「出てくるものだけ」

ライブ活動(歌っている)斉藤めいのブログ https://saitome.localinfo.jp/

分かったフリ

1ヵ月前の自分が考えていたことが、ずいぶん幼くみえる。

別に「どんどん成長しています!」っていうわけでもないんだろうけど、グルグルと変化しているんだろう。

 

たまに『暗い』『根暗』だと言われることがあるけど(歌詞や歌の表現がダークに感じるのかも知れない/そもそもこのブログがいけないのかも知れない)、いいえ暗いとか、明るいとか、そんな風に二元的に分けられるもんでもなくて、私はいつでも真剣なのよ、深刻なわけじゃなくて、真剣なのよとただ言いたい。それを、暗いと言われるのかしら?

 

もう、上に書いた言葉から自分が変化している。

 

 

私は思い込みと偏見で生きているのかも知れない。

街を歩いて目についたもの、インターネットの中で見つけた言葉など。

「これはこうだな」「この人は○○っぽいな」とりあえずそう決めて、また次へ行く、「これはきっとこういうことだな」・・・

だって、「これはどうしてこうなんだろう?」「この人は一見○○にみえるけど、本当のところはどうなんだろう?」なんて、いちいち考えてたら、キリないでしょ。

自分でどこかで判断して、そういうことにしないと、やっていけない。

だけどときどき思うのよ、もしかしたら「これはこうだな」って思う「こう」がまったく間違っていたらどうしようって。別に、何も害はないものだったら問題ないじゃない、美味しい林檎を青森産だって決めつけてたけど本当は長野県産だったとしても、それはそんなに重大じゃないじゃない。でも微量の毒入り林檎を身体にいいと思って、または何も考えずに食べ続けていたとしたら、どうなるの。

また、林檎だと思っていたものが、実は林檎じゃなかったら、そのときはどう?

これは別に食物どうこうっていう話ではなくてね、林檎は私の思考なのよ。

だから思い込みで生きる私も時々は考えるのよ。「これは本当にそうなのかな、大丈夫かな」って。自分の考えを更新させて、変化させていくのよ。

 

*

 

企画ライブ、そして初めてのフェス参加、JAMFESが終わって、思い返せば半月たらずで感動的な瞬間がいくつもあった。

企画ライブは「今までで一番良いライブだった」と何人かに言ってもらえ、そこまでか!♪と有頂天になりながら当日の動画をみたら、走りっぱなしでとても完璧とは言えなかった。もちろん動画では伝わらない、場の雰囲気などはあったのだろうけど。

そんな簡単に、満足にさせてなんかもらえないわけだね、フフ、と、自分への悔しさはいつまでも消えず、ただ出会った人達だけは間違いなく暖かかったと、そのぬくもりだけはしっかりと受け止める。

 

ジャムフェスもそう。どんなにもがいても、自分から抜け出せない。本当は自分なんて捨ててしまいたい。自分を見て欲しいなんて、究極を言うとそんなことよりも、あなたがただ幸せならばいいよと。なのになぜ、「自分は、自分は」と思ってしまうんだろう。

そんな私すら「もがいている姿を見てたよ」と肯定してくれる人がいること。

本当はあなたが苦しみなく幸せなら 私は必死になって下手くそな音楽やる必要もないと思っている、だから多分歌うのは誰かのためなんだけど、結局そのことによって自分が誰かの優しさに直に触れることができる。

そういう意味では自分と他人は、違うようでいて同じものかも知れないと思う。他人だけど自分、自分だけど他人、またグルグル回る。

 

 

この前免許を更新しに行ったときに。

最近は本当に、ほぼ自分の好きな場所、好きな人達の近くにしか行かなくなったために、良くも悪くも心が開きっぱなしになってるのですが、

その日は教官が、

「私の授業を聞かない人は今すぐ退出してください。(スティック?のような長い棒で黒板のカツンカツン叩きながら)そこの女性。今下を見ていましたね?(教科書みてた)僕の方を見ないなら出てってもらって結構です。はい、君は回答してくれてありがとう。近頃はお礼を言える若者が少ない。」

的なしゃべり方を2時間ずっとしている人で、「わあああ、そうだ、そうだよね、今の私の周りにいないだけで、こういう人も存在してるんだよね。うわああ。どうしよう、どうしよう」とものすごく戸惑った。

『生きてさえいればいい』『適当でも楽しくいこうぜ!』ってことが間違ってるなんて思わない、でもぬるま湯に浸かっていたつもりもないのだけど、それと真逆の「そんなこといいから教科書の7ページを見ろ、見ないやつは不合格」というような、なんというか圧力のようなものに対して、ずいぶん弱くなったなとしばらくボーっとしてしまった。

 なんでこんなにエラそうなんだよ、本当に出ていってやろうか、という刺激されて荒ぶった気持ちをゆっくり頭の中を整理して、これは自動車教習なので、運転は人の命に関わることだから、厳しくやっているのだな。とか、この人にとってはこの仕事が生きがいなのだろうな、とか、考えて気持ちを落ち着かせたのだった。

 

偉そうに言えることは何もないけど、私は私を保つために何かを思い込もうとしている。だってそうしなきゃどうしようもないじゃない。現に今だって、考えてグルグルし始めちゃったら、気持ち悪くなってきたし。

だったらその「思い込み」を少しでも良い方にしたい。特に害はないのなら「あいつはいい奴」と思っていたい、あいつが悪い奴だったとしてもね。

 

いつも自分が知らなかっただけで、当たり前に存在していた世界にビックリする。

私は私で、こういう風に過ごすのが当たり前になっているのだけど、全然違う人たちもいっぱいいるのか、と当たり前のことに驚く。同じ日本でもね、私のSNSのタイムラインが『声をあげよう!』『格差をなくそう!』と言っていて、世界が変わってるかもと思っても、そんな声はまったくない、聴こえない世界に生きてる人だってたくさんいるんだろう。むしろその方が多いだろう。同じSNSでも可愛い女の子のことや、何か私の知らないもので埋め尽くされている人や、そもそもおばあちゃんみたいに そんな画面はまったく見ていない人もいる。

当たり前だけどね、わかってるけどね、どうも自分の世界は自分からしか見えていないかったみたい。それが仕方ないのなら、思い込みからの自分の仕草を、行動を、少しでも良い方に。少しでも。自分にとって、じゃない。自分にとって都合よくじゃない。あなたにとって、そして私にとっても。それが全然違う世界に生きてる誰かへできる唯一のことだ。

 

ちなみに私はペーパードライバーです、助手席が好き・・・

妙齢、春の暁にご喚弾

あれっ

「言いたいことがいっぱいある、さあ書くぞ」と思って文字を打とうとした瞬間に、頭の中から全部消えた。

進むべき道はハッキリしているのに、自信がなくて、まだ「合ってるの?」って誰かに確認したい状態のまま、かろうじて歩いてきた。

 

嫌な奴に出会った、とてつもなく良い人にも出会った。

私は、ただ「とてつもなく良い」方、そちらだけを見続ければ良い。人間は近くにいるもの、見ているものに勝手に影響されると思う。それならば、私もとてつもなく良いものに出会えたことだけを、見ていれば良いのだと思う。

わかっているのに、「嫌な奴」の方に、”なんでわからないんだよ”とか、”いつか見返してやる”と思ってしまう。"認められなかった"とどこかで思ってしまうこと自体、自ら「嫌なもの」を体に少し取り入れてしまっているみたいになる。

 

誤解される書き方をしてしまったけど、「嫌なもの」とは、自分にとって嫌だというだけで、他の誰かからしたらかけがえのないものかも知れない。

誰だって 自分が自分の物語の主人公だなんて、恐ろしいと思わないか。と東京ディスティニーランドさんが言っていたけれど、私が嫌だと思っているアイツだって、自分の物語を生きているに過ぎない。さすがの私にだって口だけだろ!と分かるお世辞を人に言って周りながら、「自分サイコー」って思っているかも。

 

その、自分にとっては「嫌な」物語でザコキャラクターにされたからといって、なんだというんだ。そんなの取るに足らないことだよ。

「とてつもなく良い」物語を生きてる人をみながら、「とてつもなく良い」と思う自分を生きるしかないじゃないか。

私はいつでもブレブレ。ブレてブレてブレまくる。それが悔しい。いつだって、迷わずに居れたらと思う。悩んでブレてそれがいつか何かに繋がるよって言ったって、いいかげん、迷わないようになりたいのだ。

 

* * *

 

ある飲み会でミュージシャンと話したときに、「お前はすぐに人を持ち上げる癖があるんだよ」と指摘された。なんだかヅケヅケといろいろ言われた。

でも、出会ってすぐなのに本質を見透かされた気持ちと、こっちの気も知らないでこのやろー、という気持ちが一気にブワーと押し寄せてきた。だけどその人は、確かに言い方はヅケヅケでも、嘘をつきたくないのだ、ということがわかった。

向こうは酔っぱらって「言いすぎちゃったな」という雰囲気だし私は「その通りだよバカヤロー、でも私には私が考えてきたことがあるんだから一概に否定すんなよ!」という感じで場は混沌とするし、感情をゴチャゴチャにされつつも、悔しさも怒りもなんだかとても素直に湧いてきたような心持ちになった。

でもなんだか全てこれでいいんだなと思った。もしかしたら相手は変な女を相手にしちまった、と思ってるかも知れなくても、私は、(笑) 何も嘘つくこともなく、無理することもない言葉を口に出来たことで、なんだか閉まってた心の扉的なものが開いた気がした。

 

『これ、嬉しいでしょう?』『哀しいでしょう?』と誰かに押し付けられて感じるのではなく、『こうしなきゃ、ああ言わなきゃ』という意志でもなく、自分の内側から勝手に湧いてきたような感情を言葉にしていた。

相手はまだ若いけど栄光と賞賛を手にしたであろう人だった。きっと、「凄いですね」なんていう言葉は言われ飽きていて、でも、自分がまだまだ(世間では成功したように見えても、より自分の中に目指すものがあるという意味で)未熟ということを自覚していて、きっとお世辞なんかじゃない、言葉だけの上っ面のことなんじゃない、『本当のこと』が聞きたい人なんだと思った。

友川カズキさんと話したときも、同じ感じがした。見え透いたお世辞なんか言おうものなら、「お前は射殺だ」と言われた。

 

そうなんだよ、お茶の間レベルで超有名人とかは事情がまた別かも知れないけど、それ以外、良いミュージシャンであればあるほど、正直で、誰に対してでも本当の意味で対等で、優しいんだよ。斉藤調べ。でもこれは本当だよ!中途半端なやつの方が、とっても上から目線でエラそうなんだよ。上手いかも知れないけどお前に心は揺さぶられねーわ!ってやつの方がね!

 

その人の前では、嘘がつけない、すぐに見破られ、薄っぺらい上辺だけの褒め言葉は正体を暴かれ、本当の自分の真ん中にある心でしか、話しができなくなる。

そして普段そこを閉じていると、案外開くのは難しくて、出てくる言葉がなくなる。

もうすっかり閉じきって、自分でも分からなくなってしまうところだった。

だって、私結構、心を開いてる方だと思ってたけど、人から見れば全然開いていなかった。嫌われたり何か思われるのが怖くて、まったく閉ざしてたことに、やっと気が付いた。本当に自分じゃわからないんだよ、驚くほどに。

 

『自分の気持ちに素直に!』なんて言葉は、言われすぎて、形だけになっている。でもその本当の意味を実践することは、本当はとても難しい。

でも、そうありたい、と望んだら、すでにそうである人が、ちょっと強引にでも凝り固まったものをこじ開けてくれるのかも知れない。そこに最初に必要なのは自分の意識で、そのあと必要なのが「素敵な人たち」かも。

だから私は「とてつもなく素敵な人」たちを見る、ブレる心はいろんなものに捕らわれそうになってしまうけど、そっちを見るようになるべくする!

 

-------------------------------------------------

告知をします!宣伝だ宣伝だ!!

 

 4/23(土) 新宿dues

    優雅灯×斎藤めい企画 『妙齢、春の暁にご喚弾』

  OPEN 17:50 / START18:00 予約¥2,000 当日¥2,500円 +D代

  共演:優雅灯 / 高橋ルミ子 / 吉美四季(シキソクゼクウ) / 丸橋ミケ(黒猫財閥、艶街)

 

優雅灯というバンドとの共同企画ライブです。

優雅灯のボーカル、空詩(からし)お姉さんは、ブレない人です。だから私はからし姉さんみたいになりたかった。とすら思います。是非、来てください。

私が誘った高橋ルミ子ちゃんも、低音の効いたすごく良い声で唄うんです。

ぜひ来てください。

 

  5/20(日) 高円寺喜楽

 【日常IGNITION vol.3】

  OPEN 19:00 START 19:30 当日/前売り¥1000

  出演:オーノ アキコ(60'whales) / 林 明日香(water closet) /トンカツ(二宮友和ex.eastern youth) / 工藤テッキン(ex.HUSKING BEE

  DJ ポール シモノン

 

テッキンさんとかトンカツさんはまさに、『とてつもなく素敵な』人です。

オーノさんと林さんは本番で初めて聴くのだけれど、悦士さんいわく「ドギモ抜かれる」お姉さま方です。 

 

ご予約はこちらまで。monbiri_4@yahoo.co.jp

 

*冒頭の飲み会で、私がヅケヅケ言われている横から、また別のミュージシャンが「その心の扉あけてみてえなあ~!!」と笑いながら言って、場の空気が一気に許されたのを感じた。言い過ぎな相手と、泣いてるめんどくさい私も、このままで良いんだと、それで許されてる感じがした。人には役割があり、説教する人も、説教受ける人も、なごます人も、それはそれで、『自分』というものに素直に向き合って自然に振る舞った結果ならオーライ、ということなのかも知れないと思った。

 

長くなりましたが、今日は以上です。

上手にやれてる?

私、すべてのことはバランスだと思ってるんです。

感情も、食べ物も、人間関係も政治も話し方もオシャレも生活も、何もかも。

 

久しぶりに。

仕事中に、ふと上司に「ここ間違ってるよ」と言われた。上司は良い人で、ただ指摘した、という様子。すぐ直せば特に支障はないけれど、普通だったら間違えないところで、

私はちょっとボケていたのだなと、「あっすみません!」と訂正して、特に何もなく、終わった。

そんな小さな出来事で、一瞬で脳みそ・思考の中に『私なんでこんなことで間違えたんだろう、どうして普通の人みたく上手くやれないんだろう』という自罰的な感情が一気に巡った。苦しくて、涙すら出そうになった。

そんなとき別の上司に、「会議行ってきます、寝そうだわ」と声をかけられたことで、なんだか救われ、笑顔で「いってらっしゃい」と言うことができて、その後は平穏に過ごすことができた。

 

さすがの私もこのくらいは大丈夫、でも、もし一番悪いときの私、弱っている時、もしくは自分なんてダメだ!とマックスで思っているときの私だったら、

そのまま泣いてトイレに籠って出てこなかったかも知れないという可能性もある。

 

 

『そんなことで!』と思うか。

そう、私が体験したことは、ほんのささいなことだと思う。そして今の私は、元からの自罰的に考えてしまう癖が、わりと楽観的に考えられるようにもなってきて、「こんなささいなことで、自分、弱!笑」と笑えるようにもなっているし、人に見せないことで、誰にも迷惑かけず惑わすことなく、一人で完結することができる。我慢をすれば迷惑をかけないですむでしょう、と。実際、このくらいならいくら弱弱な私でも、我慢できる。

 

でも、もしも。

指摘した上司がめちゃめちゃ怖い人で、怒鳴ったり、すごく嫌味な言い方をされたとしたら。

自分が犯したのが些細ではなく、取り返しのつかないようなミスだったとしたら。

会社がブラックで、ミスしたときに給料が減らされる仕組みだった、とかだったりしたら。

職場の雰囲気がギスギスしていて、少しのミスも許されない、白い目で見られてしまう環境だったとしたら。

職場はともかく、私生活で、身内が死にそうとか恋人にふられたとか、孤独だとか、耐え難い悲しみがあったとしたら。

私よりももっともっと深く自分を責めてしまう、責任感のすごく強い性格だったとしたら。

もしくはそれ全部当てはまってたとしたら。

同じように『そんなことで』と思われるのだろうか、そしてどこまで当てはまってれば、「それなら仕方がないね」と許されるんだろうか。

そして当然ながら、もし同じ条件でも、人によって感じるか何も感じないかの境界も違うだろうけど、一体どの人は良くてどの人はダメ、とかあるんだろうか。

 

 

感情は、そこにある時点で、許されるとか許されない以前に、良いも悪いも、仕方ないもあるも何もないと思う。

そこにあっていいものだと思う、というか、あるんだから、見えなくても、物理的に、「ペンがあります」と同じだと思う。

 

我慢強すぎて、我慢して我慢して、その”感情”がよくわからないうちに身体を壊したり鬱になる人もいれば、 感情を一切我慢することなく、人に危害をくわえたり、傷つけないまでも迷惑をかける人もいるかも知れない。

それもバランスの問題だと思う。”感情を我慢する” 方に針が振り切れてしまっているか、”我慢しない”に振り切れているか。   

我慢する(_. )しない 我慢する( ._)しない ←メーター

 

 

そしてもし、振り切れがちだったとしても、それが許される”環境”があれば、快適に生きてゆけるかも知れないし、

どっちかに寄っていても、自分の感情と相談して「なんとかやっていけそうだなあ」と思えるところでバランスをとれれば、生きていけるのかも知れない。

バランスをとっている感覚もなしに、自然と自然でいられるのであればそれは おぉ、合ってるね君、ということだしそれは良かったねえとなるのだけど、そんな人ばかりではないことは明白でしょう。

言い始めたら話はいくらでも拡大できてしまう。「これは職場の話だけど、人間全体になるとどうだ」とか「労働環境が~」とか言っていくといくらでも飛躍してしまいそうなので、このくらいに留めておきます。

 

とにかく私は「寝そうだわ」と言った上司の、人間くさいセリフに瞬間救われた。

会議のとき寝ちゃダメ!という圧倒的に正しそうな『常識』はありつつも、人間だから仕方ないよね、と無意識に許されたような感覚に。

 

 

何が言いたいかっていうと。

私は繊細だから 泣いちゃっても人間の自然な感情だし許してね、ってことではなくて、ですね。

 

何を我慢できて何に傷つくかは、人によって全然違う。

全然違うから、いちいち汲んであげないとダメということもないだろう。

でも、もし誰かが崩れ落ちそうになってしまったとき、それは必死にバランスをとろうとしたけれど上手くいかなかった結果であったときには、受け入れることができるようでありたいと思った。

仕方がない、あるじゃなしに、「ペンがあります」と同じ、ここにあるんだよ、どうしようもないじゃん、というものを、受け入れて許すということ。

 

堅苦しい空気は依然としてつづく。

要は「みんな耐えられるラインは全然違うよね」を、一律化して「ここまでは出来て当たり前!出来なかったら失格!」みたいな。なんとなく、分かるでしょう。

私は耐えられなくて逃げた。自分にとって良い環境に、我慢しなくても、むしろ我慢しないほうが受け入れられるような環境に。でも逃げられない人もいるだろう。

それでもね、気付いてる人は確実に増え、受け入れないといけない、と思う人は静かにどこかにいると思う。

もし苦しい環境から逃げなければ、苦しさと上手くいかなさゆえに、自分をくそ野郎だと思い続けていたであろう 私は思います。

 

そんなことを考えながら作った曲です、

『衝動が走り出すんだ』。

・・・たまには曲紹介したっていいじゃないですか、ねえ

 

soundcloud.com

時も土地も 地続きでつづいている

自分が思うことを言ったら、否定されるかも知れない。

それでも、今言わなければ、声を上げなければいけない。

たとえ否定されようとも、今、自分の命(までは大げさかも知れないけれど)を使わなければ、どうするんだ

という気持ちで声を上げる人をとても尊敬する。

それは、もともとそういう性格の人だったか、出来れば言いたくはなかったのだけど どうしても必要にかられて言わざるを得なくなったのかはわからない。それでも、一ミリでも動いたことに意味があるのだ。その一ミリが集まれば、何メートルにも何キロにもなるのだ。

 

すみません。私、ありきたりな話をしていますね。

でも、ありきたりだけど自分のこととなると忘れてしまう。

小学校の頃の教科書に、一人じゃとても勝てそうにないでっかい敵に、一匹ずつ寄せ集まって大きくなって、大きな敵を追い払うグッピーの話が載っていて、読んだ。そんな話はそこら中に転がっているというのに、いざ自分のところに周ってくると「こんな自分ひとりじゃ何もできやしないし」と思ってしまう。

それでもね、『元々はそんなこと、本当は言いたくないんだけど、必要にかられて発言・行動をした』というなら、そのことをただ希望に思うし、自分もその機会を自分のやり方で 一番効果的かつタイミングのいいときにいつか出来はしないかと狙っている。本当は、行動は継続した方がいいのだけど、普段考えてなさそうな人が言うのが効果的なタイミングも、きっとある。

 

こんなこと言いながら、でも、社会的な発言というか、何かこの世の中についての意見をもし言ったら、「あいつは面倒くさい奴だ」と思われるんじゃないか、と内心不安になってしまう。あの人に嫌われるんじゃないかと思ってしまう。

その不安はギリギリまである。でもきっと、我慢できなくなったら、もうこれ以上は黙っていたらダメだと、勝手に溢れてくるときは来るかも知れない。

自分がいつも正しいとは限らないけど、こらえてもこらえても溢れてくるものが間違いということはない。

 

うっすら、ずっと、そう思ってきたけれど、5年前を境に確かにそう思っている。

それは私だけじゃない。

少しずつ『特別意識が高い人』を越えて、普通の私たちにまで浸透し始めている、意識。無駄なものもきっと多いし、わかりやすい悪人は今も昔もずっといるけど、それよりも私たちの中にそっと燃えている炎を消さないよう少しでも空気を入れ続ける。

本日だけは

そこそこ充実した日々を送ってるように思っていたら、「忘れてるぞ、お前」と何か大事なことを思い出す。

忘れているわけじゃないんだ、「待って、今は自分のことで手一杯だから、そのことはちょっと待ってて」と思う、それは間違いじゃない。でも、自分はこんなもんだったっけ、って焦って取り戻そうとする。

 

充実した日々を、着実に過ごせているような気もする。

でも、家族からの電話、友達の報せ、日々どうしようもないものと戦う人達の言葉を、

私は胸に留めないと。それを留めない事には、今やっていることさえ、まったく意味のないこと。

 

充実した、私!なんて思いたいがために、やっているわけじゃない。

重苦しいと言われたとしてもいい、生きている誰かの、切実な思いを私はみつけて形にしたいのだ。重苦しいから苦しいを取って、重くていい、重くていいから美しいものを大事にすることが、多分私の役割だ。

 

--------------------------

 

こんなことは考えないようにしよう、と思ってはいても、どうしても慣れた方に考えが流されてしまう。

私はどこかで、「サラリーマンとかふつうに、まっとうに働いている人には、私の歌なんて響かないんだろうな」なんて思ってた。似た者同士にしか通じないでしょうね、と。

でも「心に来るものがありました」と言ってくれた人がいた、スーツ姿仕事帰りのサラリーマン。「俺も何かしなきゃ」と。

何がまっとうで何がまともじゃないかなんて、決められてない、何も区切られてることなんてない。私からしたらピシッとスーツを着て週5日時間守って朝から夜まで働いて、なんて人は、なんてまともなんだろう、私はもう、そうはなれないんだろうな、といつのまにか思ってしまっていたけど、それは環境の違いであって、見えない心の中は渦巻いているのだと、それは人それぞれだし、スーツに包まれているかどうかは関係がない、と。

 

 

考えを変えるのは力がいる、疲れる。今までのやり方で考えて、そのままやってた方がよっぽど楽だけど、私は自分の考えをまず変えたい。

「こういう人は、こうだろう」と勝手に考えてしまっていたことを、「こうかも知れないけど、でも」信じたいんです。

 

信じる、だとか、変える、だとか、闘うとかまっとうだとか、重い言葉は使いたくなくてあえてあまり使わないようにしてたけど、

なんだか今日だけは それを使ってでも、言いたい事があった気がしたので。

 

------------------------------------------------------------

ぼやいてるだけ↓

 

悲しい思いをしているであろう友人が居て、でもきっといつかは立ち直っていく強さがあるんだろうな、でもやっぱりそれでも、今は辛いだろうなと思って、「いつでも近くに行きます」と伝えることは出来ても、それ以上は何もできない。でも出来ないからこそ、出来ることがある。今は言葉で元気づけたところで無力、無力。傍には私よりもっと近しい人がいて今は彼女を励ましているだろう。それでもね、今は毎日一緒にいるわけでもない無力無力な私が「実は元気になるようすごく強く思ってましたよ」ってもしもあとで乗り切ったときにちょっとでも伝わったら、それはちょっと生きるのが嬉しくなるように思ってくれるんじゃないか、押し付けがましくなんて決してなりたくはないけど、別に好きでやってることだし趣味です、って感じでね、何も求めなければいいでしょ別に、勝手ですよねと思ってる。誰かの役に立ちたいなんてそんな独りよがりなことは思わない、ただそう思うしそれが別に許されるからやりますと、はい、やっぱり重いのかしら私?いいや軽いですよ綿毛並みですよ、とひたすら頭の中でグルグルグルグル思っている。多分寝不足のせい。

濁り

書いては消しーので、10件くらい下書きフォルダに入ったままの書きかけ文章があるけれど、今日のこそは公開する、と宣言。

 

「どんなことでも否定から入らず、嫌いになるなら肯定してから嫌いになる」、

そうしないと本当にそれがどんなものなのかわからない、物事にはいろんな面から見る余地があるんだから、見逃してしまわないために……とかいつも言っているんだけど、

当然、『嫌だコレ!』と反射的に思ってしまうことはある、当たり前に。

その場合、あとからその理由をよく考えるのだけど、間違ってないなと実感できたとき、反射神経に従ってOKだな、とも思う。

 

その違和感は、言葉のキツイ優しい具合はどうあれ、「自分が正しい。この言葉に従っておけ」というニュアンスが感じとれる誰かのセリフの中に感じることが多いことに気が付いた。

そんなことを言われたって、その人自身のようになりたい、その人に憧れる、という境地じゃない限りは、誠に恐れ多くも正直言うと、「その人自身も未熟な中から発している言葉」というように感じてしまう。平たく言うと「あなたに見れてない面があって、私にしか見れてないまた別の面もあって、それをまったく考慮しないで言っているでしょ」ということがあるということ。

 

誤解されたくないのが、何か厳しいことを言ってくれる人が嫌なわけじゃない。

だいたいの人は誰かの(私の)為に指摘をしてくれ、そしてそれは取り入れる取り入れないに関わらず、自分にとって必要なことだ。だから上に書いたようなことをいつも言っている。ズバッと的確に「こうすれば」と言われ、すんなり胸に刺さって、以後それを続けて、当たり前に身になってる、なんてことだってある。

こんな不束者に時間と労力を割いて頂けることに、大いなる感謝をしたいくらい。

 

でも中には、そんな風に、「なるべく全てを取り入れたい」と思っていたとしても、

「耳を塞ぎたい今」とか、「もうわかったから」と思ってしまうようなことが確かにあって、その感覚は後から考えるとわりと正しいことが多い、ということ。

それは、やっぱり「私への言葉」というよりも、その人自身の事情が見え隠れし、ちょっとした押しつけのようなものを感じてしまう時だと思う。

 

「自分みたいにやれば成功する」と言われ、『でも特にあの人みたいになりたいわけじゃないなあ』と思ってしまったこと。

人間としては、悪い人ではない嫌いではない人だけど、「僕みたいな成功がゴールだからマネしろ」と言われても、私はそれは違う、と言いたくなってしまう。その人は金銭面で、生活面で確かに成功をしていて、それは確かに尊敬すべきところで取り入れた方が良い意見もあるのだけど、私はその人の生活がゴールなんかじゃない、良い車に乗ったら満足できるわけなんかじゃなかった。

 

また違う人に、「あんな界隈で満足してちゃダメだ」と言われた。

もちろん、内輪ノリで完結することは、ただの生活の上(仲間との飲み会とか)だったらそれで充分といえど少しでも何か 自主的に活動をする活動(芸術活動 音楽とか)をするのなら、確かにそれだけじゃダメだと、そもそも私も内輪だけの賑わしが大の苦手だし、その通りだとは思う。

でもその「あんな界隈」のあなたは何を知っているのか、とも思う。もしかしたらあなたには分からない、深さや鮮やかさを帯びた環境かもしれないじゃない。いやそうじゃないとしても、「そこにいる一人一人」までもを否定はできないはず、そこにいる人間の仄暗くて美しくて切実でどうしようもない深さを私は見たことがあるよ、と言いたい。

そもそも上から目線で「あいつらダメだ」って言われたって、下から目線で「あいつら偉そうだなあ」と返されてしまうよ、界隈なんて、気付かないだけで自分も『自分は成功者だと思ってる界隈』にいるのかも知れないのだから。そこは心地よいですか?と。

 

誰のことも見下せない。

 

話は変わるようで自分の中では繋がってますが、

今まで自分はあまり積極的に「ライブに来て!」とお客さんに声かけたり、「一緒にこうしていこうよ」と仲間に伝えることができなかった。

「皆忙しいから」「自分の人生があるから」と思ってたし、変に自分に関わって、無駄な時間だと思われてしまうのが怖かったから。

でも人っていっぱいいるんだよな。時間のことはともかく人それぞれとして。

なんとかフェスとか、200人のつもりがお客さんが1万人集まっちゃいましたとか聞いたりするし、

いつもの通勤電車の中にだって、人はいっぱいいる。

もちろん、何かをする、来てもらう、ということは忙しい中時間と労力を使うことに変わりはないんだけど、

楽しいことには人は居る、楽しいのかその人にしかわかんないことでも、いるところには人はいる。

 

だから、不特定多数に呼びかける事は、怖いけど、でも、まだまだ出会えていない人が山ほどいるんだったら、ショボイ憂いは捨てて、勇気というもんをちょっくら出して、

大衆・大勢の中から、誰かいませんかー、この中に、と誰か一人に呼びかけていくのを止めてはいけないのだなと思う。

 

そう人のことばかり気にしすぎる自分も、自分というものの核を、なるべく決めていって、見ている人も自分でさえも安心できるくらいには動かないようにして、続けていくこと。

人のことばかり気にしすぎた。

自分の時間に戻らなくては。

豆をまけ

本当にみんな素晴らしいなあ、と思うのは、私が素晴らしいと思うものしか出会っていないだろうか。

何か見落としているものがあるのじゃないかと疑ってしまう。

 

だけどね、素晴らしい!と思ったからと言って、何かが出来るわけじゃない。「あなた素晴らしいですね」とそっと伝えて、その後は花束を贈るわけでも、ずっと追いかけるわけにもいかず、いつもの場所に戻って、自分のことに邁進するしかないんです。

だからといってそれが嘘な訳ではないし、言ったことはすべてお世辞ではないよ、って言うことを伝えるために自分は動いてるんじゃないかなあと思うわけです。

たくさん出会いたいけど留まりたくはない、欲が強いのかも知れないです。

 

*

 

近頃「こんな自分なんて」と言うのがむしろ失礼だ、と思えることが増えた、おこがましくも。

何かしら声をかけてくれる人がいるからだ。

全てにきちんとお礼して、感謝の気持ちを形にすることはできないけど、

今までに一番辛かったことは「自分なんて価値がない」「自分は何にも出来ない」と思っていたことだったから、今は前ほど、辛いことは少なくなった。

 

でも今、本当に大事なことは「私は価値がある人間かも知れない!」と思うよりも「ありがとう、ではやり続けます」と、ひたすら没頭をすることなので、それがいつかどこかで巡って恩返し(という表現はちょっと大げさだけど、そんなようなもの)になると信じます。

挫けるときは挫ける。そしたら豆をまくんだ!豆を!

 

そして「自分を出し切れてない」と言われ、そうかも、と思う。

ステージの上で熱唱しているのに?そう、うん、まだまだ、だと思う。

叫んで暴れて、でもそれだけじゃ出し切れないものがある。これでもまだまだ良い子でいたくて隠してるとこがきっとあるんだよな。もうちょっと曝け出したいな。もうちょっと。