、「誰か助けて」と言うのが口癖になってる。
当然誰も助けてはくれない。
物理的には、何も困っちゃいない。
いない、いない、いない。
たくさんしゃべったらいい感じ、毒も純真も一緒に流れ出た。
受け止めてくれて、ありがとう。
だからなるべく 順序だてて話すことにするね。
業務連絡
お知らせ。ホームページを作成しました。
スペシャルサンクス、ナオタン、けんと。
それに伴い、過去のブログ記事であまりにも文章が読みづらい、分かりにくかったものは加筆修正しました。主張自体は変わっていません。
正直、誰かこの、何の公表もしていないこんな文章を読んでるのか?とも思いますが、
「どうせ誰も見ていないだろ」と考えるのは辞めたのです。
この前のライブ、半分そんな気持ちでいて、お客さんは当然ゼロかと思ってたら、3人来てくれました。
そのうち一人は、面識はなかったけど大学の後輩で、「密かにツイッター見て、ライブ行く機会を伺ってました!」と言ってくれた。
こんな人が一人でもいるんだから、どうせ…というのはもはや、独りよがりでしかないなと思うのです。
期待はしすぎず、だけど信じていくのです。
でも本当は、本当は、
今日のコーデは花柄ワンピ☆
とか、
今日のランチは表参道のイタリアン☆お友達のナオタンのバースデー☆☆いつもアリガト、感謝!☆ナオタン大好き☆☆
という雰囲気の日記を私も書きたいんですよ、結構本当に。
あ、お知らせだけの短文にしようと思ったのに、なんか湧いてきたからこのまま書きます。なぜか今日はですます口調な気分。
最近本当に、現代人らしく、ネットでのいろんな人の意見を(具体名を出すと主にツイッターで)見ます。自分では収集しきれない情報が、関心のある人つながりでどんどん入ってくることは有難く、知らずに過ごさなくてよかった、と思うことが多いです。
一方で情報プラス・誰かの意見、を見続けていると頭がパンクしそうになる。
前も言ったけど、すべての人が正しくて、そして雑音だらけだ。
何が正しいか、何が正義なのかは人それぞれで、おおよそ自由でいいんだけど、短くて膨大な情報の中の、何を選ばず何を選んだらいいのか分からなくなっていました。いや、選び取っていく中で、「この選択は正しいのか?」と思うようになったのです。
これは嫌だな、と感じてシャットアウトしてしまうものも、「自由でいい」はずならば、本当はそれも受け止めて認めないといけないのか?などと考えたり、
自分が「これがいい!」と思う意見も、偏っているだけで都合のいいものだけ取り入れているだけなのか?と考えるわけです。
でもある人と話した中で、少し見えた気がしました。自分がどういう理由で何を選び取っているのか。(感情的なくせに 自分の思考に理論的な理由をつけたがるめんどくさい斉藤)
「人は突出したものに対して、『自分はこうだ。見てくれ!自分も存在してるんだ!』と、すがりたくなるんだよ。自分は行けない場所にいる相手に、乗っかりたいんだよ」
と、何気なくその人は言ったのですが、それを聞いた瞬間、あぁ、と。すべて解かれたような気持になりました。それならすべて許せるじゃないかと。許せた上で、振り分けてしまう自分のことも分かるじゃないかと。どんな振り分けかというと。
言葉には、『自分はこうだ!』と、突き詰めれば自分の存在を主張したいだけのもの と、 言葉の奥に、大げさなことじゃなくても『人、世の中、この先のこと』の為のことが書かれているもの があるのだと。きっと私は後者を選び取っているのだと。
前者も、とても人間っぽくて否定するまでもないし親しい人ならむしろ見ていたいものではあるんだけど、他人のものもすべてを見出してしまったらキリがなくなってそれこそパンクしてしまうようなもの。
後者は積み上げていくもの。無駄なものが嫌いなわけじゃない、でもイチミリでも繋いでいけるようなものが好きなのだ。
だから私はこれでいいのだ…と自分をしっかり正当化し、
しかし結論としては、まあ難しいことは考えすぎないで、楽しみましょう だと思ったのであります。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ーるー。
ですます口調終わり。
地位も名誉もお金も手にしたあの人が、死ぬゆく自分のことを、「仕方ない」と言っていた。
私は、本当は孤独なくせに、と思った。どんなにお金があったって。そして勝手だな、と。散々良いこと言って、生きていてほしいと思わせておいて、自分の命はおろそかにし他を優先し、『何が大事かは人ぞれぞれだ』と、お前にはワカランよと言わんばかりに言う。
いや、それともやっぱり私の方が無知なのかしら?命が一番大事なんて綺麗ごとで、そういう生き方だってあるのかしら?多分その人と同じ年くらいにならないとわからない。今は考えたって分からないよ。一生分からないかも知れないよ、人それぞれだもんね。なら生きていてほしいと思うのだって勝手だよ。
いかん全然業務連絡じゃなくなってきた。
今日はマキさん、エツシさんという、いつも私を面白い場所に引っ張ってってくれる、素敵なおにーさん達に誘われて急遽、下北沢ぷあかう で歌う。素敵なことが待っている、私には。それに罪悪感を感じる必要なんてないはずだ。
どう生きるのも、勝手かって、ああー。業務連絡、秋です秋です。