ピュア
ある発言について問題になってる政治家がいて、それをとりまく世の中の流れをみていると「問題になるような発言か?」とか「女だけど、そんなに気にならないけど」という意見をときどき見かけるけれど、この問題に限らず、世の中で浮き出てくるものっていうのは。
ただただ点のように、「誰かが何かを言いました」「それを聞いた誰かがそう思いました」、という事で済まないのだと思う。
『今に至るまでに、人々に過去の時代から今の時代へと受け継がれてきた精神(良いものも、悪いものも含む)』と、発言する人物の影響力、つまり『現時点での発言する側と、発言によって影響を受ける者の力の差』という目には見えない上下の矢印みたいなもの、その2つに思いを馳せることがポイントなんだと思ってる。
女性に対する暴言で問題になった元首相。
先に言っておくと、言いたいことは『男性よりも女性を優遇すべき!』とか、そういう話ではまったくない。男性だって当然大事にされるべき。というか人間として尊重されることに男性とか女性とか関係ない、どちらでも真ん中でも、当たり前に大事にされて当然です。
ただ、ただね、男性と比べて、とかではなくて。男には男の辛さがあるだろうから。だからそういう男女の比較ではなくて。
「女」というだけで、虐げられてきた女性がたくさんいたことが歴史の中で確かにあって、記録に残っていないものも含めたら、何千・何万・何億の世界中の女たちがきっと傷を受けてきた。
もしかしたらそれを当たり前のこととして受け入れていたかも知れない、自覚さえできなかったかもしれない、でも私と同じ1人の人間がそれぞれの物語の中で生きていて、それが何億もあったと想像して、その人たちが「女に生まれた」というだけで世界から見えない傷を受けていたとしたら。
その人たちに受け継がれた世界で私たちは今生きている。そしてやっと世界が「これはおかしい。今この時代で止めよう」と気づき始めたんだと思う、何億の痛みを経て、やっとのことでたどり着いた。
「女だから」と語られることから始まる抑圧だとか、仕組みが出来上がった社会で でしゃばるな女の役割を果たしてろ、という無言の圧力について、当たり前すぎて気づかなかったけど、辛い思いを受けている人が過去からずっといた。現在進行形でいる。だから少しずつ変えていこうよと。
元首相の発言は、そんな多くの精神が救われるはずの変化を、元の時代に引き戻してしまう可能性がある発言だったんだと思う。
発言者は世の中を動かせる圧倒的な力を持った者で、しかもその発言の影響を受ける側の多くは政治力のない一個人ならば余計に。見えない矢印の上の方から下への固定を余計に強化している。
「でしゃばりな女たち」なんかだけではなくて、賢くて物も言わぬ静かな、過去からの目すべてが見つめているよ。
個人的な都合だけで「私の気持ちを優先しろよ」ってワガママ言うような、そんな生易しいものではないよ。
どうか、どんな立派なものであろうと自身の半径何メートル以内かの世界だけでなく、その外に暮らす人々にも思いを馳せ、逆行して非難されることのない安らかな場所にたどり着いてもらいたいと思う。
そして書いてて思ったけれども、たまたまこれは「女」についての話なだけで、何度も言うように「男はいいでしょ」って話じゃない。「男も辛かったんだ」とか、男女関係なく「こう辛かったんだ」という事が誰かの心にあって、それを世界と共有することで改善していけることならばただ話してほしい。「私は辛い」「あなたは辛い」はどちらか一つが正しいのではなくて、両立しうるのだから。そして私もあなたも幸せ、につなげていけたらいいね。
誰に向けて書いてるのかわからないまま、ライブ後の興奮と、あと一歩で出来上がらない新曲への「ウワー!」感をごまかすために、そして「ミュージシャンも政治のこと言っていこう。なぜなら世界は自分たちで作るものだから」とか言いつつそんなに言及できてなかった自分を気軽に打ち破っていこうという気持ちで書きました。
つづく(誰の人生もが)
誰かのため
「誰かの為じゃなく自分のためにだけ歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない」と宇多田氏が歌っていたのを思春期の頃に聴いてからずっと
「歌って言うのは人の為に歌わないといけないんだなぁ」とぼんやり思っていた。
音楽が持つ大きな大きな懐は自分のためだけなんかじゃ勿体なくて、また、本質とは少しズレてしまうんだろう。
私は6年前に自分の歌を歌い始めてから、ずっと自分のために歌っていた気がする。
傲慢になるつもりはなかった。ただただ、余裕がなくて、そうせざるを得なかった。
自分のことで精いっぱいだった。
自我なんて最小限に、誰かの幸福を願える歌い手を心からうらやましいと思った。私も願っていなかったわけじゃないんだけど。
だけど遠藤賢司(エンケンさん)が「そうなんだ 俺はいつだって自分の為にだけ歌ってきたんだ そうこれからも 為に 音よ言葉よ 俺の心に突き刺され」と歌ってるのを聴いて、この前涙が出たんだ。
「自分の為に歌う」ことが必ず、決して自分以外の誰かの存在を、どうでもいいと、無い物にしているわけじゃないだろう。
自分以外の人間がたくさんいる世界の中で、自分の弱さに、小ささに、押しつぶれそうになって、それでも決して潰れてやるものかと自分を奮い立たせる為の、自分への歌だったんだろう。だって他の誰かは、自分の先に居るものなんだから。
その歌が私を掬っているよ。
だから自分の為に歌った歌も、それが本当に切実なものだったなら、誰かに届きうるんだ。
私の歌も、少しは誰かのものになる瞬間もあったならいいな。
人のために歌いたい。
人のためにってどういうことなんだろう。
あの人やあの人やあの人の顔を思い浮かべる。幸せでいるといいなと思うけど、今、何を思ってるのか、どんな気持ちでいるのか、どんなことで喜んでもらえるのか、ちっとも分からない。
人のために何かをできるってどういうことだろう。
死ぬ間際まで、自分より人を気にしていたあの人みたいなことだろうか。
生まれたときからの歌声が、他人の心にスッと溶けてしまう、あの人みたいなことだろうか。
自分なんて捨て去ればいいだろうか。自我とか恥とか全部どこかに置いてきて。
でも本当に自分を捨てられる人はこの世界が大変な時期にこんなブログ多分書かない。
6年歌っても、ちっとも余裕などはない。
余裕なんてないままでもできるだろうか。
少しずつでもいいから、聴いてくれる誰かにちゃんと歌いたい。自分ではない人へ、歌いたい。
これからはそうありたいと思っています。
そしてもしも万が一、それが私には本当に難しいことだったなら、回りまわって誰かのためになるようにと願いながら、自分勝手な歌を全力で歌うよ。
かけがえのない時間
ライブハウスが次々と閉店していくのをボーッと見ている。
中には自分も出演したことのある場所、浅からぬ時間を過ごした場所もある。
それでも私はただ見つめているだけで、とても薄情なんだと思う。
ただ素直に感謝を伝えたり、悲しんだりしたらいいのに、何もできなかった自分には何も言う資格はないと思ってしまう。罪さえ感じている。
すべてを諦めた訳ではなく、自分の中でどうにか守れる範囲の、片手の指に入るような数のものだけで、出来うるほんの少しの中を今過ごしている。
こんなことくらいしかできなかったのかぁ、と等身大の自分を知る。でもきっと知れてよかった。本当にごめんなさい。
この罪はどこにも持ってはいかないでここに置いていく。そして、ときどきここに帰ってきて思い出すよ。ありがとう。
△△
〇〇と××なら、どっち!?
とかって質問されると、2択を迫らないでよといつも思う。
だって、こういう状況なら〇〇かもしれないけど、そうでなければ××かもしれない。でもこういう要素があれば△△で、そのとき自分が◎◎なら▼▼になるかもしれない。でも・・・って無限に続くよ。
自分の中にあるものも、外側にあるかもしれない可能性も、いろんな要素を取り除けないよ。
だから、今のこのような状況も、さああなたは〇〇ですか?××ですか?とか言われたってさ、そんな単純に決められないよ。
この状況下を、あなたは有意義に過ごせましたか?過ごせませんでしたか?ってさ、そんな二択で表わせられるわけがないでしょう。
複雑な思いが絡み合って、自分史上前代未聞の世界がやってきて、いろんなことを考えて、進んだと思うことも、後退したと思うことも、この先それがどう影響していくかなんて、誰にも分からない。
たとえどうしたらいいかわからなくて毎日、一日中グダグダと寝てたとしたって、それでなんか健康になったりなんかして、幸運に繋がるかも知れない。繋がらないかもしれない。
誰にも分からないんだからさ。
今どんな思いで、どんな状況でいようとそれが最善だったよ。
激流の中、誰もが手探りで、きっとそうとしか思えない。
何も思わぬはずはなく
ああ言ってはみたけど、それは正しかったのか。
あのときの行動は、最善だったのだろうか。
毎日毎日思う。
何かを言う度に、何か行動をするたびに、罪悪感が残る。
だって違う角度から見たら、これって間違いかも知れないじゃない。
それでも発言すると決めたのであれば、それさえも引き受けて切り取らなくてはいけない。
不安になって、感情的になって当たり前じゃんね。
ずっとずっと罪悪感があるよ。
それでも押しつぶされてしまうことこそが、この騒動の「負け」であるなら、その都度、最善だったのだと思うしかできない。
ラブアンドピースなんて言ってる奴ですら、いつでも正しくいることができない。
だからどうか、誰かが間違ったときに、過剰なまでに責めるのは止めて欲しい。
今、人間と人間が争って解決することなど何一つない。
この国というシステムのダメな部分をじっと見つめて指摘することはむしろ必要。
でも傷ついてる者同士の喧嘩は止めて。
そう思ってるけど、どこまでも無力でどうしよう。その無力さがあなたと同じなら光栄だけど、力が欲しいと思ってしまった。
もし、私が力を持ったときに、それをあなたを救うこと以外に使い始めたら、早々と墜落させて欲しい。1番のお願い。
淘汰だなんて言うな。残るものは残るって、私だって思ってるけど、それでも消えていくものが、ここで消えてよかったものだなんて守ろうともしないで言えるのか。
ちゃんと怒れ。冷静に。
でも「ちゃんと」なんて、「冷静に」なんてできなくたって仕方ない。それくらい許してよ。
祈っています、なんて、何の意味もないかもしれないけど
決して悪用しない祈りなら、心に持っておこうと思う。
※4/18追記
なんだか当たり障りないようにやんわり詩的に書くのはもう止めよう。
「争わないように」っていうのは、私みたいに権力も何も持たない、ささやかな幸せを生きがいにして普通に生活する者同士、っていうことだ。
国の出来事に影響する権力を持ちながらも、人の命よりもなんか別のもの(お金だが、自分の地位だかなんだか知らないが)を優先させる権力者、政治家へは、むしろ今こそ意見を言ったり怒ったり憤ったりした方がいい。
と思っています。いう立場をここに明確にしておきます。
ねずみに齧られても
斉藤めいです。今年もよろしくお願いいたします。
って言いつつ随分時間が空いてしまい、あまりに時間が空いてしまうと人は忘れてしまうから、このブログだって多分忘れ去られてしまってて、それも仕方ないんだよなぁと思う。寂しいなぁとも。
思いながらでも、じゃあ毎日のように更新するとか、こんなにサボることはもう絶対に致しません!とか宣言したとしたら、できなかったときに自分で自分にダメージをくらわせることになるので、「途切れてしまったものは仕方がない。また一つ、一つ繋げていくしかないな」と思ってもいる。
去年、というか文章を書かなかった間、いろいろ重要なことがありました。
ファーストアルバムのレコーディング、そして発売。
そしてライブ、ライブ、ライブ。遠征含む。
レコーディングはめちゃめちゃ楽しくて、何もかも始めてのことで時間は予想外にかかってしまったけど、やっとできたこの1枚への気持ちと、でも思うように宣伝とかセールスとか赤字の件とか皆の反応とか、まだまだ頑張らなきゃいけないと思う。
ライブに対しても、いろんな場所いろんな人に出遭えたりもうめちゃめちゃに楽しいときもあったけど、悔しい場面もたくさんあった。
そんな日々を送っていたら2019年最後のライブ、12/22の次の日からまったく動けずに心身ともにひきこもりになっていた。
グアアアアーーーーとある期間、人前に出たら、反動というか、それを取り返すかのように内側に篭りたくなる。しかもネガティブを引き連れて。誰とも何も話したくない。
なに?これは、躁鬱?とかいろいろ考えたりするけどもね、これも「波があるのだから仕方ない。山と谷。光と影。A面とB面。今はこういう時期なだけ。」と言い聞かせる。言い聞かせている。
私のネガティブは、他人が羨ましくって仕方がない。
それはもう、テレビの向こうのあの人から、とっても身近なあの人まで、自分に持たないものを持つすべての人の、すべての特性がうらやましい。
どうして自分はこんなにダメで、皆はこんなに優っているのだろうと、どんなに自分で自分をよさげな言葉で励まそうと、誤魔化してみようとネットサーフィンしてみても、そんな思考は何も消えちゃくれないのだけど。
このまんま行くしかないということがわかった。
すんごいありがたい言葉とか、誰かの生き様とか、自分にとって良いものをたくさん集めてみようとしてたんだけど、どれも今日みたいな自分をなぜか傷つけるんだ。
誰かの中にはなく、自分の中にしかないみたい。
超・自我が強い私にとっては、憧れだとか、見習う、だとかそういうのは過激な言い方をすれば邪魔にしかならなくて、自分の力の足りなさも、結局誰かとの差異も「だからなんなんだよ」としか思えなくて、そう考えたらネガティブに思えた「他人へのうらやましさ」も、結局は自分が自分の世界のど中心にいるっていうことの証明でしかなかった。
誰かへのやさしさも、自分がこの世界で確かに居たいからなのかもね。
さあ、さあさあそこで。
それでもやっぱりこの世界は思うだけでは、動かないと何も始まらない。
手を、足を身体を動かして、そして心を伴わせる。
いろんな見本がそこら中に広がってるけど、私にはどれもマネするのは困難、すぐに立ち止まってしまう。それでもまた動き出す準備を。
止まってしまったら、今までの頑張りもなくなってしまいそうな気がしても、それでも止まってしまったのなら、また一つ一つ、動き出すだけです。
世界は待ってはくれない。
それでも、私の世界はここよ。とずうずうしい体感時間にてみんながとっくに忘れた頃に思い出して欲しい大事なものを歌って行くよ。
あらためて、今年もよろしくお願いいたします。
アルバム聴いてくださいね。
まずは↓の動画からどうぞ。
許して許して
世の中のものが全部、許せないものだらけのときは辛かった。何を見ても、どんな人を見ても「あんなのありえない!かっこ悪い!ダメだ!批判!」って決めつけてたら、自分が何をするにしても「こうやって批判されるかもだから止めとこう」ってなって、結局何もできなくなったし、単純に嫌いなものに囲まれてるようでずっと気分が悪かった。
だから今度は、どんな人もどんな出来事も許してばかりにしてみた。それも最初は天使みたいな気持ちになれたけど、だんだん辛くなってきた。自分を傷つけるものにさえ「仕方がないんだ」って思い過ぎると、無理してるから余計近づきたくなくなるし、「こんなことで心痛めてる場合じゃないんだ」みたいに、痛いところを無いものみたいに扱ってしまいがちになっていた。
今やっとちょうどよくなってきたところ。
例えば傷つけられることを言われても「アイツ私を傷つけやがって二度と一生許さないからな」でも「あの人だって悪気があったわけじゃないから…悪い人じゃないから気にしちゃダメ…」でもなく、「むかつくなー!けどまあ悪気 or 余裕ないんだろな」っていう丁度いい心持ちでいられるようになった。
誰かに、怒ったりする。でもその人全部に怒るというより、その人が知らずに自分(や他人)を疎かにしてきた部分に対してだけ怒る。
自分も自分で、言葉足らずなところがあったなら謝る。
それでも上手くいかない関係なら、どちらかの感情が過剰か、単に合わないだけ。
多分今は一緒にいるべきじゃないのね、とそっと離れる。それがお互いの「平和」だったりする。
許す、許さないって感覚は、もちろん怒りとか哀しみとか、強い感情を伴って発生したことだから熱くなっちゃうしコントロールが難しいけど、
だからこそあえて冷やして、ちゃんと区切って、思ってることは言葉にちゃんと出して、その結果でわかりあえたり わかりあえなかったとしても静かに「ウン」って飲み込む。
そこでかつての私みたいに「なんでなのよぉおおおお」とのたうち回る時間は少しでも減らして、次に行けるように。
不完全な私も、きっとそうやって許されてきたから、同じようにしようと思う。