私の友達みんな媚を売れない
私の友達は、「嘘をつけない。いいと思ってないことに、愛想笑いなんてできない」という人が多い。
本人たちは悩んでもいるようだ、もっとうまく世渡りできたらいいのにと。
それでも八方美人な私はそんな彼女たち(彼ら)を美しいと思う。
なぜ美しいと思うのだろう。
私は、私の八方美人を「ラブ&ピースの為」(無理と言われてもなんだろうとなるべく多くの人にとってのその時間を肯定的なものにしたい)という強い無意識でやっている為、「八方美人」と悪い意味で使われることの多い言葉のわりには、それを悪いようには思っていない。
そしてなるべくフラットであろうとしている。
すると「好き」か「嫌い」かではなく、その間にある「グレー(普通)」みたいなゾーン、「好きか嫌いかなんて簡単に決めつけないぞ!」の幅がとっても広がってくる。
←←←←←←好き→→→→→→|←普通→|←←←←←←嫌い→→→→→→
だったのが、
←好き→→→→→|←←←簡単に決められないぞ、のグレーゾーン→→→→→→→|嫌い
みたいな。
多分許せるものは多いし、これでいいと思っている。
だけど、ときどき、「すべてをグレー」と思っていると、自分が揺らぐことがある。
あの人もいいよね、あの人もあんなところがいいよね。
あれ、でも、私が本当に美しいと思うものはなんだっけ。距離を置きたいと思うものはなんだっけ。
すべてをフラットで、平等に、自分の使える体力も、時間も、お金も、心の容量も、距離感も、全部同じでいいんだっけ。
美しいと思うものにはより近づき、苦手だと思うものからは自分の思う邪悪を学びそっと距離を置く。その方が何より「どこかの誰かのラブアンドピース」なんかより「何よりも自分に対してラブ&ピース(愛と平穏)」じゃないかい、と。
でも一人でいると忘れてて、マヒしてて、あれ、私何も感じない人間だったっけ、とか思う。
そんなときに、そういう友達が現れて、「器用に振舞えない」と言う。
あ、そっか、と、
私も、もっと好きとか嫌いとかはっきり言っていいんだ、と思い出すんだよね。
そしてそれは精神的にとても良い。
何も、好きなもの以外すべて拒否!までしなくてもいいから、
嫌い!無理!というのは一番素直な感覚で、防衛反応でもあるのだし、出てくるままでいいのかもしれないと。
それが分かれば、好きなものには「好きです!」とまた素直に言えて、腐りそうになっていた時間から目が覚めて、好きなものの近くにいたい、自分も混ざりたい、もっと好きと感じたい!と、なんというか、気力すら湧いてくるんです。
友達よ、ありがとう。
忘れてた感覚を思い出したら、歌もまた歌えそう。
いつでも鏡のようで、映った自分の姿をみることができた。
だから自分勝手でも無責任でもきれいごとでもなんでもどうでもいいから、どうかそのままでいて!!と思っている。